「足は辛くないのか?」
背後から声をかけられたと思ったら、ふっと体が浮いて横抱きにされていた。
そうなると逃れることはできない。抵抗したからといって落とされるのは遠慮したかった。
柔らかなラグが敷かれているアドニスの宮とは違う。ケンの家は床も固い板張りだった。
アドニスの恋人ならば、もっと贅沢な暮らしができるのではないかと思う。
確か、弟のコリンの宮には夜伽をするものがいると言っていた。どんな名目であれ、傍に置くことはできそうなのに、と思った。

抱き上げられたら、そのままどこかへ連れて行かれるのかと思っていたのに、ケンは抱き上げたその場でいてくれた。
目を離したらきっと見失ってしまう。そう思ったから、潤はずっとアドニスを追っていた。やがて、光の粒は闇の向こうに消えて見えなくなってしまった。

落胆を持って、潤はケンを見上げた。
「気はすんだか?」
「あ、うん」
ずっと待っていてくれたのかと思った。
ケンは横抱きのまま部屋の奥へ行き、長椅子へ下ろしてくれた。
「ベッドの用意をしてくるから、そこで待ってろ」
「ん」
動けないから仕方ない。けれど、薬のお陰か痛みはだいぶ引いた気がした。
たぶん居間になるのだろうと思う家の入り口から入ったすぐの部屋にはドアがない入り口が二つあった。一つはさっきケンが入っていって薬らしきものを取って きたところで、もうひとつの入り口にケンは入っていった。
潤は不思議な気持ちだった。
両方男だというのが微妙だが、言ってみれば正妻と愛人が一緒にいるようなものだと思う。
ただ、ケンは自分がアドニスに抱かれたことを知らないだろうと思った。
そうでなければ、こんなに優しくしてくれるはずはないと思う。
しばらくするとケンは戻ってきて、横抱きに抱き上げてくれる。
「ごめん。世話かけちゃって」
目を伏せて潤は口にした。胸にくすぶるものはあるから目を見ながら言える自信はなかった。けれど、足を怪我したのは自分が悪い。
「お前も災難だったな」
災難?
そうなのかな、と思う。
連れてこられなければアドニスのことを知らなかった。
知らなければ、思うこともないわけで、平和なありふれた毎日を続けていられた。
けれど、知らないことは幸せだったのだろうか?
「何、もう惚れちゃったの?」
直球で聞かれて潤は胸がどきんと跳ねた。
違うよ――――そういうべきなんだろうと思う。けれど、それは声にはならなかった。
「あいつは、フェロモン振りまき過ぎだな」
ケンが小さなため息を零す。
恋人としては当然の心配だと思った。


白いシーツが敷かれたベッドはやっぱり硬かった。
「これでよければ着替えるといい」
ケンがクローゼットから出したものを放ってくれる。
叢とはいえ寝転んでしまったから、このまま寝るのは気持ち悪くて助かったと思った。
「ありがとう」
今度はケンの目を見て、言えた。
「どういたしまして」
答えはあっさりしていた。
わけのわからないやつの世話までする羽目になってしまって、災難なのはケンの方じゃないかと思う。
渡されたものは、Tシャツのようなものと膝丈ほどのズボンで、久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
「えっと」
「何?」
「あの、ケンさん?」
どう呼んだらいいのか分からなかった。
「ケンでいいよ、何?」
「俺がここで寝たら、ケンはどうするのかと思って」
一緒に寝るのだろうか、と思う。
よく見るシングルベッドよりは一回り大きそうだけれど、二人で寝るには狭そうだと思う。恋人同士なら重なり合って寝ればいいかもしれないが、そういう関係 ではないし、そうなりたいとも思わなかった。

「俺は向こうの長椅子で寝るから、気にしなくていいよ」
「ごめん」
このベッドよりも長椅子の方が固いし狭い。
「お前が気にすることはない。アドニスの宮と違って居心地は悪いだろうけど、それは許してくれ」
「……そんなこと」
潤は頭をふった。
「かえって、落ち着く」
ふわふわのベッドやラグやソファは気持ち良かった。けれど、肩に力が入っていたと思う。ほっとしている自分もいる。
「そりゃ、良かった」
ケンが笑った。険しく見えた表情からは想像できない優しい笑顔だった。
「なぜ、アドニスはあなたを宮へ呼ばないのだろう」
アドニスもバーニーもケンには意見しなかった。それだけ信頼している人物ということだ。ケンが望めば、もっと良い生活ができると思える。
「俺はアドニスの父親である、データスさまのお怒りに触れて宮を追い出されたやつだよ。アドニスも国王である父親には逆らえないさ」
「あ、ごめん」
聞いてはいけないことを聞いてしまったと思った。
「気にすることはない。宮のものなら誰でも知っていることだ」
何でもないようにケンは言う。

「アドニスは、よくここに来るの?」
気になった。
「気になるのか?」
ストレートに聞いてくる。
「少し」
いや、とっても――――それは、心の中にしまっておく。
「あいつだって、自分の立場はわきまえてる。父親が怒った理由も分かっている。だから滅多に来ることはなかった。こんなに長くいたこともない。だから、 よっぽどショックなことがあったのだろうと思っていたよ。父親にいくら急かされても、勃たないもんは無理だよな」
「それって?」
「あいつは女を相手にできないんだ」
それは、さっき、アドニスがいた時の会話からうすうす気づいていたことだった。


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