moon dog - 光 -




潤はふっと視線を感じた。
思わず顔を向けると目に入ったものは歩道の脇にある植木で、人らしき影も見えなかった。
「じゃあな」
十年来の友達である昌生が声をかけてくる。
「ああ」
潤は答えるように手をあげた。
いつも昌生と別れる路地で、ここから潤の家までは十分かからない。
太陽は沈み、空は暗く、街路灯が明りを灯していた。
学校の往復で一日が過ぎていく。
来年になれば受験生になって、こんなにのんびりもしていられなくなるだろうと思う。
遊ぶなら今、といったところでやっているのは友達と雑談するくらいのことだった。
後は帰って、御飯を食べて風呂に入って気が向いたら勉強してテレビ見て寝るくらいのことだ。平和であっても退屈な毎日だった。
目を閉じていても行けるんじゃないかと思うほど慣れた道を潤がぼんやり歩いていたら、突然前を光が横切っていった。
――――え?
追っていった視線は歩道脇の茂みの中から白くふさふさしたものが揺れているのを捉えた。
犬?
そう思って潤が近づくと、茂みの合間から潤を見上げた白く光る小さな犬がくぅーんと鼻を鳴らす。
潤は別に犬が好きなわけではなかった。けれど、見回しても飼い主らしき姿は見えない。
「お前、どこから来たの?」
潤はしゃがんで犬に聞いてみた。
犬は首を傾げて、またくぅーんと鼻を鳴らす。手の中に収まってしまいそうな小さな犬だった。
「お前、迷子?」
聞いて答えるはずもなく、白い子犬は潤を見上げて、またくぅーんと鼻を鳴らす。
「うーん」
このまま放っておくのは躊躇われた。
「もしかして捨てられたのか?」
犬の首筋を探ってみると首輪はつけていなかった。そのくせ。
「なんか、高そうなのつけてるな」
足にきらきら光る細い金色の鎖をつけていた。
「どうしよう……」
答えるように犬はくぅーんと鼻を鳴らす。
誰かに相談しようにも昌生とは別れた後だし、呼びに行っている間にどこかへ行ってしまうかもしれない。飼い主や親の元へ戻れたのならそれまでだが、道路に 飛び出して轢 かれないとも限らない。それほど交通量が多い道ではないけれど、それだけにスピードを出す車がたまにいる。
「うーん」
良い考えは閃かない。
「うちに来る?」
答えるはずもないと思っていたのに。
「わんっ」
頷くように犬が吼えた。
「来る……のか?」
「わんっ」
今度は尻尾まで振っている。
「じゃあ、来るならおいで」
潤が犬の前に両手を差し出すと、待っていたかのように、犬は手の平に乗ってきた。犬が動くと白い毛が波打つように揺れてきらきら光る。りんごほどの重さし か感じなかった。
「わんっ」
手に乗った犬が潤を見上げて吼えた。
まるで早く帰ろうと催促しているように潤には聞こえた。


「で、どうしよう……」
犬は机の上で皿に盛られた牛乳をぴちゃぴちゃなめていた。風呂にも入って一息ついていた潤は頭の上からバスタオルをかぶりTシャツに短パン姿で必死に牛乳 を舐める犬を眺めていた。
家に帰ってとりあえず犬は部屋へ隠し、夕食のときに話題にでも出そうと思っていたのが、なかなかうまくいかなかった。
言い出そうとすると、兄の寛が邪魔をした。
しょうゆ取ってとか、みそ汁の味が濃いとか、そんなのどうでもいいだろと思いながら出鼻をくじかれると体勢を立て直すまで時間がかかる。
一番の問題は動物嫌いな母だった。足が三本以上あるものは体の大小かかわらずまったく受け付けない。散歩の犬に遭遇したら道の反対側までいって迂回するよ うな念の入れようで、世話はするからと言っても学校へ行っている間どうするんだと言われたら言葉がない。部屋に閉じ込めておくといっても、家の中にいるだ けで嫌だと言いそうだ。
今にして思えば何で連れてきてしまったのだろうと思うけれど、連れてきてしまったものを今更戻しにもいけない。
幸い大人しくて部屋の中を走り回ったりすることはなかった。尻尾を振るたび体を揺らすたびに体を覆っている白い毛がきらきら光る。
「なんて種類なんだろう」
動物ぎらいな親を持ったせいか、犬の種類もまったく分からなかった。
「ラブラドールなんとかやチワワじゃないよな」
そんな程度だ。
「スピッツ?」
白い毛といえばそれしか思いつかなかった。
なんにせよ。
「明日、昌生に相談しかないかな」
朝早く昌生の家に行って、飼い主を探すまでおいてやってくれと頼み込むしか思いつかなかった。
「じゃあ、早く寝るか」
いつも遅刻ぎりぎり、度々昌生においていかれることもある身としてはまず朝早く起きなければいけない。
「お前はこれでいい?」
潤は机の上にタオルを重ねて敷いた。
キィと犬が鳴く。
「じゃあ、どうすればいいの?」
犬のことはさっぱり分からない。
「……一緒に寝る?」
頷くように「わん」と鳴く。
「お前、頭いいんだね」
言っていることが分かっているとしか思えなかった。
「超能力犬?」
裏返したカードの数字を当てる犬がいるらしい。どこまで本当か分からないけれど。
潤が両手を差し出すと、当たり前のように犬は上に乗ってくる。
「お前、絶対良い暮らししてただろ」
どこか上品に見えた。
「飼い主、探してるかな……」
首輪があれば交番も考えたけれど、首輪がなければ保健所に連れていかれそうだと思った。
「ちゃんと、住所氏名書いとけよな」
犬を手に乗せたまま、潤はベッドの中に入った。ベッドに降ろすと犬は枕の際で尻尾を丸めて丸くなった。
「潰したらごめんよ」
寝ているときは責任をもてない。
目覚し時計をセットすると部屋の電気を消し、なるべく犬を潰さないようにと潤はベッドの端で横になり、小さくため息をつくと目を閉じた。



明日は早く起きなければいけない。だから早く寝なきゃいけない。
そういうときに限って、寝られないものだ。
「ん……」
潤は何度めか分からない寝返りをうった。
くぅんと鼻を鳴らす音が聞こえて潤が目を開けると、犬がベッドの上でお座りをしていた。
「お前も寝られないの?」
枕が変わるとよろしくベッドが変わると寝られないのかもしれない。
「でも、俺は寝なくちゃ」
犬はただ運ばれるだけだから寝ていてもいいし、むしろ大人しいから歓迎だ。けれど、運ぶ人間は起きていなくちゃ話にならない。
潤はまた寝返りをうつと目を閉じた。
目を閉じたら真っ暗のはずなのに、なんだか明るくなったような気がした。
「お迎えにまいりました」
低い男の声が背後から聞こえた。
そんな声がするはずはなかった。夢なら映像もあるはずだ。明るくは感じるものの脳裏には何も描いていない。
「お休みのところ申し訳ありませんが、時間はあまりございません」
また同じ声がする。
変なものが見えたり、聞こえたりする力は持ち合わせていなかったはずだった。
潤はダウンケットを頭までかぶった。正直その手のものは苦手な部類だった。
「申し訳ございません」
声に苛立ちが少しまじっている? と思ったら潤はダウンケットをはがされていた。
――――えっ?
恐怖を感じながらも体を丸めたら、体がふっと浮かんだ。
「ちょ……」
無視することはできないのかよと潤がおそるおそる目を開いて振り返ると、タキシードを着てあごひげをたたえた紳士がベッドの脇に立っていた。
「……どなたさん?」
変なものには見えなかった。
ただ、こんな時間、戸締りはされているだろう家に誰の許可も取らずに入ってきたらしいやつはむちゃくちゃ不審人物だ。
「アドニスさまから使いを頼まれて伺いました」
紳士はうやうやしく礼をする。潤の体は浮いたままだった。
「俺、そんなやつ知らないんだけど……その前にこの体下ろしてくれよ」
どんな手品かイリュージョンか、はたまた夢なのか。
相手が普通の人間に見えたことで、潤の恐怖心はだいぶ収まっていた。

「時間がありませんので、そのままでお願い致します」
紳士が指を鳴らすとカーテンと窓がさっと開いて外に馬車が見えた。
「ちょっと待……」
ここは二階で、窓から馬車が見えるなんてことは有り得ない。もっと有り得ないことは繋がれている馬には羽根が生えていたことだった。
「嘘だろ……」
潤がなんとか逃れたくて体を捻ろうとしても、首から下はコンクリートで固められたようにびくともしない。
「おいで」
紳士が言うと、白い犬は紳士の手に飛び乗った。
「おいっ」
大丈夫なのかよと思っても、自分は身動きができなかった。
「それでは」
紳士は犬を上着のポケットに入れると、両手を前に差し出して何かを持ち上げるような仕草をした。途端に潤の体がもっと浮いた。そのまま外へと運ばれてい く。
「ちょ……待……」
紳士の方を振り向いたけれど、紳士は何も答えてくれず馬車の扉が開いて体が吸い込まれるように中に入り自動的に扉は閉まった。
体が段々重くなってきて椅子に座らされると、何かが解かれたように体は自由になった。
「何?」
夢にしては現実っぽくて、だいたい寝た覚えがない。
「うわっ」
突然体が揺すぶられて、馬車が動きだした。それも、上に向かって。
「ちょっと待てよっ!どこへ行くんだよっ!」
潤は声をかぎりに叫んだ。
「幻月でございます」
上からさっきの紳士の声が聞こえた。少し開いた隙間から顔が見える。
「げん……げつ?」
初めて聞いたことばだった。
「はい。地上からでは秋にしかご覧になれません。そちらでアドニスさまがお待ちです」
「誰だよ。知らないって言っただろ」
あいにく外人に知り合いはいない。
「お会いになればわかります。私はただ、フェイの導きに従いお連れするだけです」
「フェイ? 」
「わん」
まるで自分だと主張しているような犬の声が聞こえた。
「なんで?」
訳が分からない。
ふと外を見ると、眼下に色とりどりな町のネオンが光っていた。見上げると透明な星の輝きが無数にあった。それは、日頃目にすることができない輝きだった。
「どういうこと?」
今潤が分かっていることは、地上から離れていくということだけだった。


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