面 影 と 微 小 生 物



校庭の木々は色づいていた。
図書室の窓からは昇降口から校門までが一望できる。

ついさっきまで僕の横にいた光樹が校庭を歩いていた。
もみじが色づき静かに葉を落としていく校庭を、隣にいる子と互いに顔を合わせて楽しそうに話ながら、時にはつつきあって、じゃれあって、なんていうのは きっと二人を知らなくても関係は分かるだろう。
まだ、学校の中だろ。やめろよ――――なんていう僕の心の声を無視して、光樹の手が彼女の肩に触れるのを目にした途端、僕は後を向いた。もう限界だった。
光樹と初めて会った時、校庭には桜が咲いていた。一目見た時に心臓がトクンと跳ねた。
一学年下の同じ図書委員で学年を縦割りにした当番が同じになった。
『先輩』とかけてくれる声が、向けてくれる笑顔が嬉しかった。当番の日は途中まで一緒に帰り、色々な話をした。学校の事、友達の事、家族の事。
一週間に一度の当番が待ち遠しくもあった。
けれど、そんな時は長続きはしなかった。夏休み前、図書委員の当番が終わった後、『帰ろう』と声をかけた僕に、光樹は照れながら『友達と約束をしてるか ら』と言った。なんとなく、その時に彼女ができたのかな、とは思った。
その後すぐ、僕の予感は正しかったのだと分かった。
図書室に残ったまま、ふと視線を向けた校庭を光樹は女の子と歩いていた。ただの友達ではないと、雰囲気から感じた。そして、ちくっと胸を刺す痛みも同時に 感じた。
胸の痛みを感じる理由なんてない。光樹に彼女ができた事、それがなんなのだろう。
僕は光樹を好きなわけじゃない。
そう何度も心の中で繰り返した。けれど、胸の痛みは治まらない。
小さな凝りが心に影を落とす。そんなはずはない――――そう思いながらも心は晴れなかった。
それから、四ヶ月が経った。
表面上は変わらない素振りを見せてはいても、心の影は静かに成長を続ける。光樹を見る度に胸を刺す痛みがある。
辛くて冷たく接しそうになってしまう度に、良い先輩でいなくてはいけない、と何度も自分に言い聞かせた。
光樹に罪はない。

机の上に出した課題をやる気にはならなかった。
ふとした瞬間、校庭を歩く光樹と彼女の姿が頭にちらつく。時計の音だけが響いている部屋では、静けさに押し潰されそうになり、不安に暗闇へ突き落とされそ うになる。
光樹は関係ない。そう理屈としては分かっている。けれど、感じてしまう心は理屈を理解しない。
小さく溜息をつくと、僕はベッドへ俯せに転がった。

心に渦巻く影を取り去る方法を知らないわけじゃない。けれど、それをする事には躊躇いを感じてしまう。自分が不安を感じている、ただそ れだけの事で心配をかけたくはない。
大切な人だから、自分を重荷にはさせたくない。そして、何よりも信じたい。
溢れる想いが零れそうになって、唇を噛みしめた。――――会いたい。

ぼんやりした意識の中で携帯の音が聞こえた。
あわてて飛び起きて、机の上に置いていた携帯を取り、手の中に包み込みながら、大きく息を吐いた。落ち着けと自分に声をかけ、着信を取るための釦を押す。
「もしもし」
辛そうな声なんて出しちゃいけない。
「渓?」
僕しか出ないのを分かっている癖に、必ず確かめるように名前を呼ぶ。
「――――うん」
優しい声に誘われて、声と共に想いも零れる。
「元気だったか?」
「――――うん」
声を聞くだけで、想いが溢れてくる。胸が一杯になって、影を洗い落としていく。
「光樹はちゃんとやってる? お前に迷惑かけてない?」
「ううん。迷惑なんて……かけてるとしたら僕の方だよ」
弟が入学するのだと聞いていたから、光樹を一目見た時に弟だと分かった。あまりに似ていて先輩の姿が重なって見えた。光樹の笑顔に先輩の笑顔が重なって、 違うと分かっていながら胸が高鳴った。遠くへ行ってしまった先輩が戻ってきてくれたような気がして嬉しくて堪らなかった。
でも、それは、たった三ヶ月の間だけだった。
あまりにタイミングが良すぎるよ。先輩が夏休みは帰れないと電話してきた次の日に光樹に彼女ができたと知るなんて。
日頃できない微小生物を培養して観察をするから帰れない、と言われて酷くがっかりした。でも先輩がやりたかった事だから仕方ないと納得した。そうする事し かできなかった。先輩が嘘をつくなんて事は考えていなかったから。
けれど、次の日、校庭を歩く光樹の姿を見て不安を感じた。
その微小生物は言葉を話せたり――――しないよな。肩を寄せ合ったり、笑いあったり、肌を重ねたり……。
そんなはずない、と強く否定しながらどうしても心は晴れない。会いにいけばはっきりする事は分かっている。けれど、先輩を信じたい。自分の首を自分では絞 めたくない。
遊びに行ってもいいかと訊くと、いつも良い返事はくれなかった。
『かまってやれるかどうかわからないから』
いつも同じ断りの文句に、『それでも良い』とは言えなかった。本当にそう思っているのか、それとも来て欲しくない理由が別にあるのか、それは電話では分か らない。
ただ、僕のために、先輩が何かを我慢しなければいけないのは嫌だと思うから、素直に従うしかない。
「ならいいけど。甘やかす事なんてないんだからな」
「うん。大丈夫だよ」
そう答えた後、会話が途切れた。
言いたい事はたくさんある。好きだよ、会いたい、僕しか見ないで、あなたが欲しい――――。けれど、言葉にする事を躊躇う。すべて、相手を縛ってしまう言 葉だ。
「冬休みは帰れそうだよ」
ぽつんと言われた言葉に心臓がとくんと跳ねた。
「ほんと?」
反射的に言葉が出た。期待しながらも、諦めていた。もう、夏の失望を繰り返したくはなかった。諦めていれば、落胆も少ない。
「ああ、区切りがついたし、夏は奉仕したから、今度は譲らないよ。期間は分からないけど、一日でも二日でも帰るよ」
「じゃあ、会えるよね」
何ヶ月ぶりというより、会えなくなってもうそろそろ一年になる頃だ。
「ああ、クリスマスプレゼント何が良い? 夏帰れなかったから、奮発するよ」
欲しいものなんてひとつしか浮かばない。
「先輩」
「え?」
「先輩が欲しい」
3月末、もうしばらく会えないと分かっていたから、抱いて欲しい、と言ったのに、はぐらかされてしまった。
「俺?」
「うん」
欲しくて、欲しくて、夢の中では何度抱かれたことだろう。好きだ、と囁かれる声がリアルに感じて、目を開くとそこには自分一人しかいない。 それを余計に淋しく感じた。
会えるのなら、肌を重ねたい。初めて会った時とは違う。もうそんなに子供じゃないつもりだ。
ただ、気持ちを確かめたい。言葉だけでなく、肌で感じたい。
「細胞が分裂するのを顕微鏡で覗いてるとさ」
答えとは思えないあまりに関係ない言葉に、またはぐらかされるのだと思った。
「先輩、僕は――――」
「まあ、聞けよ」
強い調子で言葉を遮られ、小さく「うん」と答えた。僕は、僕はもう子供じゃないよと心の中で叫ぶしかできなかった。
「培養液を垂らすと、面白いように増えていくんだ。二つ、四つ、八つって倍々にね」
「うん」
そんな事は生物が苦手な僕だって知っている。なんでそんな事を持ち出してくるのか分からない。
「渓もさ、増えたらいいのに、って思うよ。二人いれば、一人は自分の傍に置いておける」
「そんな事……」
できるわけないと思いながらも、そう言ってくれる先輩の言葉が嬉しい。傍にいたいのは自分の方だ。
「でもね。きっとそれじゃ我慢できない。二人いるなら、二人とも自分の傍にいて欲しい。四人いるなら四人」
はぐらかされているのは分かるのに、口元が緩んでしまった。
「僕は全部先輩のものだよ」
身体も心もすべて、端から端まで全部。
先輩がふっと軽く笑ったのが、ラインを通して聞こえた。
「そう言ってくれるのは嬉しいよ、渓、俺はそんな渓をすごく大切だと思う」
「なら――――」
本当に大切に思ってくれているなら。僕の一番の望みをかなえて欲しい。なぜ、先輩が躊躇うのか、それが僕には分からない。
「大切だから――――こんな道に引きずりこんでしまった事を時に後悔するんだ」
「なんで、そんな事言うんだよ。先に先輩を好きになったのは僕の方だよ」
高校へ入学して初めての中間テストで、生物が基準点までいかなかった。出された課題のレポートをやる為に、図書室へ行って、レポートを書いていたはずなの に、いつの間にか寝ていた。
ふっと気がついて顔を上げた先にあったのは、先輩の笑顔だった。
『起きてくれて良かった』
そう言った先輩を、その時好きになったのだと思う。見とれていた。しばらく頭が働かなかったのは寝起きだからじゃない。
「違うよ。俺はお前の寝顔に惹かれたんだから」
「ずるいよ」
そんな事言われたら勝てるわけないじゃないか、まだ僕は先輩を知らなかったんだから。
「それに、お前は、まだ女を知らないだろ。だから、もし、お前が普通の幸せを手にできるなら、その方が良いと思う。俺はお前を抱いてしまったら、きっとも う離せない。でも、今なら、お前の幸せを願ってやれる」
「ずるいよ」
そんな事、反論できないじゃないか。
今、僕が何を言っても、お前は女を知らないから、で済ませられてしまう。「じゃあ、僕が女を知れば、抱いてくれるの?」
正直、あまり女に興味はなかった。可愛いと思う子がいなかったわけではないけれど、その子に彼氏ができれば、そうなんだで済む程度の気持ちしか持った事は ない。だからと言って、男が好きだった記憶も無い。先輩を好きなのだと自覚した時、それなりの驚きはあった。けれど、もう抑える事などできなかった。
想いを告げた僕に、先輩のくれたキスは暖かかった。

「そうは言ってないだろ」
「だって――――」
「渓、少し周りを見てごらん。俺がこっちに来る前にちゃんと話をするべきだったんだ。でも、できなかった。お前を失いたくなかった。そのくせ、ちゃんと話 をしてこなかった事を時々後悔するんだ。離れていれば、想いが弱ければ自然と忘れていくものだ、と自分に言い訳してる」
「だから、電話もくれないの?」
前に話したのは一ヶ月くらい前、僕が電話した時だ。それから、何度、電話しようとしたか分からない。でも、用事があるわけでもないのに、何度も電話した ら、迷惑だろうか、とか、心配されるだろうか、とか、もしかしたら、という疑問が頭を掠めたりでダイヤルする事はできなかった。もし、女の人が着信を取っ たら……。その先は考えたくない。
「それもある。だけど、一番は、声を聞いたら会いたくなるからだよ。いつ会えるか分からないのに、声だけなんて拷問に近いよ」
先輩の言葉は優しい。
その言葉に嘘は感じない。だけど、どうしても燻る疑問がすべてを受け入れる事を躊躇する。
「――――先輩、言葉を話す微小生物飼ってる?」
「え? そんなのいるわけないだろ」
「そうだよね」
そうだよ。先輩が嘘を言ったり、誤魔化したりするわけは無いんだ。大丈夫。明日からも優しくできる。
「何だよ、言葉を話す微小生物って」
「何でもない。いたら嫌だなって思っただけ」
嫌だなんて言葉では済まない。絶対あって欲しくない。「ごめん、じゃあ、僕はどうすれば良いの?」
どうすれば、先輩は納得してくれる?
 
「――――だから、お前が俺を本当に選んでくれたって分かるまでは、俺はお前を抱けない」
選ぶ? 僕が? 
「そんなの決まってるよ。僕には先輩しかいないよ」
「言葉だけじゃなくて、証明してくれよ」
証明?
「どうやって?」
「お前に先輩って何人いるの? 俺はその他大勢の一人なわけ? まず、その呼び方を変えてくれなきゃ信じられないよ」
「あ、でも、なんて呼べば……」
出会ったときから、ずっとそう呼んできたのに。

「俺の名前も知らないのか? 」
そんな訳は無い。けれど、呼び方を変える事は――――。
「だって、今更」
「俺は、お前にとって、たった一人の存在でいたい。その他大勢なんて嫌だよ。ずっと想っていたけれど、言えなかった」
僕にとって、先輩はただ一人なのに。唯の言葉だけでなく、心の奥底からそう思っているのは、あなただけなのに。
「――――名前を呼べばいいの?」
呼べば抱いてくれる? 僕を受け入れてくれる?
「それから――――俺のところへ来てくれたら」
先輩の言葉に息を飲んだ。
「それって、同じ大学へ来いって事だよね」
「そうだよ」
答えは直ぐに返ってくる。
「それが、どんなに厳しい事か分かって言ってるの?」
「渓ならできるよ。時間はまだあるし……その気じゃなかったのか?」
「そのつもりだったよ。ううん。そのつもりだよ。だけど、だけど、その結果で先輩との関係が変わってしまうのは嫌だ。嫌だよ、先輩っ」
先輩がここにいたら、抱きついて離れないのに。今、二人を繋ぐものはあまりに頼りない。ほんの一瞬で切られてしまう、ライン。
「まだ、先輩って呼ぶのか?」
「あ……」
長年呼び慣れた言葉は、無意識のうちに出てしまう。
「――――その時は二人で考えよう。俺だって、それまで我慢できるかなんて分からない。だけど、二人で生きていくのはそれなりの覚悟が必要なのは分かるだ ろ? お前が俺のところへ来てくれたら、嫌だって言っても、もう離さないよ」
そう言われて、胸が熱くなる。
僕も離れない――――将来二人で生きていく事を考えるなら、知っている人がいない土地が良いと先輩は進学先を決めた。その時から、僕のためにすべてを捨て てくれていた。それを分かっていたはずなのに、僕は何を不安に思っていたのだろう。
「分かった――――分かったよ。せ…………宏樹、さん」

◇◆◇

ぼんやりした意識の中で、身体を包んでいた腕が離れていく。まだ、目覚まし時計は鳴っていないはずだ。
「離さない、って言ったのに」
ベッドを降りていく背中へ文句を言った。
「昨日、離せって暴れたのは誰だよ」
僕を見て答えた顔は、笑っていた。
「なんで、合わないんだろうね」
出るのは小さなため息。
「仕方ないだろ。学年も学部も違うんだから」
それでも、一緒に過ごせる時はたくさんある。
「今日は帰り早い?」
「う〜ん、教授次第かな」
毎日毎日同じ答えに、ちょっと違う答えはないのか、と言いたくなる。ゼミの教授に気に入られているらしい。とんでもない微小生物だ。
「じゃあ、行くから。お前も遅れるなよ」
着替えだけを済ませて、鞄を引っかける。
「朝ご飯は?」
ベッドの中から声をかけた。
「ああ、時間ないから、どこかでパンでもかじるよ」
既に、玄関で靴を履いている。
身体に悪いよと思いながらも、その一言が嬉しい。
「いってらっしゃい」
「ああ」
声と共にドアが閉まる。冗談でなく、時間ギリギリなんだろう。きっと、駅まで走って行って、電車に飛び乗るんだ。
心配な癖に、嬉しかったりする。自分の為に、どれだけの事をしてくれているか分かるから安心する。色んな時間を削って、できるかぎり傍にいてくれようとす る。
「もう少し早く起きても良いのに」
少し早く起きたとしても、二人で食事をできた方がいいのに。
後を向き、まだ暖かさが残る先輩のいた場所に手を這わせた。
「それくらい、合わせるのに」
微かに残る匂いに頬を寄せた。
「大好きだよ」
誰も聞いていなくても、誰に分かってもらえなくても、言葉にできるくらい――――。

Fin.

ちょっとミステリー風になんて思いながらも、結局は本能のままに書いてる……。
弘樹ってヘタレ攻めな感じがする。ヘタレ攻め、うーん。
全然関係ないですが――――メリークリスマス。

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