アドニスが壁に施された彫り物の前に膝をつき祈りを捧げていた。
ゆっくりと顔を上げると、手を広げる。その手の中には大きなシャボン玉のように丸くきらきら輝くものがあった。それをそっと離すと、その小さな球体はゆっ
くり空へと昇っていく。
一日の殆どをアドニスはこの部屋で過ごしていた。
小さな光る球体を作り、それを空へ放つ。アドニスの力が詰まったその球体はこの世界のバランスが崩れると弾けてその力を放出する、らしい。
遠い昔、子に恵まれなかった国王は何日もかかって巨大な光を作った。その光が地上へ降り注ぎ、その中心にいた子は光かがやき国を継ぐ力を持つことができ
た、という。
それは、国を存続させるための最後の方法なのだろう。
けれど、今、その力はいらない。
アドニスは、この世界の安定が長く続くように力を空へ放っている。
そして。
今度はアドニスは光の玉を二つ持って立ち上がった。
潤に気づきにこっと笑うと、外へ出ていく。
神殿の門で、一つをそっと離した。
アドニスの願いを乗せて、それはコリンの宮へ。
もうひとつは、アドニスが手をかざし銀色の球体になる。そして勢いよく上へ放り上げるとあっという間に見えなくなった。
あれは、青く光る地球へ。
季節のないこの地では神殿に入ってからどれほどの月日が流れたのかはもう分からなかった。
潤は光の行く先を見ているアドニスに近づいた。
「食事にしない?」
ここでの生活も慣れてきた。
「ん」
アドニスは返事をすると後ろを向き戻ってこようとした。
なのに、ふっと何かに気づいたようにまた後ろを向く。アドニスが向いた方向を見ると遠くで光るものがあった。それは段々と近づいてきているようだった。
段々と大きくなりゆっくりと近づいてきた光るものは、アドニスが片手を上にあげるとその手の上にちょこんと乗った。
それは、定期便に近かった。
初めて姿を見たとき、「いいのかな?」と潤はアドニスに訊いた。
アドニスは「言葉は通じないからね」と答えた。
絶対違うと思ったけれど、それ以上潤は何も言わなかった。
首に巻きつけられている膨らみを持つ風呂敷はこいつらが自分でやっているわけがない。
「キアは?」
アドニスが掌の上のものに声をかける。
潤は未だに、どっちがどっちか分からなかった。
「きゃん、わっわん」
一応アドニスに答えるけれど、アドニスに通じているのかは、疑問ではある。
空を見ていると、そのうち、ゆらゆらと不安定に揺れながら、近づいてくるものが見えた。形がはっきりしてくると、それはキアらしく、体の四倍ほどの大きさ
をもった箱をぶら下げていた。
キアが持つ箱を見て。
段々大きくならないか? ――――と潤は思った。
ゆらゆらと近づいてきたキアは途中で失速したように、落ちた。
「キアっ」
声をあげたアドニスに押されるように、潤はキアが落ちた方へ走った。背ほどある草を掻き分け木の陰で見つけたキアは箱の上でぜいぜいと言っていた。
「お前も――――重いって文句言えよ」
ぼやきがでた。自分たちのためだと分かっているけれど、小さな体にはあまりに可哀想だと思う。
「くぅんっ」
ぜいぜい体を揺らしているのに、まるで抗議するようにキアは吼えた。
潤はキアを掌に載せるとそっと撫でた。そして、箱を手に取ると、重っ、と思った。
箱の中は氷に包まれた肉の塊で、これじゃ重いはずだ、と思った。
水を飲ませて、少し遊んで、というかじゃれて、アドニスが作った光の玉に包まれて、二匹は寂しそうな顔をしながら、帰っていった。
アドニスはずっと、キアとフェイが行った先を見ていた。物心ついた時には既にいつも一緒にいたという二匹は愛しい存在なのだろうと思う。
「食事にしよう」
アドニスがふいに後ろを向く。
「ん」
たとえ離したくないほど愛しくても手元には置かない、それがアドニスのけじめだと潤は思っていた。
テーブルの上はいつもと代わり映えしないメニューで、トウモロコシの粉で作ったパンのようなものと野菜のスープ。
それでも、最初の頃に比べれば味はよくなったと思う。
味がなかったり、塩味が濃かったり、げげっと思っても、アドニスは文句を言わなかった。
「おいしい」
アドニスがスープを一口口に含むと呟く。
「そうか?」
少し嬉しかったりする。文句は言わなくても、お褒めの言葉はあまりいただけない。
「ん。最初はどうなることかと思ったけど」
アドニスが笑う。
自分でもそう思ったよ、と潤は心の中で呟いた。
贅沢ではないけれど、優しい空気の中で穏やかな気持ちでいられる。この場所はそういうところなのだろうと思う。外界との繋がりを絶つのは、周りのざわつき
を消し自分が大切なものだけを考えられるようになのではないか、と思った。
一日、大切な人のために祈る。今のアドニスのように。
「今日は贅沢できるよ」
ケンが用意してくれたものがある。
「ん」
アドニスは言葉短く顔を伏せた。
「これくらいは、いいんじゃないの?」
言葉が通じないからと言いながらも、アドニスにも気になるところがあるのだと思う。
「ん」
アドニスは否定をしなかった。その気持ちは祈りに繋がる。大切な人がいる気持ちを呼び起こさせてくれる。
けれど。
「アドニスさまっ」
突然響いてきた声に、潤はアドニスと見合った。
「アドニスさまっ、アドニスさまっ!」
慌てたように、叫ぶ声はバーニーのものだと潤は思った――――アーリーかもしれないが。
いくらなんでも、どうしたものかと思う。
言葉が通じないわけじゃない。しきたりもよく知っているはずだ。
「アドニスさまっ」
呼ぶ声は止まりそうになかった。
「どうする?」
潤はアドニスをうかがった。
「何があったんだろう」
アドニスは険しい顔をして席を立った。
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