「……もしかして、体を浮かせるとか?」
恐る恐る潤は口にした。
「そういうこともできるよ。空を飛ばせてあげようか?」
「い……いいです」
潤は体を引いて手をひらひらと振った。
「気持ちいいのに」
アドニスが残念そうな顔をする。
「えっと、そのうちに……」
下手に逆らわない方がいいと、本能が命ずる。
「そのうちに……ね」
アドニスは視線を伏せた。
こんなに暢気な雑談をしている場合ではなかった。
「俺が家に帰る方法ってないんですかね。親も心配してるだろうし……」
TVの何とかで探されたら、悪友達があることないこと言いそうだ。
「それは大丈夫だよ」
アドニスが顔を上げた。
「キミは長期海外留学に行っていることになっている。記憶の操作なんて簡単なものだ」
「はっ……そうですか」
絶対敵には回したくない相手だと潤は思った。
「とりあえず……」
アドニスの声に潤はアドニスを見た。
「三年は猶予があるから、その間に何か策を考えよう」
「はあ……」
どんな策があるっていうんだろう、と思う。三年という月日は長いようにも思えて短いようにも思えた。
「まあ、ゆっくりくつろいでよ」
にこっとアドニスが笑う。その笑顔に潤はまたどきっとした。
「ところで、名前、聞いてなかったよね」
「あ、潤です。坂木潤」
「潤? 」
「あ、はい」
「可愛くて呼びやすい名前だね」
「は……どうも」
名前を誉められたのは初めてだった。
「潤って呼んでいい?」
「あ、はい」
「僕のことはアドニスって呼んでくれればいいよ」
「アドニス?」
「よろしく」
「はあ……」
あまりよろしくはしたくはないと思うが、目の前の笑顔を見ればそんな気持ちはかき消されていく。潤は不思議と惹かれるものを感じていた。
そして。
アドニスは仕事があるからとキアとフェイという二匹の犬を連れて羽根の生えた馬が引く馬車に乗って宮を出ていった。
そして。
「はあ……」
潤は窓の外、といっても木々しか見えないので、その木々に向かってため息をつくはめになった。
確かに、今までも退屈な毎日だった。
けれど、今、もっと退屈な時間が過ぎていく。
学校へ行く必要もない。話す友達もいない。
初めて通された部屋はアドニスと潤に整えられた部屋の間に位置していて、アドニスから好きに過ごしていいと潤は言われた。
食事は時間になると運んでくれると言う。
ゆっくりくつろげと言われても、ゆっくりくつろぐことにはすぐ飽きた。
TVもなければゲームもない。勉強をしなくていいのは歓迎だけれど、三年間こんなにゆっくりくつろいでいたら、どうなってしまうのだろう。
だいたい、来年の受験は?
その前に、生きてここから出ることができるのか?
目の前には不安の要素しかない。
それでくつろげと言われてもできるわけがない。
「ひまだ……」
呟いてみても一分も潰れない。
潤は窓際のソファにどさっと大の字に体を沈み込ませた。時折小鳥がさえずりが聞こえる程度でそれ以外の音もない。窓からは緑の匂いがする心地よい風が吹い
てくる。
「はあ……」
潤は天上に向かってため息をついた。
革張りのソファは心地よい硬さで受け止めてくれる。
急に襲ってきた睡魔に、そういえば昨日の晩はあまり寝ていなかったっけと潤は思った。ゆっくり目を閉じると、意識はすっと落ちていった。
「……潤さま」
誰かの声が聞こえて目を開くと、天井の風景がいつもと違った。
――――ここ、どこ?
ぼんやりした頭はなかなか回答をくれない。
「昼食をお持ちしました」
「え?」
声の方へ目を向けると、あごひげをたたえた紳士が潤を見ていた。
あ、そうか。
潤は重たい体をゆっくりと起こした。
幻月、とかいうところへ連れてこられたんだっけ、と思い出した。
テーブルを見ると、何かが盛られた食器が並べられている。
「えっと……一人で食べるの?」
テーブルの上のものは一人分に見えた。
「今日は、アドニスさまがお祝いの膳に呼ばれておいでですので、昼食はご一緒できません」
「あ……そう」
一人で食べる食事なんて久しぶりというか、潤の記憶にはなかった。
「では」
バーニーが部屋を出ていこうとした。
「あ……」
思わず潤は声を出してしまった。
「何か?」
バーニーが潤を見る。
「えっと、バーニーさんは」
「バーニーで結構でございます」
訂正を入れられてしまった。
「あ、バーニーも、これから昼食?」
「御用がなければ」
「一緒に食べない?」
一人の食事は味気ない気がした。
「申し訳ありませんが、ご主人さまと食事の席を一緒にするわけにはまいりません」
「あ……そう」
「では」
バーニーが頭を下げる。
「あ、ひとつだけ聞いていい?」
「なんでございましょうか」
「アドニスってどういう人なの?」
会えば分かると言われたけれど、会って話をしてもさっぱり分からない。
「第一王子さまです」
「は?」
そう言えば、王位がどうとかと言っていた気もした。
「オルコット王朝次期王になる方でしたが……これも運命なのでしょう」
「どういうコト?」
過去形が気になった。
「幻月では王子の中で最初に後継ぎが生まれたものに王位継承の資格を与えられます。それは不要な争いを避けるためでもあります」
そういうことか、と思った。
「ここには女の人はいないの?」
何もわざわざ地球から連れてくることはないだろうと思う。子供を生めばいいのなら、側室を何人も置けばいい話だ。
「女の性をもつものはおりますが、王族は同種族では子を成すことができません」
「なんで?」
「自然の摂理です。どうしてなのかは分かりません」
「だから、地球から?」
子を成すために違う種族を求めて。
「はい。遠く古の頃より続けられてきたことでございます」
三年。アドニスはそう言った。
少なくとも三年遅れてしまうことになるわけだ。
「よろしいですか?」
バーニーが顔をうかがってくる。
「あ、ん、ありがとう」
「では」
バーニーが部屋から出ていくと、また静けさが戻ってきた。
そして、三年。
ただ暇を持て余して自分は命を失うことになるのか、と潤は思った。
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