窓の下を覗き込むと、そこは崖になっているようだった。
つまり、小高い丘の上、周りは森に囲まれているところにこの建物は位置しているらしい。
下に見える道路はひとつの大きな円形の建物に向かって放射状に伸びていて、馬車が往来していた。
少し離れた小高い丘に城のような建物がある。
もしかして、と思う。
向こうの建物はアドニスの弟の宮かもしれない。

「こちらにおいででしたか」
突然背後からかけられた声に潤の体はびくっと震えた。
ゆっくり振り向くと、バーニーが近づいてくる。
「あ……ごめんなさい。入っちゃいけなかった?」
そんなことは言われていないぞ、と心の中では思っても面と向かってそんなことは言えなかった。一度体の自由を奪われたことは、そうとうにショックだったら しい。

「アドニスさまからそのようなことは言われておりません。ただ、アドニスさまがお戻りになられましたので、お部屋の方へお戻りください」
バーニーの言葉の端々にアドニスへの忠誠を感じる。
「あ、うん。分かった」
暇だから探検していただけだ。時間を潰す相手ができれば、それはそれでそっちの方がいい。

「いいよ」
また声が聞こえて、部屋の入り口にアドニスの姿が見えた。
「部屋に戻ることはない。丁度いい、少し宮の中を案内するよ」
アドニスが近づいてくる。
「そうですか」
バーニーがアドニスに向かって少し頭を下げる。
「だから、バーニーもさがっていいよ」
「分かりました」
バーニーはアドニスにもう一度頭を下げ潤にも頭を下げると、部屋を出て行った。
アドニスの命令には何ひとつ逆らわない。バーニーにはそんな雰囲気が漂う。
潤はバーニーが行った先をしばらく見ていた。
「どうかした?」
アドニスが怪訝そうな顔をして潤を見てくる。
「あ、バーニーはアドニスの言葉にはきっと逆らわないんだろうなと思って……」
きっと、いや絶対だと思う。
アドニスはふっと口元を緩めた。
「バーニーは、僕が物心ついたときから傍にいてくれて、ずっと面倒を見てくれた人なんだ。信頼していい人だよ」
そりゃあんたはね、そう潤は心の中でぼやいた。
「ところで、なんでここに居たの?」
潤はうっと言葉に詰まった。探検してましたとは言い辛かった。こんなに早くアドニスが帰ってくるとは思わなかった。まだ日は高い。
「まさか、ここから逃げ出そうとした?」
アドニスが窓を指す。
「まさかっ!」
潤はぶんぶんとかぶりを振った。
この窓から落ちたらきっと生きちゃいないだろうと思う。
「ここから逃げることなんて無理だよ。それだけは分かって欲しい」
アドニスの柔らかい表情が真剣なものになる。
深い森の中、おまけに崖っぷちにあるこの建物から逃げるのは無謀だということは言われなくても分かる。
「だから、逃げようとしたわけじゃないよ」
「そう……良かった」
アドニスはほっとしたような顔をした。そして、潤の隣に立ち外を視線を向けた。
「あれが、王宮だよ」
アドニスが大きな丸い建物を指す。
「うん」
そこは全ての中心に思えた。
「向こうの丘に建つものが弟コリンの宮だ」
思った通りだった。
「ここは、この宮で一番景色がよい部屋なんだ」
廊下の突き当たりに位置しているあたりそうなのだろうと思う。あとは、森しか見えなかった。
「誰かの部屋?」
きれいに整えられて部屋の主を待っているように見える。
「……僕の母の部屋だった、そうだよ」
アドニスが窓の桟に手をかけて視線を伏せた。
「お母さん?」
地上から来たものは、子供を産み帰っていくとアドニスは言った。ということは、もうその人が部屋を使うことはないはずだ。
「僕は母の顔さえ覚えていない。父は王位を継ぐまで時間があるとこの部屋で過ごしていたんだ。その姿を見ているから、この部屋を片付けてしまうことは父を 悲しませるような気がして……この宮を父から譲られた後も、ずっと父がいた時のままにしてある」
アドニスが空を見上げる。
大きな白い星が青い空に浮かんでいた。
きっと、その人は今空の上にある地球にいるのだろうと思う。

「本来ならば、この部屋をキミに用意するべきなんだろうけれど……」
アドニスは途中で口を噤んだ。
「別に、俺は、子供が産めるわけじゃないし」
客人として大切にされるべき人間ではなくて、アドニスのことを思うなら三年も待たずに葬ってしまえばよいはずだ。
「それは、僕の手違いだから……」
アドニスが顔を向けてくる。
息がかかるほど近くに感じて、潤の胸はまたとくんと跳ねた。きれいなやつはどれだけ近くで見てもきれいだ。
「ちゃんと地上へ返してあげるから、だから、少しだけ僕に時間を欲しい」
鳶色の瞳がきらきらと輝いて揺らめいていた。
「ん……」
潤はアドニスの言葉を受け入れていた。
それ以外の答えを思いつきもしなかった。
例えば、今すぐ帰れと言われたら、それも惜しい気がする。戻ってしまえば、どれほど来たいと願っても、二度と来ることはできないだろう。
アドニスが傍にいると、不思議に気持ちが落ち着く。たとえ、あと三年で自分の命が無くなるとしても、それさえ受け止めてしまえそうな気がする。
この腕の中でなら、安らかに眠れそうな気さえした。

――――待てよ
潤は自分の心にストップをかけた。
どれほど傍にいたら安らぐとしても、こいつは自分と同じ男だ。


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