ふっと体が浮いたと思うと、地上がみるみる遠くなっていく。ケンの姿もキアもフェイも小さくなっていった。
自分一人だけになる。
アドニスは絶対に守っていかなければいけない、と潤は思った。
神殿に着くころには、空は明るくなっていた。
馬車が止まり、ドアを開けて降りるように手を差し伸べてくれたのは、アドニスだった。
久しぶりに触れたアドニスの手に、潤の胸は熱くなった。
「いいの? 潤、本当に」
アドニスの目は潤んで光っていた。
「ん、誓う」
今までは言えなかった言葉がすっと出た。
守っていく、ずっと。それは、自分の気持ちだけじゃない。
石が積み上げられただけの神殿の門が目の前にあり、横にバーニーとアーリーが立っていた。
「本来ならば、国王さま、コリンさま、側近のもの達もお見送りのために並ぶことになるのですが――――」
たぶん、バーニーだと思える人がそう言って頭を下げる。
「潤が男だってことは内緒だから」
アドニスが小声で付け加えた。
「この門を通ったら、帰ることはできないよ。本当にいいの?」
アドニスが念を押すように訊いてくる。
「いいよ」
神殿の入り口と言われるそれは、なんの変哲もない石造りのものだ。アーチ型の門の向こうは石畳でその先は木しか見えない。本当に神殿があるかどうかは誰も
確かめたわけじゃない。
畑の下地を作るために山にしばらく登っていたけれど、門をくぐってはいけないと言われていた。
「まさか、門をくぐったらバリアで閉ざされて外に出られなくなるってことはないよね」
ある、と言われても不思議はない。
もし、そんなことがあったら、せっかく作った畑も何も全部無駄になってしまう。
「そんなことはないけど」
アドニスが笑う。
「狭いところで生きている僕らにとって、ひとつひとつの決めごとはとても大切なことなんだ。
破ることは全てが崩壊に繋がっていく」
アドニスの説明はすっと心に沁みていく。
「だから、守ろうとするんだ」
命をかけてまで。
「そうだね」
守りたいものはあった。
「俺もその中に入れて欲しい」
潤はアドニスの手を取った。
「我々はこの中へは入れません。どうか、お健やかに」
バーニーとアーリーが揃って、頭を下げる。
「ありがとう、バーニー、アーリー。みんなにもありがとうと伝えてください」
アドニスが言うと、二人は揃ってまた頭を下げた。
馬車がバーニーとアーリーを乗せて地面を蹴る。それは、ふわっと浮き上がり、馬は空を駆けていく。
最後まで見送ると言ったバーニーとアーリーにアドニスは首を縦に振らなかった。
根負けしたのは、バーニー達の方だった。
中がどうなっているか分からないところで、荷を解くことも片付けもどれほどの時間がかかるか分からない。支度を始めるのは早ければ早いほどいいと、誰もが
思うだろう。
二人で並び、小さくなっていく馬車を見えなくなるまで見ていた。
「潤、地上へ帰してあげるよ」
予想もしなかった言葉がアドニスから出てきた。
「は?」
「僕のために、潤が犠牲になることはない」
――――犠牲?
そんなことは思っていなかった。
「あ……そう。じゃあ、アドニスは好きにすればいい」
アドニスに背を向けると、潤は一人門をくぐろうとした。
「潤、だめだよ」
アドニスが手掴まえて引っ張る。
「俺のこと、そんなに嫌い?」
アドニスには何も言わずケンのところへ行った時、あれだけ心配してくれた。それがアドニスの気持ちだと思った。最初肌を重ねたときも、記憶を戻してくれた
ときも、心が触れ合う瞬間を感じたのに、時に、酷く遠くにも感じる。
「そんなこと……」
アドニスが頭をふる。
「記憶は消してあげられない。僕の力を全て使っても潤から記憶を消せる自信はない。僕はすごく簡単に考えていた。同じく過ごした時間だけを消せばいいのか
と思ったのに、僕の記憶は色々なところに散りばめられていて、消したと思っても消えていなくて、結局、立っていられないほど力を全て使っていた。その時よ
りも、長い時間が過ぎているから、一度では無理だよ。でも、地上へ届けてあげることはできる」
「だから?」
「潤、帰りたがっていたよね?」
「いつのことだよ」
そんなことはあったとしても忘れた。
「こんな狭い空間で閉じ込められたも同然のことが、幸せだとは思えないよ――――潤には幸せになって欲しい」
アドニスは掴んでいた潤の手を口元へ持っていった。ゆっくりアドニスが目を閉じる。潤は手に熱を感じた。体の中へ染み込んでいくような熱に、苛立っていた
気持ちが落ち着いてくる。
「自分の幸せを、俺は選べないわけ?」
「そんなことないよ。だから――――」
目を開いたアドニスの瞳は潤んでいた。
「俺のこと嫌い?」
ケンの思いを知りながら、帰れるわけがない。
「潤。一時の同情は後で後悔するだけだ」
「俺は地上へ帰されたら、その瞬間後悔するよ」
記憶そのままでなんて、拷問としか思えない。
「でも、僕は――――自分を犠牲にしてまで思ってもらうほどのやつじゃない」
アドニスがゆっくりと頭を振る。
「犠牲なんて思ってないよっ」
傍にいたいと思っただけだった。
「僕は自分の役目を果たすことができない。生きてる価値なんてないやつだよ」
――――価値?
そんなの誰が決めるんだと思う。
「じゃあ――――俺だって、自分の役目を果たせないやつだよ。お前を子を産むことなんてできない」
「でも、それは、潤の責任じゃない。潤は自分の意志に関係なくただ連れてこられただけ――――」
一度は納得したのかと思ったのに、それはそう見せていただけなのか、と潤は思った。アドニスの気持ちは、やっぱり、そう簡単には変えられないものだったら
しい。
「じゃあ、お前は自分の意志で生まれてきたの? 自分で生まれるところを選んだのか?」
アドニスが顔を歪め口を噤むと、目を伏せた。
「役目を果たせないなら生きてる価値はないって言うのなら、俺だって生きてる価値はない――――」
「そんなことないっ!」
アドニスが叫ぶ。
「きっと、今アドニスが俺に対して思う以上の気持ちをケンもバーニーもアーリーもキアもフェイも、俺が知らない多くの人がお前に対して持ってると思うよ。
俺は帰るわけにはいかないよ。お前を一人で置いてはいけない」
分かって欲しいと思う。
アドニスが分かってくれなければ、何も始まらない。
顔を伏せたアドニスの体の力が抜けていくことを感じた。
「……いいのかな」
アドニスが目を伏せたまま、呟く。
「いいに、決まってるだろ」
潤がアドニスの顎に手をかけて上を向かせると、アドニスは泣きそうに顔を歪めていた。
その顔が愛しくて、潤はアドニスの口を塞いでいた。
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