潤は少し寝てしまったようだった。
ふと気がつくと空は紫色に染まっていて、次第に明るさが増していく。地表が近くなってきていた。
「もうそろそろ着きます」
紳士の声が聞こえた。
潤は両手で頬を叩いた。
「いっ……」
パシンと乾いた音が響いてじぃんと頬に痛みが広がった。夢ではないらしい。
外には見渡す限り森が広がっていて、段々と近づいてくる。
馬のいななきが聞こえたと思ったら、一瞬体が浮かんだような気がした。そして、ガラガラと車輪が回る音が聞こえてきた。
窓から見えるものは木々しかなかった。ガラガラと車輪が回る音にガタンガタンと木が軋む音が聞こえる。酷く体を揺らされて、正直乗り心地がよいとは言えな
かった。
相変わらず木ばかりの景色がゆっくり変わるようになり、車輪の音がゆっくりとしたものになり、体の揺れもゆっくりになっていった。馬のいななきとともに、
ゆっくり馬車は止まっ
た。
潤は大きく息を吐いた。
不安はある。けれど、期待も微かにあった。自分では壊すことのできない退屈な日常から抜け出すことができた。
これから会う人物はどんな人なのだろうと思う。
カチャっと音がして、馬車のドアが開けられた。
「着きました。どうぞ」
紳士が降りるように促す。下手に逆らったらまた固められて宙を飛ぶのかと思うとそれは望ましくなかった。
自分の力で空を飛ぶのなら歓迎するけれど、いつ落とされるか分からないのは不安でしかない。
潤は紳士に促されるまま、大人しく馬車を降りた。
「うわっ」
目の前で突然開けたそこは、歴史の資料から出てきたベルサイユ宮殿さながらの様相を呈していた。
「こちらです」
導かれるまま足を出す。コンクリートではない土の感触が優しく感じた。
「あ、そう言えば」
紳士が突然立ち止まる。
つられて潤も立ち止まった。
「おみ足には何もつけていらっしゃいませんでしたね」
ふっと潤の体が浮いた。
「うわっ」
それはほんの数センチで体を縛られた感覚はなかった。
「それでよろしいでしょう」
紳士はまた前に歩きだす。潤は唖然としたまま立ち止まっていた。
「それとも、先ほどのように飛ばされるのがよろしいですか?」
背中を向けたまま紳士が言う。穏やかな口調でありながら厳しさを感じた。
「もう、まっぴらだよ」
足を前に出すと、体は進んだ。潤は早足で紳士の後についた。
自分の体が自分の意志で動かない。そんなことは一度経験すれば十分だった。
ただ、空中を歩くというのもあまり気持ちよいものではなかった。透明なシートの上を歩いているような気がする。すぐ下が地面だからそれほど恐怖心がないと
は言っても、地面を踏む安心感を恋しく思った。
ドレスを着た小さな少女が踊っているような彫像を頂いた噴水の横を通って、レンガでできた門をくぐる。まるで中世の世界へ入り込んでしまったような気がし
た。
「体を清めてお召し替えをお願い致します」
潤がまず通されたのは露天の岩風呂だった。馬車を降りてからまだ誰とも出会っていなかった。
「え……」
「お一人ではできませんか? ならばお手伝いさせていただき――――」
「いいよ」
潤はTシャツを脱いで下に落とした。ちょっと躊躇ったものの、下着と一緒に短パンも下へ落とした。
「体、洗えばいいんだろ」
風呂は別に嫌いじゃなかった。手伝うと言って何をされるか分からない。
「では、あちらの籠にタオルと着ていただくものをご用意してありますので」
少し離れたところにあるテーブルの上の籠を指しながら紳士は言った。そして、紳士は潤が脱ぎ落としたものを拾った。
「それ……どうすんの?」
別に宝物というわけではないが、やっと探した綿100パーセントのもので肌触りがよくて気に入っていた。
「どうもいたしません。洗った後にお返しいたします」
「そう……」
「では。また後でお迎えにあがります」
紳士はうやうやしく礼をすると、湯殿から出ていった。
「はぁ……」
一人になって潤は大きくため息をついた。
見上げると空は青かった。ぶつかるんじゃないかと思えるほど近くに大きな球体のものが浮かんでいる。そして、遠くに白い月が見えた。それは普段見る月の十
倍は大きく見えた。
とにかく、訳がわからないところへ来てしまったらしい。向こうは動きを封じることができるのだから敵うわけがない、とすれば。
大人しく従うしかないように思われた。
幸いまだ無茶なことは言われていない。
「風呂か……」
日に二回入るほど好きでもなかった。
シャワーなんてものは見当たらなかったので、桶に湯を汲むと体にかけた。
「ふぅ……」
丁度良い湯加減の湯はそれなりに気持ちよかった。
「贅沢ではあるよな」
潤は湯船の中で手足を広げて空を見上げた。
「あ、もしかすると、フェイとかいうやつを拾ってやったからお礼でもしてくれんのかな」
ローストビーフやフカヒレのスープ、刺身の船盛りや舌平目のムニエルとか、潤はテーブル一杯の料理なんかを思い浮かべた。
「それがいいや」
難しいことは考えることをやめた。逃げられそうにはない。
一通り頭と体を洗って上がり、言われた通り籠の中からタオルをだして体を拭き、着ろと言われたものを手のとって、違和感を感じた。
「何? これ」
手の取って持ち上げてみると、袖がなく丈が長い。まるで女もののドレスのようだった。白く光沢のある生地がきらきら光っている。
「他には?」
籠を見てもタオル以外はその光沢のあるひらひらしたドレスしかない。
「これ着ろっていうのか?」
潤はふっと紳士の顔が浮かんだ。
嫌だと言ったところで、お手伝いと称して体の自由を奪い着せられてしまうに違いない。
まだ自分で着たほうがマシだと思った。
上からすっぽりかぶり下を見るとふくらはぎの真中ほどの丈でそこから足が見えていた。体にぴったりフィットした布地は体の線をそのまま描く。
「絶対、変だよ」
確信はあった。
なよっとした華奢なやつなら百歩くらい譲れば合うかもしれないけれど、残念ながら潤は違う。筋肉隆々のガテン系とは言わないが、それなりの筋肉を持つ健康
的な男
だ。顔もかわいいタイプじゃない。四角い顔とは言わないが、ぱっと見て男だと分かる顔つきはしている。つまり、おでこににきびがある普通の思春期の男だ。
男子校の文化祭で仕方なく女役をやらされている雰囲気が漂っていた。
扉が開く音がした。
「支度はお済――――ぶっ……」
入ってきた紳士は突然噴出した。そのまま下を向き肩を震わせる。
「みに……なられた……ようですね」
顔を伏せながら続けた声は震えていた。
「……他のものはないの?」
ムッとしながらも潤は下手にでた。
「申し訳ありません……それを着ていただく決まりになっております」
紳士は顔を伏せたまま、時折、肩を震わせながら、それでも声は今までのものに戻っていた。
「これ、女ものじゃないの?」
手に取ったときからの疑問だった。
「そうでございます」
紳士がゆっくりと顔を上げる。笑いを堪えているのが傍目で見て分かった。
「俺、男だよ」
裸を見られているのだから分かっているだろうとは思った。
「決まりですので、要望がございましたらアドニスさまにおっしゃってください」
紳士は体を入り口へ向けた。
「そちらのサンダルをお使いください」
紳士がテーブルの下に置いてあった履物を指す。
「アドニスさまがお待ちです。こちらへ」
仕方なく潤はサンダルに足を入れ、一歩前に出した。
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