潤がアドニスの後に付いていくと、通された部屋は壁が白く小さくて、ただ真ん中に椅子がひとつ置かれていた。
「ここに座って」
アドニスは部屋の中央に進むと椅子に手をかけた。
その椅子に座ったら全て終わってしまう。潤はそんな気がした。
「聞いてもいい?」
潤はドアを背に立ち止まったまま、アドニスに問いかけた。
「何?」
アドニスが怪訝そうな顔をする。
「俺は子を産むか命を落とすかでしかこの宮を出られないと聞いたよ」
「うん、そうだね。確かにそう言った」
「禁忌を犯すと、災いが起きるんだろ」
そうも言っていたはずだ。
「大丈夫だよ。潤は何も心配することはない。嫌なことは忘れて元の生活に戻れる」
――――嫌なこと? 何が?
きっと、椅子に座ったら記憶を消されてしまうんだ、と思う。記憶の操作を簡単だとアドニスは言った。
このまま忘れて――――。
「潤、時間がないんだ。今夜は丁度月の影に隠れる。今を逃したらまた少し待たなくちゃいけない。地上へはいつでも行けるわけじゃないんだ」
アドニスは急かすように続けた。
もう少し帰るのが後になる?
だからと言って、このまま帰ってしまうのは何か後ろ髪を引かれる。
ふっと潤は思い出したことがあった。
アドニスは、自分が命を失えば自由になれる言った。そんなことはないと思っていたけれど、ケンの言葉も気になった。
「ごめん、潤」
アドニスが右手を上げる。
「え?」
潤は左手を掴まれた気がした。そのまま強い力で引かれて、嫌だと思うのに体が椅子に近づいていく。
「ちょっと待っ!」
行きたくないと思っても、体は言うことをきかない。足を止めようと思うのにその意志は目的まで繋がる前に消えていってしまうようだった。
「アドニスっ!」
訴えても、アドニスは無表情で何も答えてはくれなかった。
アドニスの脇を周り、椅子の前に立つと、とんと押されたように潤は座ってしまった。バーニーができることをアドニスができないわけがなかった。
「アドニス?」
横に立つアドニスを見上げると、アドニスが寂しげに笑う。
「大丈夫。目を閉じて」
手を目にかざされると、意志に反して目蓋が下りていく。
――――このまま?
「アド――――」
声まで出なくなる。
嫌だ――――そう思った。
疑問はある。このまま全てを忘れてしまうのは嫌だ。アドニスもバーニーも忘れたくない。キアもフェイも、ケンも。
この後どうなってしまうのか。
アドニスはどうするつもりなのか。
何も分からないまま、全てを忘れて元の生活に戻るのは絶対嫌だと思った。
体は何かに優しく抱きかかえられているようで、けれどびくとも動かない。目も開けられない。声も出せない。
このままじゃ嫌だ。そう思って逃れようとしても、まるで夢の中にいるように体が自由にならない。
嫌だ。
押さえつけられる体に反発するように気持ちは膨らんでいく。
この縛りを破りたい、伸ばしたい。そう思っていた手が何かに触れた。
縋るように潤はその何かを掴んだ。
嫌だと思う気持ちのまま意識は途切れ途切れになっていった。
暗闇の中、潤は遠くから発せられているような声を聞いた。
はっきり聞こえない小さい声は何を言っているのか分からない。
「……して」
声が少しづつ大きくなってくる。
「手を離して」
その声は耳から聞こえるわけではなくて、頭の中に直接話し掛けてくるような気がした。
「潤、手を離して」
――――え?
潤は自分の名前を呼ばれて初めて自分は何かを掴んでいることを感じた。右手に何か布のようなものを掴んでいる。
残念ながら離せと言われて離せるほど素直ではなかった。
これは何?
なぜ、掴んでいるのだろう。
はっきり分かるまでは離せない。
声だけではなくて、手で剥がそうとする。潤は掴んでいる手に更に力を加えた。
「潤」
自分の名前を呼ぶのに聞いたことのない声だと思う。
何かに押さえつけられているように目蓋が重くて目が開けられなくて、けれど、それは次第に緩んでいった。
ゆっくりと目を開けると潤は息を呑んだ。目の前には今まで見たことがないほどきれいな顔があった。作り物でもこんなにきれいにできるものなのかと思うほ
ど、白く透明感のある肌にバランスよく配置されたパーツがある。
その中で大きな黒い瞳が揺れていた。
「潤、お願いだから」
声が震えていた。
誰だろうと思う。
これだけきれいな人なら、一度見たことがあるなら忘れるわけがない。向こうは名前を知っているのに、自分は知らない。
自分の手はその人の服を掴んでいた。
自分も見たこともないような服を着ている。まるで、時代を遡ってしまったような雰囲気を感じた。
――――夢?
そう、自分はベッドに入って寝ようとしていたはずだ。
「潤、この手を離して」
手を剥がそうとする。
夢なのに、掴んでいる実感があった。
「なぜ?」
なぜ自分はこの人の服を掴んでいるのだろう。
「このままだと帰れないよ」
きれいな顔を歪める。
「どこへ?」
いったいここはどこなのだろう。
小さな四角い部屋は何もなく、壁も天井も白い。
「潤、お……」
ふわっと天を仰ぐように、目の前の人が倒れこんだ。
「あっ」
思わず潤は手を差し出していた。
がたんと大きな音を立てて椅子が倒れ、潤は座り込んで倒れたその人を抱きかかえていた。
抱きかかえた体に重さを感じて潤は夢だとは思えなかった。
「あんた誰?」
「ここはどこ?」
疑問を口にしても、たった一人、目の前にいるやつは苦しげに顔を歪めるだけで答えてくれそうにはなかった。
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