ちょっと待てよ、と潤は思った。
大人しく帰ると言った方が良かったんじゃないのか。
地球が月の裏にあるってどういうことだよ。
宇宙を飛んできたってこと?
それとも、どこでもドア?
少なくとも、尋常なことじゃない。
「まあ、驚くのも分かるけど。それ以上のことはアドニスの意識が戻ってからにしよう」
ケンが肩をぽんと叩いてくる。
信じられないということも含めて、潤には返す言葉がなかった。
アドニスの意識が戻るというのは簡単なことではなかったらしい。
バーニーが用意してくれたお茶は空になって久しい。
空には紫色のベールがかかっていた。
ケンは言葉もなく、窓の外を見上げていた。
バーニーはお茶を持ってきた後アドニスの部屋に入り、それから一度も出てこない。
潤はソファに体を沈め、時々うつらうつらしていた。
寝てしまいそうになってはっと起きる、そんなことを繰り返していた。
ドアの音がして顔を向けると、バーニーが出てきた。
「アドニスさまが気づかれましたが、お会いになりますか?」
「顔だけ見てこよう、な」
ケンが誘いかけてくる。
「あ、うん」
せっかく起きていたのだし、と思った。自分の手はアドニスの服を掴んでいた。その意味が分からない。
明りがついていない薄暗い中、柔らかい光の中にアドニスはいた。
この光はどこから来るものなのだろうと始めは思った。けれど、それはアドニス本人が放っているのだとすぐに気づいた。
光る人を見たのは初めてなのに、潤にそれほどの驚きはなかった。
「ごめん、潤。帰してあげられなかったね」
その声を聞いた途端に、潤は胸が熱くなってきた。なんでこんな気持ちになってしまうのか自分でも分からない。声を出したら熱いものが零れてしまいそうな気
がして、答えることはおろか声をだすことさえできなかった。
「……なんで、ケンがいるの?」
一度ゆっくりと息を吐いたアドニスが言う。
「データスさまは慌てていたぞ。お前、なんかした?」
「……手紙を。でも、朝になったら渡して欲しいって言ったのに」
またゆっくりと息を吐く。
話をすることさえ、辛いのだろうと思えた。
「とりあえず、ゆっくり休め」
ケンはアドニスの頭に触れる。そのことに、潤は胸がつんと痛んだ。
「ん。ごめん」
「じゃあ、俺達は向こうの部屋にいるから」
ケンの手がアドニスの頭を撫でる。潤はその手を恨めしく思った。
「行こう」
アドニスから離れたケンに肩を押されて、後ろ髪を引かれる思いをしながらも潤はケンと共に部屋を後にした。
「そんな、情けない顔するな」
部屋を出ると、ケンが耳元で囁く。
自分がどんな顔をしているかなんて分からない。けれど、胸の中に淀んだもやがかかっていた。
「記憶はないんだろ?」
ケンが聞いてくる。
「何の?」
たぶん、ケンの問いにはイエスと答えればいいのだろうと思う。記憶がないんだろと聞かれてもそれが本当にあったものなのか分からない。
アドニスもバーニーも、ケンも信じていいやつかどうかも分からない。
「例えば、足を怪我したこととか」
「知らないよ」
――――足を怪我? どうして?
「じゃあ、そんな顔することないだろ」
なら、どんな顔をしろと言うんだと思う。
分からない。知らない。
けれど。
胸の奥から湧き上がってくる割り切れない気持ちを抑えることができなかった。
「少しお休みになった方がよろしいと思いますので、こちらへ」
バーニーが部屋から通じるもう一つのドアへ促す。
部屋に入ると、懐かしい気がした。
「俺は前に使っていた部屋を使っていいかな」
ケンが言う。
「どうぞ。アドニスさまはそのままに残されておいでです」
「そうか。じゃあな」
ケンは挨拶のように手を上げると、部屋を出て行った。
「では、ごゆっくり」
バーニーも頭を下げると部屋を出ていき、薄暗い部屋の中潤は一人で残された。
ベッドに腰を下ろすと、柔らかいスプリングが体を支えてくれる。
疲れてはいた。さっきまで何度もうとうとしていた。けれど、さっき見たアドニスの姿が脳裏を離れない。
ドアを二つ隔てた向こうに居ることは分かっていた。
「少しだけ」
潤は部屋を抜けると、アドニスがいる部屋のドアを開けた。アドニスは先ほどと同じ淡い光の中にいた。
「どうかしたの?」
アドニスの声はどこか温かかった。
「ごめん、起こす気はなかったんだ」
潤はアドニスに近づいた。ただ、気になる存在だった。
「ごめんね、潤」
アドニスがベッドの中から手を伸ばす。その手を潤を掴んだ。
「悪いけど、俺なんで謝られてんのか、分かんないよ」
握ったアドニスの手は冷たかった。
「ん、そうだね。もう少し待って。次には必ず帰してあげるから」
アドニスが辛そうに、息を吐く。
「しゃべんなくていいよ。少し休んだ方がいいんだろ」
潤はアドニスの手を口元へもっていった。なぜ、こんなことをするのか自分でも分からなかった。
「ん」
アドニスがゆっくりと目を閉じる。
傍を離れたくなかった。ずっと、この手を掴んでいたかった。
潤はベッドの脇に膝を落とすと、両手でアドニスの手を包み込んだ。
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