良かったね、そう言葉を残してから、裕太はまったく姿を見せなくなった。
当たり前といえば当たり前だ。
おもいっきり誤解しているのだから無理もない。その誤解を解く手立ても隆にはなかった。
「最近、裕太くんこないわね」
朝、パンをかじりながら、隆はそんな母親の言葉に苛立った。
「知らないよ」
自然に口調は険しくなる。
「彼女でもできたのかしら」
「さあね」
そんなわけはない。あいつには彼女はできない。彼氏なら別だけど。
「裕太くん、可愛いからもてるんでしょうね。あんたと違って」
「さあね、知らないよ」
朝食もそこそこに隆は席を立った。
裕太が告白されたという話は知らない。けれど、全てを話してくれていたわけではないと、紺野のことで分かった。
正直、裕太が紺野と二人で話をしていたのはショックだった。あれが始めてだとは思えない。
あの二人はどういう関係だったのだろう。裕太は既に告白していたのか?
それを確かめることは躊躇われる。
訊くならば、あの時しかなかったはずだ。失恋した裕太が始めて泣かなかった日。あの時なら訊けたかもしれない。
今更、思っても仕方ないことを、諦め切れずに思いおこす。
過去に戻れるならば、紺野に告白されたときに断れば良かった。どうせばれてしまうなら、誤解を生まないだけマシだ。
良かったね、そう言った裕太の声が耳について離れない。
いい訳ないだろっ!
幻の声に悪態をついても、何も変わらない。
どうせ、裕太の心ン中に自分はいなかった。だから、今更失恋したってわけじゃない。
そして、そんなコトを考えていられるほど、余裕があるわけじゃない。カレンダーは毎日進んでいく。受験は待ってくれない。
太陽の光が心を癒す効果があるのかは知らない。けれど、昼間は、胸の痛みを抱えながらでも、過ごせた。笑えた。考えられた。それが、空が暗闇に包まれる
と、頭は裕太の顔を脳裏に映したまま、動くことをやめる。胸が痛いほど苦しくなる。いっそのこそ心臓まで動きを止めてしまえばいい、と思いながら、それは
ちょっと待ってくれ、と思う。同じ世界でまだいたい。もう少し胸の痛みが和らいだら、裕太の幸せを望める自分になれるかもしれない。
最後に見た悲しい顔をした裕太ではなくて、笑った裕太を記憶に上書きしたい。
今までもうひとつのぬくもりを感じたベッドの中は、冷たく冷え切っていて、今がせめて夏だったら良かったのに、と思った。
これから寒さが厳しくなっていく。肌に感じる寒さだけじゃない。心の中に巻き上がる風も冷たさが増していくようだった。
週末、予備校の帰り、隆は駅の改札を出て脇にあるファーストフード店の前を歩きながら、視線を感じて顔を向けると、裕太がいた。
――――こんな時間に?
今までは無かったことだ。
向かい合っているのは、近くの女子高の制服を着た隆の知らない子だった。隆が知らない、ということは近所の子じゃない。元同級生という類ではない。
傍目から見れば、恋人同士にも見えた。ポテトをつまみながら、裕太は笑っていた。
すっぱり諦めると裕太は言っていたから、その通り実行したのだろう。
けれど、あれから一ヶ月も経っていない。こんなに早く諦められるものだったのだろうか。
立ち止まって見ているわけにもいかず、隆はゆっくりと歩きだした。
裕太が遠くになっていく。今、実際の距離が離れていくように、心の距離も離れていくように感じた。自分の知らない裕太が増えていく。
「今、帰り?」
突然顔を覗き込まれて、隆は驚いて立ち止まった。
「裕太」
「店にいたのは気がついたんでしょ。声をかけてくれれば良かったのに」
裕太は隆の斜め前で立ち止まった。
「あ、でも、邪魔だろ?」
「たかちゃんに紹介したかったんだよ。可愛いだろ、彼女」
「あ、うん。でも、お前、女は……」
隆は言いかけてやめた。まるで文句のように思えた。裕太が誰と付き合おうと自分は何も言えない。
裕太は視線を一度落とすとすぐに上げた。
「もう、望みが無いって分かったから。指向だけの問題じゃない。そういう対象としてみてくれないのに、いつまでも思っていたって仕方ないもんね。好きだっ
て言ってくれる子と付き合っていた方が楽しいよ。何も考えることないし、辛いこともないし」
裕太が口元を緩める。笑顔なのに、瞳は笑っていなかった。
「……お前、それでいいの?」
裕太はまた下を向くと後ろへ下がるように歩きだした。つられて隆も歩きだす。
「だって仕方ないよ。好きになってもらえなかったんだから」
「そんなの、分からないだろ? 」
「分からない? 」
裕太が怪訝そうな瞳を向ける。
「今は違ったとしても、まだ先は分からないだろ? いつか振り向いてくれるかもしれない」
そう、隆はずっと思ってきた。
「たかちゃん、自分の言ってること分かってる?」
「え?」
「たかちゃんは、好きな人がそんなに簡単に変わるの? お互いに気持ちが向いあっているって分かっていて、それでも、その先に好きな人が変わるって思う
の?」
「あ……」
隆の中では一歩通行のトライアングルが裕太の中では違う。自分ひとりが蚊帳の外だと、裕太は思っているはずだった。
「たかちゃんは好きな人がそんなに簡単に変わる? 」
「それは……」
隆は肯定することはできなかった。
「でしょう。なら、さっさとくっついちゃってよ。はっきり諦めさせてよ。それでないと拷問を受けてるみたいだよ」
違うんだ――――そう隆は頭の中で叫んでいた。
けれど、それをどうやって伝えたらいいのだろう。
自分の気持ちは裕太の誤解でも、紺野の気持ちが変わるわけじゃない。
もし、素直に自分の気持ちを言ってしまったら、裕太はどうするのだろう。
裕太を取られるのが嫌で、力になれることもあったのに見て見ないふりをしていた自分もいる。何よりも、そんなことはしない、と裕太が言ったことを自分はし
ていた。紺野に応える気もないのに、期待を持たせるようなことを言った。
車道には時折車が走っていく。明るい光で照らした後、赤いテールランプと過ぎ去る音を残して。
駅前を少し過ぎると、人波は急に少なくなった。
沈黙のまま、向かいあうようにゆっくり歩いていた。裕太は時々後ろを確認するように見て、それ以外はずっと下を向いたままだった。
「たかちゃん」
突然裕太が顔を上げた。
「ん?」
「お願いがあるんだけど」
「何?」
「後でたかちゃんの部屋へ行くよ」
裕太はくるっと後ろを向くと、前に向かって歩きだした。急に歩調を速めた裕太に、隆も合わせた。
パタン、と突然聞こえたドアの閉まる音に驚いて隆が振り向くと、ドアの前に裕太がいた。
「びっくりさせるなよ」
インターホンの音も、玄関ドアの音も、階段を上がってくる音もなにも聞こえなかった。何も音が聞こえないほど、自分が勉強の集中していたわけじゃない。机
の上にプリントとノートを置いていても、後で来ると言った裕太のことが気になっていた。
「驚いた? ごめん。おばさんに知られたくなかったから」
裕太は、よくこうやって部屋に忍び込んでいるのかもしれない。事実、泊まっていたことなど、親は知らないだろう。
「お前、泥棒になれるよ」
自分の心もいつの間にか捕まえられてしまった。
「……何でも盗めるかな……」
「俺からなら、盗めるかもな」
「ほんと?」
裕太が近付いてくる。
「何か欲しいものあんの?」
喜ぶなら何でもやる。
「考えとく」
「なんだよ。無いんじゃないか」
「お願いなら、あるよ」
裕太が首に腕を回してきて、その仕草に隆はどきっと胸が跳ねた。
「……そう言ってたな」
ゆっくり息を吐いてから隆は答えた。
自分にできることなら、それが裕太が喜ぶことなら、なんでも叶えてやりたい。たとえ、それが自分にとって、辛いことでも。
「たかちゃん」
耳元で裕太が囁く。
心臓の鼓動が早くなってくる。
「ん?」
せめて離れてくれよ、と思うのにそれを言葉にはできなかった。
「抱いて……」
耳の中で響いた声を隆は現実のものだとは思えなかった。
「……たかちゃん、抱いて」
裕太は首に回した腕で頭を抱きしめてくる。
「……ちょっと待てよ」
隆は振り返って、裕太の身体を押した。
「だめ?」
裕太が眉根をよせ、顔をゆがめる。
「だめ、とか、いい、っていうことじゃないだろ」
言う相手を間違えている。裕太が自分に言う言葉じゃないはずだ。
「じゃあ、何?」
「何って……」
隆の心臓はばくばくいっていた。押さえつけてしまいたいと何度も思った相手が、手の中に飛び込んできた。衝動に任せて抱いてしまうことは簡単だ。
けれど――――裕太を失いたくなくて弾みで言った言葉に後悔したのはついこの間のことだった。向こうから飛び込んできたのだといっても、後で後悔すること
はないのだろうか。
黒い大きな瞳が不安そうに自分を見ていた。
立ち上がって、抱きしめて、ベッドに押し倒して、唇を塞いでしまえ。裕太がそれを望んでるんだろ。頭のどこかがそう命令する。なのに、身体は動かなかっ
た。
「今までは指向が違うと思っていたから言えなかったけど。男同士なら身体だけの関係っていうのもよくあるんでしょう?」
雑誌か何かでそんなことが書いてあった気もする。
「だからって」
男同士だけじゃない。男女にも身体だけの付き合いはあるだろう。だからと言って、それが良いことだとは思えない。
「辛いんだ。すごく辛くて……少しの間でいい、忘れさせて」
裕太が手を伸ばしてくる。その手が隆の頬に触れた。
「練習だって思ってよ。経験、あった方がいいでしょう?」
裕太が顔を覗きこんでくる。
隆はごくりと生唾を飲み込んだ。
まるで身体の中に時計がはめ込まれたように、どくどくと心臓の鼓動が響いていた。
「紺野さんを……抱くんでしょう? 女には経験あるかもしれないけど、男は初めてだよね。知ってた方がいいこともきっとあるよ。だから」
だから?
だからって、なんで裕太を練習台にしなきゃいけないんだ。紺野を抱く予定だってない。
「紺野さんに、触れるんでしょう?」
頬を撫でていた手が唇に触れる。
裕太は切なそうに、顔をゆがめた。今にも泣きそうな顔をしながら、瞳は微かに潤むだけだった。今までは、声を上げて泣いたのに。どこから湧いてくるのだろ
うと思うほど、涙を溢れさせたのに。
吐き出さずに抑えている。一人でじっと耐えている。
抱いてやれよ。本望だろ?
頭に響く声を隆は否定はできなかった。
抱きたいさ。でも、ずっと見守ってきた。どれほど手を出したくても、じっと耐えてきた。壊してしまいたくなかった。
裕太に回したくなる手を、隆はぎゅっと拳に握った。
これは、一時の感情だ。そんなものは、きっと後で後悔する。いままでずっと我慢してきたのに、最後の最後で壊してしまうのか? 裕太が大事なんだろ?
自分に問いかける。
大事さ。
躊躇うことなく答えられる。
隆は握っていた手を緩めると、裕太の頭を撫でた。
「分かったよ……色々準備しなきゃいけないモンもあるから、俺、駅前のドラッグストアまで買いに行ってくるよ」
「いいよ、そんなの、僕は大丈夫だよ」
裕太が戸惑った顔をする。
「本番と同じでやんなきゃ、練習にならないだろ」
一瞬曇った顔を見せると、裕太は顔を伏せた。
「……そうだね」
「お前、俺のベッド好きだったろ。寝て待ってろよ。すぐ帰ってくるから。それとも、前言撤回する? やめる?」
裕太は下を向いたまま、何度もかぶりを振った。
「じゃあ、行ってくるよ。すぐ帰ってくるから」
隆は席から立ち上がると、裕太の頭をくしゃっと撫でた。
顔を上げた裕太が不安そうに見てくる。
「大丈夫だよ、嫌だって言ったたやめるから」
そんな不安そうな顔をされては抱けない。
裕太はまたかぶりを振った。
「じゃ、待ってろ、な?」
不安そうな顔色を残したまま、裕太はゆっくり頷いた。
隆は鞄の中から携帯と財布を取り、ポケットに突っ込むと部屋を出た。
階段を下り、玄関を出て、家の門を出ると、息をつく。
抱きたいさ。
上を見上げ、真っ暗な空向かって心の中で呟いた。
駅に向かい歩きながら、携帯をポケットから出す。
履歴から目当ての人物へラインを繋いだ。
「隆? 何かあったのか?」
ラインの向こうにあるはずの、端正な顔立ちを思い浮かべる。
「紺野……頼みがあるんだけど」
心が重く沈んでいく。隆は錘をつけられたように重く感じる身体を引きずるように一歩づつ前へ歩いていった。