「ごめん、起こしちゃったね」
アドニスが小さく笑う。
アドニスが直接迎えに来てくれるとは思わなかった。潤はそう思って、ああ、そうかと思う。
恋人に会いに来たんだ――――そう思えばすぐに納得できることだった。
ただ、複雑な思いが胸にくすぶる。
けれど。
「いいよ、そんなこと」
せっかく来てくれたのに、会えなかった方が嫌だ。
「せっかく人手が増えて、これから楽できるかと思ったなのな」
長椅子に腰掛けて、ほお杖をつきながらケンが不服そうに口にした。
「ごめん。でも、早い方が良いだろうと思って。潤にとっては無駄な時間でしかないから」
無駄な時間。
それは、ケンが言っていたことだった。
「そんなことないよ」
潤は反論していた。
「きゅうりの収穫もおもしろかったし……」
きっと、地球にいたら一生やることはなかった。
「そこでやめておいた方がいいよ。段々重労働をされることになるから」
アドニスがくすっと笑う。
「ひでーな」
ケンの不服そうな言葉は本心には聞こえなかった。
息があった言葉のやり取りにつながりの深さを感じる。
きっと、この二人は言いたいことを言い合えるのだと思う。お互いをそれほど深く分かっている。

「じゃあ、行こうか」
アドニスに言われて、潤は答えを躊躇った。
「……そのままでもいいけど、着替える?」
アドニスが訊いてくる。答えを躊躇った理由を探っているようだった。
「あ……」
ケンに借りた服は重宝して使っていた。身軽で動きやすい。
「どっちにしろ、宮で着替えるからどっちでもいいよ」
アドニスは躊躇った理由がそこにはないと判断したようだった。
「あ、着替えるよ」
潤はあわてて言った。
それは、今着ている服が嫌なわけではなかった。その方が少しでも時間を遅らせることができる。アドニスの宮へ帰る時は地上へ帰る時だ。
「ん、分かった」
アドニスが答え、近くにある椅子を引いて座った。
潤は着替えるために、部屋の奥に行きクローゼットを開けた。アドニスの宮から着てきたものは、ケンが洗って干してくれていた。

「もう、いいのか?」
ケンの声が聞こえた。
「ん、キリがないから。どこかで線を引かないとね」
「バーニーは?」
「何も言わない。もう、決めちゃってるみたいだ。それだけはやめてくれって言っても、「はい」って言うだけで、僕にはどうにもできない。ケンに止めてもら うこ ともできないし。他に頼れる人もいない」
二人だけの会話の意味を潤は理解することができなかった。
「俺にバーニーを止めることができると思ってんの?」
「ケン」
「バーニーと俺ぐらいはいいだろ?」
「だめだよ、ケン」
がたん、と椅子が床を叩いたような音がした。
「一生、言ってろ」
「ケ――――んっ」
まるで、途中で口を塞がれたように途切れたアドニスの声は鼻から零れるような息遣いに変わった。
潤は体からすっと力が抜けていくような気がした。初めて、この家に来たときのことが思い出されて着替えの手が止まった。
――――他人がいるってのに
胸にもやもやするものが湧いてくる。
「俺のことは俺の好きにするよ」
ケンの言葉の後、アドニスの答えは聞こえなかった。

「潤?」
呼びかけられて、潤ははっとした。
「すぐ行く」
言いながら振り向くと、アドニスが入り口に立っていた。
「ん」
アドニスは相槌を打つと背中を見せる。
自分がいくら思っても仕方がないんだと思った。アドニスには既に決まった人がいる。自然に忘れるとは思えない。けれど、記憶は消されるとケンは言ってい た。
忘れてまた前の日常に戻る。
胸にくすぶるもやもやを思えば、その方が幸せかもしれないと思った。
ただひとつ気になることがある。
身を沈める――――そうケンは言っていた。
それは、どういう意味なんだろう。


「いい?」
アドニスが両手を広げる。
「うん……いいよ」
もう、時間を延ばす用件もない。アドニスの宮に戻ったら、後は地上へ帰るだけだ。
「じゃあ、ケン」
「ああ」
ケンが片手をあげた。
「ありがとう」
潤が言うと、ケンが笑う。
そして。
「ああ」
優しい声で答えてくれた。
「いくよ」
アドニスの声と共に、ふわっと体が浮いた。
ある高さまで上ると、体は横になって空気を切って進む。
体が空中に浮いていて、それはここへ来た時と同じはずなのに、どこか違った。風を感じるのも同じなのに、それは優しく感じられた。落ちるかもしれないとい う恐怖心もなかった。何かに守られているような感じさえした。
「気持ちいい?」
隣に並んだアドニスが声をかけてくる。
「うん」
それは二度目だからかもしれない。気持ちに余裕ができたのかもしれない。
「それは、良かった」
そう言うと、アドニスは更に高く上っていった。
光の粒が流れていく。近くで見ても、それはきれいだった。

しばらくすると、高い山の上に神殿の影が見えた。
もうすぐかな、と思うと下は街の明りらしい光の粒が流れて行き崖が見える。その上にアドニスの宮があった。

噴水の脇にバーニーが立っていた。
休みだと言っていなかったっけ? と潤は思った。
いつのまにか、ごく自然に地面に降りたっていた。気持ち悪さもめまいもなかった。

「お帰りなさいませ」
バーニーが頭を下げる。
「うん。すぐに始めるから用意してくれる」
「始めるって何を?」
潤はアドニスの前に回りこんだ。
「潤は何も心配することはないよ。地上に帰してあげる。それだけ」
アドニスは潤の肩に手をおいて、にこっと笑った。その笑顔が少し切なげになって、顔を伏せる。
「行こう」
顔を伏せたまま、潤を促すようにアドニスは先に進んだ。


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