ブラックコーヒーとイチゴジャム



――――桜散る。
受験の合否を桜で見立てるようになったのはいつからだろう。
今年、悠にとっての桜は、三月の、蕾が膨らむ前に散ってしまった。地元の国立大学の合格発表ボードの前で、それこそ穴のあくほど見つめてみても、悠は自分 の受験番号を見つけることができなかった。
頭上から小さく「やった」と呟く声がする。一緒に合格発表を見に来た圭輔は受かったらしい。悠の心の中で失望という暗闇が口をあけ、少しづつ大きくなって いった。
受験は水物。最後までA判定だったとは言っても、結果を見るまでは分からないものだ。それは悠もよく分かっている。大学の合否だけなら、少しの落胆はあっ ても、これが今までやってきた結果だと納得できただろう。
ただ、この瞬間に、圭輔と別れることが決まってしまった。国立に受かった圭輔は地元に残るだろう。悠は滑り止めに受けた東京の私立へ行くことになる。
四年は長い。きっと、この先違う道を行くことになる。せいぜい数年に一度、同窓会で顔を合わせるだけの関係になってしまうのだろう。
なるべくしてそうなった、ということか。
所詮、同じ大学に通うことになったとしても、今の関係が変わるわけではない。悠の望む関係になど、なりはしない。そう考えれば、神が諦めるチャンスを与え てくれたのだ。思い切れない悠に代わって、ある意味背中を押してくれたのだ。もう諦めろ、と。
悠は自分より十センチは身長が高い端正な顔を見上げた。視線に気づいたように、圭輔も悠を見る。
「あったか?」
嬉しい気持ちが伝わってくるような弾んだ声の圭輔に、悠は視線を伏せ小さく頭を振った。

午前九時に掲げられたボードの前は、午後二時ともなると閑散としていた。数人のグループがあちらこちらに散らばっている程度で、大きな歓声もなければ、悲 痛な叫びもない。インターネットで合否を見ることもできるのだから、わざわざ大学まで足を運ぶ必要もなかった。それでも大学まで来たのは、合格を実感した かったからであり、卒業式も終わった今、圭輔と会うのはこれが最後になってしまうかもしれないと思ったからだ。二人とも合格すればよし、また不合格だった としても、滑り止めには同じ大学の合格をもらっている。正直な気持ちを言えば、二人そろって同じ結果が欲しかった。
いずれ諦めなければいけないとしても、まだ、もう少し同じ時間を過ごしたいと悠は思っていた。
二人とも合格判定は最後まで同じだった。同じ結果を予想していたのに、小さな不安の方が的中してしまった。

下を向いたまま動けずにいる悠の背中を圭輔が優しく押した。
「ここにいても仕方ないだろ」
確かに、ここにいたら結果が変わるわけじゃない。さっきよりトーンは落ちているとは言え、圭輔の声には嬉しさが感じられた。圭輔にとって自分と別れること が大した問題じゃないと思えることが、悠の気持ちを一層重くする。
圭輔に押されるまま歩いているとベンチが視界に入った。
「あそこに座っていろよ。俺、何か買ってくる」
圭輔が人差し指でベンチを指した。圭輔を見上げると、優しく笑った圭輔が親指である方向を示す。指の先には少し離れた場所に自動販売機があった。
悠は頷くと、ゆっくりベンチの方へ歩いた。
ベンチの先に立ち並んでいる木々が見える。まだ蕾をつけていないその木は桜なのだろうと思った。きっと、圭輔が 入学する頃にはきれいな花をさかせるだろう。そこには、きっと出会いがある。
女の子と楽しそうに過ごす圭輔の姿なんて、もう見たくないだろ――悠はそう 自分に話かけた。

ベンチに腰を下ろして、圭輔が行った先を見ると、戻ってくる途中らしく段々と圭輔が大きくなってくる。今日が圭輔と会う最後の日になるかもしれないのだか ら、せめて、笑って別れたい。
戻ってきた圭輔は悠に紅茶の缶を渡し、横に座ると自分用に買ってきたコーヒー缶のプルトップを開けて、そのまま口をつけた。
「合格おめでとう」
受け取った紅茶缶を掌で転がしながら、悠は言った。本当はちゃんと目を見て言いたかったけれど、今にも目から零れてきそうなものがある。掌にある紅茶は少 し甘めのミルクティで、それがお気に入りであることを圭輔に話したことはないのに、圭輔はちゃんと知っていて、悠にはいつも同じものを買ってくれた。
「――――ありがとう。お前の、おかげだよ」

お前のおかげだよ――――圭輔から幾度となく言われた言葉に悠は胸が熱くなった。
初めて圭輔を意識したのは、その言葉を言われたときだった。
お祭り体質の圭輔は何事にも勢いで走っていってしまうことが多い。文化祭しかり、体育祭叱り、合唱コンクールしかり……後片付け、備品の返却、後に残った 細かい雑務をこなしてい たのは悠だった。悠のしてみれば、自分の目につくことを圭輔が残していくので仕方なくやっていたに過ぎない。元来の真面目な性格が見過ごすことを許さな かっただけだ。自分がやっていることなど誰も気づいていないと思った。人が見ているのは、派手な圭輔のまわりだけだと、思っていた。
けれど、圭輔は気づいていてくれて、『順調にいったのは、お前のおかげだよ』と言ってくれた。大雑把で派手なやつという印象がその一言で変わった。なによ り、自分を認めてくれたことが嬉しかった。

「僕は、何もしてないよ」
悠 は潤んできそうな瞳を抑えたくて、空を見上げた。青い空の所々にちぎれたような白い雲が浮かんでいる。この空は東京にも繋がっているのだと思った。同じ空 の下で生きていける。たとえ、どこに居たとしても、この空は繋がっている。圭輔と繋がっていつものがある。
近くにいても、気持ちが通じ合うことがないのならば、遠く離れていても同じじゃ ないかと悠は思った。
その夜、悠はベッドの中で泣いた。圭輔と過ごした三年間が頭の中を過ぎていく。思い出にしなければいけない、そう思った。

「もう、ジャムないじゃん。次はイチゴジャムがいいな」
流しに向かっていた悠が振り向いたところで、テーブルに座っていた男がジャムの瓶を示すように持ち上げて振った。
「そのうちね」
「もうないんだから、今日だぞ。今日買ってきてくれよ」
念を押すように言う。
こいつ、こんな甘党だったけ、と悠は思った。コーヒーはブラックしか飲まないはずだ。
刻んだ野菜を二つに分けて器に盛り、その器をテーブルに置くと、悠もエプロンを取って席についた。
東京に来てから三ヶ月が経っていた。国立大学合格発表の日に、もう会えるのも最後かもしれないと思ったやつが目の前に座っている。
「圭輔、今日もバイトなんだろ。夕食はいらないよな」
「ああ」
圭輔は白桃ジャムのたっぷりついたパンをかじりながら答えた。

圭輔が悠に一緒に住もうと言ってきたのは、悠が国立大学の補欠番号に見切りをつけ私立大学の手続きを終えた日だった。
『俺も東京へ行く事にしたからさ。一緒に住もうぜ。何かと便利だし、経済的だろ』
そう言った圭輔の言葉は悠にはとても信じられないもので、夢かと思い自分の頬を叩いてみた。痛かったのは当然だが、『何?今の音』と圭輔に訊かれて、どう 言ったものかと閉口した。
地元の国立大学に合格しながら、東京の私大に行くというのは悠には考えられないことだった。両親が絶対賛成するわけがない。私立中に通う弟がいるという経 済的な理由が一番だ。その点、圭輔は二人兄弟に下で、兄は既に社会人だから我が侭が通るということなのか。
『就職には東京に出るつもりだから、どうせ出るなら早い方が良いだろうし、地元の国立より有名私立の方が有利だと思うんだよ』と東京に出る理由を話してく れた圭輔にそれはそうかもしれないと思いながらも、じゃあ、なんで地元の国立受けたんだよ、と言いそうになった言葉を飲み込んだ。取りあえず、選択範囲を 広くとって後で考えようということだったのかもしれない。就職の話までしたことはなかったが、圭輔は東京で就職するつもりだったというのは初耳だった。
圭輔が東京へ行くということを、圭輔がかけてきた電話で何度も確認し、電話を切った後で、悠から電話をかけて再度確認した。圭輔が『そんなに信じられない な ら、今からお前のところへ行って、耳元で叫んでやるぞ』と言ってい、それでも、もう一度確認して電話を切った後で、東京の不動産屋へ希望間取りの変更 と同居人が増えた事を伝えた。

今、圭輔と同居している2DKのアパートは、個室をそれぞれのプライベートルームとして確保し、少し広めのダイニングに小さなダイニングテーブルとソファ を置いていた。
東京に来て一ヶ月ほどは、確かに夢のようだった。それが、今苦痛に変わりつつある。
パンを全て口に収めた圭輔は、口の周りに残ったジャムをすくいとるように、舌を唇に這わせた。赤い舌が唇を這う様は、見ていると自分も舐めとられていくよ うで、背筋が粟立つ。悠が無言でティッシュを差し出すと、圭輔は小さくサンキュといって、口の周りを拭った。悠も残りのパンを口に収める。
「お前、まつげ長いよな」
食事を終えた圭輔が片方の肘をテーブルにつきながら、悠を見ていた。
「時間だよ」
悠の言葉に圭輔は時計を見ると、あわてて席を立つ。
「じゃあ、後よろしく」
圭輔はリュックを肩にかけると、そのまま部屋を出て行った。ドアが閉まったことを確認すると、悠は背もたれに背中を預け、深いため息をついた。
「マズイよな」
単なる友達との同居ではない。相手に対する自分の気持ちがある。好きなやつが目の前に居ながら、触れることができないというのは健康な成人男子にはキツ イ。身体は、時・場所を選ばずに変化する。その変化を圭輔に知られると、絶対にマズイ。
現に、今さっきも結構ヤバイ状態だった。見つめられるだけで、身体の奥が熱くなる。
いっその事告白してしまおうかと思った事は何度もある。しかし、圭輔はストレートだ。悠が知っているだけでも片手以上の女の子と付き合っていた。高校三年 になってから、受験を理由にその時つきあっていた子と別れて、それから付き合っている子はいないようだが、今はどうなっているのか分からない。わざわざ訊 いたりもしない。知っても 辛いだけだから、知らずに済むのならその方がいいに決まっている。彼女との事を色々憶測して疲れた時期もあったから、もう、そんな思いはしたくなかった。
三ヶ月でもう煮詰まっている。卒業するまでの四年が悠にはとてものなく長い時間に思えた。
悠はもう一度深いため息を落とすと、自分も出かけるために席を立った。

圭輔の帰りが遅い。
悠は時計を見上げて、何度目かわからないため息をついた。
別に待っている必要はない。圭輔も鍵を持っているのだから、鍵をかけて寝てしまえばよい。居れば居たで厄介なくせに、居なければ居ないで心配になる。余計 な詮索までしてしまう。難しいものだ。
明日、圭輔は休みのはずだが、悠は朝からバイトが入っていた。早く寝た方が良いことは分かっている。
けれど、どうせベッドに入っても寝られないだろうと、TVのリモコンに手を伸ばした。その時、ドアの開く音がした。
「遅かったな」
狭い家だ。ソファから振り向くと圭輔が視界に入ってくる。漂ってくる匂いと顔色から、酒を飲んでいるのだと分かった。
「悠――――ただいま」
片手を挙げて挨拶するあたりは上機嫌なんだろうが、玄関を上がったところでそのまま倒れこんでしまった。
あわてて悠が駆け寄ると、圭輔は寝息をたてている。
バイト仲間とでも飲んできたのだろうか。酒を飲んで帰ってきたことは無かった。
今まで酒を飲んだことがないとは言わない。親だってそんなにうるさくはない。この家で飲んだこともある。
しかし、当面の問題は寝入ってしまった圭輔をどうやって寝室に運ぶかだった。
「大丈夫かなあ」
悠は圭輔の頬を軽く叩いてみたが、意味不明の声をあげるだけだった。
「しょうがないなあ。圭輔、ちょっと立てよ」
悠にとっては自分よりでかい人間である。本人の力を借りなければ運べるものではない。悠が自分の肩に圭輔の腕を回して引っ張りあげると、圭輔はふらつきな がらも何かぶつぶつ言いながら立ち上がった。
「こっちこっち」
声をかけながら誘導すると、何とか歩いてくれる。ベッドまで連れてきて座らせると、そのまま寝転がってしまった。
身体の下敷きになった布団を引きずりだして、上から被せてやる。この時期風邪を引くことはないだろう。
散々心配して、イライラしていたくせに、顔を見たら全てが吹き飛んでしまった。現金なものだ。額にかかる前髪を書き上げると、たばこと酒の匂いが舞い上が る。匂いに酔ったわけでもないだろうが、くちびるに触れてみたい衝動にかられた。
玄関先で寝込んでしまうなんていうのは、正体をなくしている証拠だ。もし、気がついたとしても、夢でも見てたんだろ、で済むかもしれない。愛しい顔がすぐ 近くにある。ゆっくり顔を近づけた。
「ん……」
息がかかるほど、近づいた途端、発せられた圭輔の声に、悠はびくっと震えた。圭輔が起きた様子はない。圭輔の声がもう一瞬遅ければくちびるに触れていたと いう位置に自分の顔がある。そのちょっとの距離を縮める力は、圭輔の声で削がれてしまった。
「おやすみ」
悠は圭輔に声をかけると、立ち上がり部屋を出た。
くちびるに触れたら満足するわけじゃない。きっと、もっと欲しくなるの決まっている。
こんな生活は無理だったのかもしれない、と悠は思った。
嘘はつきたくなかった。許されない、不純なものであったとしても、何年も自分が持ち続けてきた気持ちだ。告白して白黒つけてしまうのが一番良いような気が する。このまま今の生活を続けていたら、自分を抑えつづけることができずに、圭輔に知られてしまう日が近いようにも思えた。そうなる前に、たとえ、受け入 れてもらえないとしても、せめて言葉で伝えたほうが自分の気持ちの整理がつきそうな気がした。

悠が朝起きると圭輔は既に起きていて、ダイニングテーブルに向かい、コーヒーを飲んでいた。
部屋のドアを開けた途端、圭輔の視線とぶつかる。そこで、思わず目を逸らしてしまった。
シャンプーの匂いをほのかに感じた。圭輔は既にシャワーを済ませたらしい。
「おはよう。早いんだね。今日は休みだろ」
圭輔の直視できずに、視界に入った小さなごみを拾ってゴミ箱に捨てながら言った。
はっきりと気持ちを伝えようと思ったのに、圭輔と直接向き合うことを避けている自分がいる。辛いくせに、少しでも長く圭輔と居たい自分がいる。
「――――昨日、俺、お前に何か言った?」
不安そうな圭輔の声が聞こえた。
「え?別に、ただいま、くらいだよ。直ぐに寝ちゃったから」
以外な質問に、圭輔の方を見やる。圭輔は怪訝そうな瞳を見せた。
「ホントか?」
「本当だよ。嘘言ったって仕方ないだろ――――直ぐに食事の支度をするよ」
悠は圭輔と言葉をかわしたくなくて、一度向けた視線をすぐに逸らすとそのまま冷蔵庫へ向かった。ドアを開け、レタス、貝割れ、ベーコン、卵を取り出す。調 理台にそれらを置くとフライパンをコンロに乗せて火をつけた。サラダ油を敷いてベーコンを敷く。
「じゃあ、なんで、お前俺のこと避けてんだよ」
その言葉にどきっとした。
「避けてなんかいないよ」
流しに向かってちぎったレタスを洗いながら答えた。
「じゃあ、なんでこっち見ないんだよ。お前話すときはいつも人の方を見るじゃないか」
そんなことを言われても、悠が意識してやってるわけではない。
「今日は――――朝からバイトが入ってて、余裕がないだけだよ」
ただ思いついたままに言葉にした。空気がいつもと違う。たぶん、朝一番に視線を逸らしてしまったからかもしれない。
今更、そのことについていい訳できるわけでもなければ、いい訳する言葉もない。
「――――俺、昨日家に帰ってからさっぱり記憶がないんだけど、朝気がついたら、ベッドに横になってて……」
少しの沈黙の後、圭輔がはなしかけてきた。
「ああ、家に入るなりすぐ寝ちゃったからだろ」
「自分でベッドまで行ったのか?」
「肩貸して、連れていったのは僕だけど、ちゃんと歩いてくれたよ」
一応。悠が担いで連れていくなんてのは体格差を考えれば、まず無理だ。
「それで?」
「そのまま寝ちゃったよ」
「何もせず?」
圭輔の問いに言葉が詰まった。何か――――しようとしたのは悠の方だ。
「何かしたのか?」
圭輔が窺うような声を出す。
悠は圭輔には答えず、ベーコンの上に卵を落とした。
「パンを焼いていいよ」
圭輔の方を振り向きながら言った。
「悠、俺何かした?」
圭輔が繰り返す。悠を見る圭輔の瞳が揺れる。
いつも自信満々に見える圭輔には珍しく、表情に不安が読み取れた。圭輔は何も悪くない。自分で自分を追い詰めているだけだ、と悠は思う。悠はパンケースか らパンを二枚とると、トースターに入れてレバーを下げた。
「圭輔は何もしてないよ」
今度は圭輔の目を見て答えた。
「じゃあ、なんでお前、そんな顔してるんだよ」
そう言われても自分の顔なんて見ることはできない。ただ、情けない顔をしているのだろう、と思った。なぜ、友達でいることができないのだろう。なぜ、それ 以上を求めてしまうのだろう。そんな自分が恨めしい。
「余裕がないんだよ」
それが言い訳にさえなるのか悠には分からなかった。
ベーコンエッグとサラダを皿に盛り、トーストを置くためにパン皿を出す。
時間がないのだとアピールするように、手早く食事を済ませると、食器を流しにおき、帰ってきてから片付けると言ってアパートを出た。
圭輔は何か言いたそうに何度か口を開いたがそのまま閉じ、悠の様子を窺っているようだった。悠がアパートを出るまで、新しく買ってきたイチゴジャムに手を つけることもなく、箸さえも手に取ろうとはしなかった。いつもは、温かいうちに食べろよと言う悠もその言葉を飲み込んだ。何か言葉を出してしまったら、そ の会話の行き先が自分の望まない方向へ行ってしまう気がした。自分の気持ちを告白しよう、と思った。けれど、それは、そう簡単に口にだせるものではなく、 その結果が自分の望むものではないと思えるから更に口は重くなる。
けれど、今の不安定な関係を続けていくことも望んでいることではない。自己矛盾の渦に落ちていく。

初夏の風が漂っていた。梅雨のうっとうしい時期が終わり、空気がさらっと感じられる。ただ佇んでいるだけならば気持ちよく感じる季節も、駅から二十分の距 離を、それも昼の日中小高い山を越える道のりを歩けば、汗でぐっしょりになった。
今日の悠のバイトは午前中だけだ。予定が変われば圭輔の携帯に連絡することになっているし、圭輔も用事ができれば悠の携帯に連絡することになっている。圭 輔からの連絡がないということは圭輔は家にいるということで、昼食は家でとるということだった。当初交代でやっていた炊事当番は今悠の分担になっている。 その 分、圭輔はごみ当番だったり、時々外食をおごってくれたりする。
用事ができたと圭輔の携帯にメールを打つのは簡単なことだった。けれど、それではただ時間を延ばしただけにすぎない。何があったんだと訊かれたら、ちゃん と答えられる自信もない。嘘はばれてしまうものだ。たとえ、縁が切れるとしても、必要のない嫌な思い出は作りたくない。

アパートのドアを開けると、TVの音が聞こえてきた。圭輔がソファで横になりながらTVを見ているのだろう。
「先にシャワー浴びてから、食事の支度をするよ」
悠は大きな声で言ったつもりだったが返事はなかった。TVの音で聞こえなかったのかもしれない。それでも、いいやと思った。帰ったことにも気がついていな いということだ。とにかく、ベタベタする身体をすっきりさせたかった。部屋から着替えを持ってくると風呂場へ飛び込む。シャワー栓をひねるとでてくるのは 水だったけれど、それを気持ちよいと感じた。段々と温かくなっていくシャワーに頭の上から打たれていた。身体を幾筋もの湯が流れていく。いっその事感情さ えも流しさってくれればいいのに、と思った。そうすれば、今の生活を続けていられる。どきどきも感じない、はっとすることも、胸の奥が熱くなることもな く、穏やかな日々を過ごせるだろう。
つまらないかな? でも、辛いよりマシな気がする。今後、圭輔以外に好きになれる人が現れるとは思えないから。
風呂場を出ると、Tシャツとジャージを身につけた。外出する予定はないから、気軽にいられるときの定番だ。
昼食が終わったら、圭輔に話をしようと思った。躊躇って伸ばしていてもよいことなどきっとない。
今日は塾のバイトで失敗した。模擬テストの試験官がぼんやりしていたのでは勤まらない。悠がうわの空であったことを子供は気づいたのだろう。カンニングし ていた子がいたことに悠は気がつかなかった。ちょうど、廊下を通りかかったほかの先生が覗き窓から見て気がついて、試験の後悠は知らされた。
常習の子だと分かっていたからなおさら気をつけなければいけなかったと、そのことを室長からきつく言われた。

「圭輔、昼飯のリクエストある?」
話し掛けながら、悠はソファへと近づいた。さっきとは違う、すぐ近くまで近づいているのだから聞こえているだろうと思うのに、返事がない。
ソファの上から覗き込んでみると、横になっている圭輔は寝息をたてていた。圭輔がTVをつけたまま、寝てしまうのは珍しい。
悠はリモコンを手にとり電源を落とすと、もう一度圭輔の顔を覗き込んだ。
寝顔というのは、なんと無防備なものだろう。昨日もそう思った。起きているときには、とてもできないことを、寝ているときにはしてもいいかなと思ってしま う。
自分の気持ちを告げたら圭輔はどうするだろう。一緒に暮らそうと言ったのは圭輔だ。すくなくとも嫌われてはいないだろうし、一緒にいることで便利なことも あるはずだ。炊事当番は一ヶ月で音を上げた。自分がいなくなったら困るかな。そう思いながら、自嘲した。
圭輔はもてるから、女の子にやってもらえばいいだけだ。大学構内で圭輔が女の子に声をかけられている姿を目にすることもある。
圭輔とは学科が違うから大学内で会うこともあまりなくてプライベートは分からない。実は彼女もいるのかもしれない。悠に遠慮して言わないだけで。いつもは 考えることさえ 避けていたことに、胸が痛くなった。もう、こんなチャンスはないかもしれない。寝息を立てる圭輔にそう思ってしまう。多くは望まない。ただ 一度だけ、くちびるに触れることを許して欲しい。

悠はソファを回り、圭輔の横に膝を落とした。
「好きなんだ」
小さな声で呟いた。起きては困る。けれど、そのまま唇にふれるのも躊躇われて、自分の気持ちを言葉にした。圭輔の寝息は変わりなく、熟睡しているように見 えた。
悠はそっと圭輔のくちびるに自分のくちびるを合わせた。思っていたよりも柔らかく受け止めてくれたくちびるが、悠に応えた気がした。
――――え?
圭輔から離れようとした悠は背後から身体を押さえ込まれたことを感じた。
「ん……っ」
声が出せないほど、深く合わされる。ゆっくりと舌でくちびるとなぞられ、悠は身体の力が抜けてしまった。押さえこまれていた腕を離され、床に座り込んでし まう。
目の前に圭輔の瞳があった。
「好き? 俺の事」
大好きな声が耳に響く。ずるい質問だ。さっきの悠の呟きを聞いていたに違いないのに。
「好きだ……よ」
もう、分かってしまったことならと口にした。ずっと、ずっと言いたかった言葉だった。喉元まであがってきては、飲みこんでしまう言葉だった。
悠の答えに圭輔の手が悠の頬を撫でる。悠は全ての神経が頬の集中してしまったように、全身で圭輔の感触を感じていた。大きくて温かい手は圭輔のものという だけで特別な意味を持つ。
「俺も」
そう言った圭輔の言葉に悠は息を呑んだ。身体が固まり、心臓が大きく跳ねて暴れる。
悠の頬を撫でていた圭輔の手はそのまま悠の後ろへ回り、悠の身体を両腕で包みこむようにして身体ごと悠の上に落ちてきた。
「圭輔?」
今聞いた言葉が夢ならば覚めないで欲しいと悠は思う。
「お前に嫌われていたらどうしようかと思った」
圭輔が身体を抱きしめてくれる。
「なんで、そんなこと思うんだよ」
好きで、好きで、自分が抑えられなくなることが不安だったのに。
「今朝、目があった途端逸らされた。そんなこと初めてだったし、あいにく俺には昨晩の記憶がなくて――――服を着てたままベッドの上横になってたってこと は無理やりやったなんてことはないよなと思ったけど、何かくちばしったのかもしれない、それで、お前に軽蔑されたのかと思った」
「そんなこと……」
「でも、俺は昨日お前を押し倒すつもりだった。素面ではできないから、酒かっくらって……どうしても、お前を俺のものにしたかったんだ。泣いても喚いても お前も俺のものにしたかった……最低だな。俺」
圭輔の手が悠の髪を弄る。まだ乾いていない髪は雫を飛ばした。
「最低なんかじゃないよ」
そんなことを言っていても圭輔は嫌だと言ったら無理強いなんてしないだろう、と思う。そんなつもりなら、いくらでも機会はあったはずだ。部屋に鍵なんてか からない。襲うつもりなら、いつでも襲えた。
「ヨカッタ。襲わずにすんで――――もう合意のもとだよな」
圭輔がジャージからTシャツを抜き取ると肌に手を這わせる。素肌を触れられて、悠の身体がぴくんと反応した。
「あ、昼飯――――」
「いいよ、お前で」
言いながら圭輔はTシャツをめくりあげて、乳首を口に含んだ。
「あ……」
幼い頃はあったかもしれない、けれど、物心ついてから、人に肌を触れたことなどなかった。そして、それが、こんなに感じるということも悠は知らなかった。 ただの、何も役にたたないはずの乳首を舌で転がされて身体が熱くなってくる。全身が粟立ってくるような気がする。
「無理にはしないから、できなかったら、それでもいいから、だから、いいだろ」
くちびるを離した圭輔が耳元で囁く。
「……いいよ」
頭の中で浮かんだ答えはそれしかなかった。
柔らかい笑みをこぼした圭輔が悠の唇を塞いだとき、悠は静かに目を閉じた。

Fin.


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