アドニスの部屋へ戻ると、先ほどと同じくアドニスは窓辺にいた。

「では、食事のご用意をしてまいります」
「お願いします」
短いやり取りの後、紳士は部屋は出て行き、潤がえっと思った時にはドアは閉められていて、広い部屋に二人で残されてしまった。
「えっと……」
言いかけたもののどうすればいいんだと潤は思った。
こんな広い家に住んでいるのは、少なくとも一般人とは思えない。自分の着ているものを見て、これは絹ってやつだよな、と思う。羽根の生えた馬なんてものが 現実にあるかどうかは知らないが、例えばロボットの類だとすれば、そんなものを持っているのはすごい金持ちだろうと思えた。
挨拶はこんにちはでいいのか?
上流家庭のしきたりなんてものは分からない。
「ようこそ……と言うべきなのかな」
アドニスが口を開いた。
「えっと、こんにちは」
とりあえず、潤は挨拶をした。
「僕はアドニス。さっきここまでキミを連れてきたのは執事のバーニー。本当は僕の子供を産んでくれる人を連れてきてくれるはずだったのだけれど、間違いが あったみたいだ」
「はぁ? 子供?」
思わず潤は声をあげた。
それはどう考えても間違いだ。子供も孕ませる機能は持っていても、孕む機能は持ち合わせていない。
どうも犬を拾った礼ではなかったらしい。
「うん。産め……ないよね」
アドニスが訝しげに見てくる。
当たり前だろ!と叫びたいのを潤は抑えた。
「残念ながら……」
「……どうしよう」
アドニスが困りげにため息をつく。
いや、別に困ってくれなくていいよ、と潤は思った。
「お役にはたたないようなので、すぐにでも家に返していただければ」
あのバーニーとかいう紳士が間違いに気づいて、さっさと帰ってくれれば何も問題はないはずだった。
「そうはいかないんだ」
アドニスはもう一度ため息をついた。
「は?」
「神獣にマーキングされたものは、その主たる者の子供を産むかまたは命を落とすかのどちらかでしかこの宮の外に出ることはできない」
「は?」
「つまり、キミは、僕の子供を産むか命を失うかのどちらでもない限り、この宮から外へ出ることはできないんだ」
「は?……ってことは生きてここを出られないってこと? 」
「もうひとつだけある」
「え、何? 」
早くそれを言えよと思った。
「僕が命を失えばキミは自由だ。ここに留まるなり家へ帰るなり好きにしていい」
はあ?
「他には?」
「ない。古より決められているのはその三つだけだ。もし、破るようなことがあれば世界に災いが起こるだろうと言われている。過去には時を同じくして地球上 の大陸が二つ失 われた。ただ……」
アドニスは視線を伏せた。
「何だよ」
声が荒くなったのが、潤は自分でも分かった。落ち着いてもいられなくなった。
「三年の間、子に恵まれなかった場合、その者は生贄として捧げられる」
「ええっ? ちょっと待てよ!」
八方ふさがりとはこの事だと、思った。
「今までにその例はないんだ。神獣の霊力でより相応しいものが選ばれる。自ら禁忌を起こした者以外で地上から来たものは一年ほどで皆子を産み家に帰ってい く」
「ちょっと待てよ。俺は、どうなるんだよっ!」
どうがんばったって、子供を産むなんて不可能だ。
「……どうしよう」
アドニスが呟くように言ったとき、ドアがノックされる音がした。


テーブル一杯に広げられた料理を見て、思っていたよりけっこう質素なんだな、と潤は思った。キャビア、フォアグラ、トリュフの三大珍味は影もない。
出汁巻き卵に白身魚を焼いたものほうれん草の胡麻和えみたいなものに丸い豆腐の周りがゼリーで固められたもの、それに白い御飯とみそ汁が目の前にある。
「とりあえず、食べてから考えよう」
アドニスが潤に席へ座るよう促した。
「あ、うん」
考えて何か良い案がでるとは思わなかったが、並べられた料理にぐぅっと腹が鳴った。
やっぱり日本人だな、と思った。白い御飯とみそ汁の匂いによだれが零れそうになった。

「んっ!おいしい」
それほど腹が減っていたわけでもないと思うのに、みそ汁を一口すすると優しい味が体に染み込んでいくような気がした。
「そう……それはよかった」
にこっと笑ったアドニスに、潤は一瞬見とれた。胸がとくんと跳ねる。きれいな顔立ちは笑ってもきれいだった。
最後に出されたお茶とずずっとすすって、潤は小さくため息をついた。
ふと顔をあげると、アドニスと目があって、アドニスが小さく笑った。
「帰りたい……よね」
「あ……ん――――」
帰ったところで退屈な毎日の後は受験戦争が待っているだけだ。
「ところで、ここってどこ?」
空を飛んでいたらしい記憶は少しある。その後気がついたときは眼下に森が見えた。
「幻月だよ」
「それは聞いた。それってどこにあんの?」
「月を回っている小惑星だよ」
「は?」
そんな話は聞いたことがない。そんなところに人間が住んでいるなんて話も聞いたことがない。
「地上からは秋のある条件が整った時しか見ることはできない。もちろん、こちらの導きなしに来ることなどできない」
「えっと……」
「空に白く見える球体のものがあるだろう? それが地球だ。夜になると青く輝く」
「……ここは宇宙ってこと?」
アドニスの話を信じるならそうだ。
「地球の理屈からすればそうだね」
「じゃあ、アドニスは……宇宙人?」
ふっとアドニスは笑った。
「古をたどれば、僕達は袂を分かつものだよ。遠い昔僕達の祖先も地球に住んでいた。ここは地球の欠片でできている。僕らは戦いを拒んで天に逃げたんだ」
潤は呆気に取られて、アドニスを見つめた。
「信じられないのも無理はない。その時支配したものは僕らの存在を全て消去した。神ともあがめていたのに……」
「神?」
「そう、僕達には地上の人が持ち得ない力がある。見せて欲しい?」
アドニスは意味ありげな笑みをこぼした。

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