「では、参りましょう」
入り口を出たところにある噴水は主人がいるいないにかかわらず、水を吹き上げていた。天には大きな青い星が、白くそれよりも大きいたぶん地上では月と呼ば れているものの横に見えた。
バーニーが両手を広げてゆっくりと上に上げると、潤の体がすっと浮いた。羽織れと言われた黒いマントの裾がはためく。
「どうすればいいわけ?」
足に触れるものは何もない。前はこのまま歩けと言われたけれど、歩いていけるところではないとバーニーは言っていた。
「何もしていただかなくて結構です。ただ力を抜いていて下さい」
体は浮いていって地面が遠くなる。バーニーも同じ高さで上がっていく。
どこまで上がるつもりなのか、ここから落ちたら無事ではいないだろうと思う高さを越えて更に上に上がり、屋根が下に小さくなっていく。
薄明かりの中、広がる森は真っ暗に見えた。遠くに光の粒が見えるのは街だろうかと思う。反対側には、高くそびえる山があった。その上に建物の影が見えた。
「どうかなさいましたか?」
バーニーが怪訝そうな声を出した。
「あそこに、誰か住んでいるの?」
潤は高くそびえる山の先を手で示した。
はっきり見えるわけではない。けれど、木の陰ではない、四角い影は何かの建物だと思えた。
「神殿には現在どなたもいらしゃいません」
神殿――――それは、建てられている場所から相応しい名前だと思った。
「神が本当に住んでいそうだ」
まるでギリシャ神話にでてくるような、神がそこで人々の行いを見ているのだと、子供の時に聞けば信じてしまうかもしれないと思う。
「神殿には伝説がございます」
「伝説?」
いよいよそれらしい、と思った。
「長い間、子をもうけることのできなかった国王夫妻が天に一番近いところに神殿を築き下界との繋がりを絶ち神に昼夜祈りを捧げたところ、数年後、下界のと ある夫妻の間に光輝く子が生まれたということです」
「は……」
「国王に知らせるために、使いのものが神殿に行きましたところ、国王夫妻の姿はなかったということです。国王夫妻は神に召され、神のご加護で王家の血が引 き継がれたと、そう言い伝えられております」

「へ……」
潤は神殿へ視線を向けた。
「まだ、この地が地球上にあった遠い昔のことです。時間はあまりありません。早く参りましょう」
バーニーの声と共に、潤の意思に関係なく体は横になり風を感じた。
「目を閉じていらっしゃっても、結構ですよ」
バーニーが振り返る。
「ん」
下に見える地面が動いていた。すぐに宮は森の中へと消えていく。崖の表面が見え、街の光の粒が流れていく。動いているのは自分だと風で分かる。やっと目を 開けていられるほどの風が髪をなびかせる。
どこかへ吸い込まれていくように、体はまっすぐに進んで行った。
気持ちいいのに――――そう言ったアドニスの言葉が思い出されたけれど、そう思える余裕はなかった。
どこまで飛んでいくのだろう。体を縛られている感じはしないけれど、怖くて動かすことはできなかった。
街は過ぎて、下にはぽつぽつと小さな明りがあるだけになった。月明かりだけでは下がどういうところなのかは分からない。ただ、光はそこに人がいる印だと 思った。同じ風景が続く中、体は風を感じていた。バーニーの後ろをただまっすぐに、きっと目的地に向かって飛んでいるのだと思う。

どこほど来たのか、ふっと体が浮いて風が止まった。
顔を上げると、バーニーが空中で立っている。両手をゆっくり握るように下ろすと、エレベータに乗っているように体が浮いた感じがした。けれど、実際は降り ているらしい。
地面が近くなってきていた。
近づくとそこは叢であることが分かった。草に見える細いものが風にゆらゆらとなびいている。
一瞬空中で止まり、ゆっくりと足は地面を感じた。
急にめまいを感じて、潤はしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか?」
頭上から心配そうなバーニーの声が聞こえた。
「ん……」
頭がくらくらして、とても大丈夫だとは言えなかった。けれど、わがままを言って連れてきてもらったのだから、あまり迷惑もかけたくはなかった。
「まだ体も慣れていないので、無理をしない方がよろしいと思います。そこで休んでいらしてください。こちらにアドニス様がいらっしゃるかどうかは分かりま せんので、私が先に行って確かめて参ります」
「大丈夫。行くよ」
ふらっと倒れそうになりながらも、潤は立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
「ん、大丈夫」
早く確かめたい。
ここにアドニスがいなければ、その後はどうするのか。
いなかったとしても、アドニスがどこにいるのか分かるかもしれない。
「では、こちらへ」
バーニーが促す先へ足を出すと、かしゃっと小さな石を踏む音と感触があった。道らしい。バーニーが体を向けた先に明りを零す一軒の家があった。

早くは歩けなくて、バーニーは少し先に行っては待つように立ち止まってくれた。
「先に行っていいよ」
潤はバーニーに声をかけた。目的地がすぐそこに見えて、気分はずいぶん楽になっていた。
ここにいて欲しい。
いや、きっといる。
バーニーはたったひとつの心当たりだと言っていたところだ。

アドニスがいるらしい家を見ながら潤はゆっくりとバーニーの後に付いていった。
庭を挟み家に沿うように細い道はあった。ちょうど建物の裏手に自分達は降りたらしい。たぶん表に入り口があるのだろう、バーニーは先を行く。
宮とは比べ物にならないくらい平屋の小さな家だった。
角を曲がると窓から明りが漏れていた。窓の中が見えて誰かが横切ったと思ったら、その人は戻ってきてゆっくりと窓の方へ振り返った。
――――アドニス?
潤はそこで足が止まった。
言葉にならない思いが体の中を上ってくる。
いた。会える。どうしよう。なんて言おう――――頭の中は忙しく動いていた。
アドニスの視線は何かを追っているようで、その視線の先が窓へ向いたとき、誰かの背中が窓から見えた。
アドニスの他に誰かがいるということは、当然のことだと思う。誰かの家のはずだ。
その誰とも分からない背中がアドニスに重なったとき、潤は体が固まった。
――――キス、した?
はっきり見えたわけじゃない。見えたのは知らないやつの背中だった。けれど、体を屈めるようにした仕草はそうとしか思えなかった。
アドニスと同じように、一度窓から消えたそいつはまた姿を現した。長い黒い髪を後ろで束ねていても、彫りの深い顔立ちとがっしりしているように見えた体は 男 に見えた。
そいつはアドニスの肩を抱くと、今度ははっきりアドニスと唇を重ねた。

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