「隆!」
頭をひっぱたかれて、隆が目を開けるともう太陽は昇っていた。
「こんなところで寝てると風邪ひくじゃない」
目の前の母親は眉を顰めていた。
隆はぼんやりした頭に少しの痛みを感じた。
眠れないと起きていたつもりがいつの間にか寝ていた。様子を見にいってやると言いながら、一回も行っていなかった。
裕太は? そう思って不機嫌そうな顔の母親に背くように、身体にかけていた毛布をはがし隆は居間を出た。玄関を見ると、裕太の靴はなくなっていた。それ
じゃあ、と思って部屋へ戻ると整えられたベッドの中に裕太の姿は無かった。
ほっとした気持ちがある反面、寂しさを感じた。もう、裕太は自分の手から飛んでいってしまった。
ふと目が覚めると階段を上がってくる足音が聞こえた。
とんとんとドアがノックされる。
「はい?」
開いたドアからは母親が姿を見せた。
「裕太くんが来てくれたわよ」
「え?」
隆が身体を起こすと、母親と入れ替わるように制服姿の裕太が見えた。
「あんまり近付かないようにね」
「はい。大丈夫です」
裕太は答えると、母親に頭を少し下げ、部屋のドアを閉める。
「どうした?」
裕太がもうここに来る必要はないはずだった。
「たかちゃんが休みだって、紺野さんから聞いたから」
「そっか」
滅多に学校を休むことはないから、紺野に様子でも見てきてやれ、と言われたのか。
「僕の、せいだよね」
裕太が視線を伏せる。
「いや、俺が――――」
言いかけた途端に、咳き込みそうになり、隆は布団で口元を押さえた。
風邪なんて引いたのは何年ぶりだろう。土、日と三十八度を越える熱があって、身体もだるかった。少し熱が引いてきたと思ったら、今度は咳が出始めた。原因
は分かっている。寒い中、公園でなんて時間を潰していたからだ。けれど、それは裕太の所為じゃない。
「ごめんね。僕が――――」
裕太が顔を伏せたまま近付いてくる。
「風邪がうつるとまずいから、あんまり近付かない方がいいよ」
こほっと小さな咳を出し、隆は裕太に告げた。
いい年して知恵熱かと母親にからかわれた高熱は今完全に風邪の症状を伴っていた。
「いいよ。うつして治ればいいよ。僕が悪いんだから」
「そう言うわけにいくかよ。お前は紺野と付き合ってるんだろ? 紺野にもうつしちゃマズイだろ? 」
風邪は受験生の大敵だ。特にこれからの時期は。
「……声に出したことが全て真実とは限らないよ」
顔を伏せたまま、裕太がぼそっと呟いた。
――――え?
「どういうことだ?」
紺野が付き合うといったことは嘘だってことか?
真っ先に頭に浮かんだのはそれだった。
「例えば、よその家に行って出されたものが嫌いなものだったりしても、おいしい、って言うこともあるでしょう?」
裕太が顔をあげると、同意を求めるように首を傾げる。
「紺野がお前と付き合うって言ったのは嘘だってことか? 」
「さあ……」
裕太が視線を伏せた。
実際あの時に何があったのかどんな会話があったのか隆は知らない。
「紺野はお前に付き合おうって言ったんじゃないの?」
付き合うと言った言葉は気を使った社交辞令だったってことか?
「言ったよ……」
「なら、その気なんだろ。あいつは嘘なんて言うやつじゃないよ」
「でも、もし、嘘だったら、たかちゃんはどう思う?」
「嘘だったら?」
「うん」
視線を上げた裕太の瞳は真剣だった。
「お前は許せないかもしれないけど……俺はあいつを責められないよ」
紺野が嘘をつくなら、何か理由があるからだろう。
「許すの?」
「ああ、紺野が嘘をつくからには、それなりの理由があるはずだよ」
「理由があればいいの? 理由がある嘘なら許せるの? 」
「なんでも、なわけじゃないよ」
人を助けるためにつく嘘もある。けれど、人を傷つけるためにつく嘘もある。
「じゃあ、こういうのは?」
裕太は机の椅子をベッドの横に持ってきて、そこに座った。
正直、隆は話をこのまま続けたいとは思わなかった。咳を我慢している喉はすっきりしない。頭もまだ疼く。けれど、裕太の顔が真剣で拒むことは躊躇われた。
「何?」
短い言葉で促した。何かを悩んではいるのだろう。紺野とのことを勧めたのは自分だった。
少し考えるように視線を巡らせた裕太は、決心したように視線を合わせてきた。
「……すごく欲しいゲームソフトがあって、どうしても欲しくて、でもお小遣いじゃ買えなくて、お金をためるためにその店でバイトすることにしたんだ」
「ん」
「でも、そのソフトは凄い勢いで売れていって、最後のひとつになったとき諦めきれずに隠してしまって、その時、買いにきた人に売り切れましたよって言った
んだ。それがたかちゃんだったら、それを後で知ったら、たかちゃんはどう思う?」
「そんなの……それがどれくらい欲しかったかとか、嘘ついたやつがどういうやつかによって全然違うだろ」
漠然とした問いに、はっきりと答えてやることはできない。
そんなの、その時になってみなければ分からない。世の中なんてそんなことだらけだ。だからこそ、悩みもすれば希望もある。
「すごく、欲しかったんだ」
裕太が力なく言う。
「ゆう――――」
声をかけようとした途端、喉の違和感に咳がでて、まるで我慢していたものを吐き出すように出てくる咳を隆は止めることができなかった。裕太にうつしちゃい
けないと、隆は咄嗟に布団に顔を埋めた。
「たかちゃん」
驚いたように、裕太が立ち上がり背中に触れる。触れた手が優しく撫でてきて、身体の奥を熱くする。熱に溶かされるように、身体は楽になっていった。
「ごめ、裕太」
少し楽になった身体を起こすと、裕太が心配そうに見つめてくる。
「大丈夫だよ。ちょっと咳が派手なだけで……」
裕太の手はまだ背中に触れていた。咳は治まったのに、まだ撫でていてくれる。
「ごめん。たかちゃん」
裕太は今にも泣きそうな顔をしていた。
「紺野に相談してみ。あいつなら、きっと良い答えを出してくれるよ」
もう自分は裕太を手放した。付き合いをやめるというならいざ知らず、無闇に手を口を出していい訳がない。
「たかちゃん、紺野さんのこと信頼しているんだね」
「当たり前だろ」
それでなきゃ、裕太を任せたりはしない。
「好きなんだろ?」
隆は裕太の顔をうかがうように覗きこんだ。紺野が好きだと言ったのは裕太だ。
裕太は顔を伏せたまま、小さく頷いた。
「ごめんね、たかちゃん。僕がいたらゆっくり休めないよね」
裕太の手が背中から離れていく。寂しさとともに身体の中が冷えていく。けれど、それにも慣れなければいけない。
「お前に、うつしたくないから、な」
すぐに襲われる喉の違和感に、隆は口を閉じたまま咳払いをした。
「早く、元気になってね」
裕太はもう一度背中を優しく撫でると、そのまま背を向けた。
ドアの前で小さく手を振ると、裕太は笑顔を見せてドアの向こうへ消えたいった。
まるで謎解きのような問いかけを裕太は残していった。
すごく欲しかったんだ、とまるで遠くのものに対するように裕太は言ったけれど、それはもう手にしているはずだ。全てじゃないかもしれない。それが心のどこ
かに引っかかっているかもしれない。けれど、それは時間が解決してくれるだろう。
お前はいいじゃないか。
裕太の姿を思い浮かべながら、隆は心の中で呟いた。
気持ちを伝えることができて、それに相手が答えてくれた。自分が仕向けたことだとは言え、自分の先には諦めることしかない。
それが裕太の幸せだと思うから、受け入れようと思う。なのに、望みは叶ったはずの裕太は寂しそうな顔しか見せない。
「お前より不幸なやつなんてたくさんいるんだぞ」
隆は口の中で呟いた。
「どうだった?」
模試の結果を見ていた隆の後ろから紺野が覗き込んできた。
「まあ、仕方ないよ」
風邪やら精神的なものやら色々あって、成績は落ちた。ただでさえ追い上げてくる時期ではある。
ふと周りを見回すと、辺りに人はいなかった。少し離れた後ろと前の入り口近くで話をしているやつはいるけれど、こちらに気を回すような感じではなかった。
「なあ、紺野」
隆は紺野に前に座るように促した。
「何?」
紺野が隆に従って、前の席へ座る。
「裕太のこと、なんだけど」
隆は声を潜めた。
裕太と最後に言葉を交わしてから一ヶ月近くが経っていた。
ずっと気になりながら、訊けずにいた。今更自分が何を言うんだ、という気もする。けれど、気になったまま、気持ちは晴れない。裕太がもう部屋へ来ることは
無くなった。けれど、校舎内でたまに見かけることはある。隆に気がつくと笑顔を見せながらも、それが淋しげに感じて、心の中にもやもやするものが溜まって
いた。
「何?」
一瞬紺野は眉を顰めた。
「裕太、どうしてる?」
気になっているとはいえ、聞けることはそんな漠然としたことだ。
「どうって?」
「なんか悩みがありそうだ、とか、気にしていることがありそうだ、とか」
「知らないよ。あれから、あと一回会ったきりだから。その時は用件だけですぐに別れたし」
あっけらかんとした顔で紺野は言った。
「それだけ?」
付き合う、と言ったのに。
「受験生なんだから、遊んでばかりもいられないさ。あいつも承知なはずだけど?」
受験生だから、と言われれば返す言葉も無い。けれど、それなら、付き合うことにする必要もないんじゃないか、と思う。ただ、相手を縛るだけだ。
裕太に紺野に相談しろ、と言ったことを隆は後悔した。
「お前も、ただの幼馴染を気にしていられるほど、余裕はないだろ?」
続けて言われて、返す言葉を更に失った。
「だけど……」
余裕は無い。それは分かっている。だからといって、気にしないで済むかといえばそれは話が別だ。
「だけど、付き合うって言ったんだから、昼休みとかに声かけてやってくれよ」
「そんな暇俺にはないよ」
即答され、その言葉が冷たく感じた。紺野らしくない。そう感じた。
「お前に時間がないって言うんなら、俺が裕太の相談に乗ってやっていいか?」
知らなかったのならまだしも、紺野が受験が終わるまで裕太に時間を割けないというなら、幼馴染として相談くらいは乗ってやってもいいかと思う。
「そんな余裕、お前にもないだろ」
声音は柔らかい、けれど厳しい言葉が返ってきた。
時間だけを言うなら確かにそうだ。けれど、効率は絶対に違う。何かを気にしているより、済ませてしまった方が良い場合もある。
「……けどさ。やっぱ、気になるから」
裕太の笑顔ではない寂しげな顔と、答えを出さないままの問いかけが心の隅で引っかかる。
「お前が気にすることないよ」
紺野が言い捨てる。いつもと違う厳しい声音に隆は違和感を持った。
「紺野?」
穏やかなやつだ。声を荒げるところなど見たことは無かった。
「自業自得なんだから、放っておけばいい」
――――自業自得?
「なんのことだ? もし、この間のことを言っているなら、あれは俺が独断で――――」
「もう、あいつには構うなよ。俺はあいつのことは認めないし、許せない」
言葉を遮られ、出る紺野の厳しい言葉に、隆は呆然とした。
「ちょっと待てよ、紺野。裕太がお前に何かしたのか?」
紺野が許せないというほどのことを?
「ああ、したよ」
きっぱりと紺野は言った。
「何を?」
裕太が他人を怒らせることをするとは思えない。それも、好きなやつに対して。
「……本人に聞いてみればいいよ。そうしたら分かる」
「裕太に?」
まだ何か隠しているのだろうか。
「あいつが正直に言うかどうかは分からない。けれど、真実を聞いて、それでもあいつが気になるなら、好きにすればいいよ」
紺野は隆を睨むように見ると、がたんと大きな音をたてて席をたった。