紺野に告白された後、隆はなにかむしゃくしゃして落ち着かなかった。何にでも八つ当たりしたい心境で、階段は足を叩きつけるように上がり、思いっきり開い
たドアの向こう、ベッドの縁に腰掛け驚きで目を見開いた裕太がいた。
「何かあったの?」
挨拶よりも先に、裕太が声をあげる。
「何でもないよ」
そう言いながら、隆は鞄の中が軽いことに気がついた。
鞄だけ引っつかんで帰ってきた。中身はまだ机の中だと思い出して脱力した。別に取り立てて困ることはないが、使い慣れたシャーペンは机の中だった。
隆はそのまま机の前に座った。
「何かあったの?」
裕太が重ねて聞いてくる。
それに隆は無視をした。
何もないわけがない。それを裕太は分かっているだろう。しつこく訊いてくるのも分かっているからだ。
付き合いは長い。それこそ何も飾らない物心がつく前から知っている仲だから、機嫌が悪いことくらい分かるだろう。
何もないのに機嫌が悪くなるわけはない。
だからといって、なんと言えるだろう。
お前の好きな紺野が自分のことを好きだと言った――――そんなことを言えるわけがない。だいたい、まだ半信半疑だ。
けれど、わざわざマイノリティであり、下手をすればその相手に軽蔑されかねないことを、真面目な顔をして嘘がつけるやつでもない。それこそ、馬鹿がつくく
らい真面目なやつだ。だから、紺野の言葉は本当なのだろう、と隆は思う。
もし、裕太が絡まなければ、紺野に対して恋愛感情は持てないとはっきり言っただろう。
言えなかったのは自分の弱さだ。
十月の中旬に行われる文化祭は、これからが本番だ。自分の知らないところで裕太が紺野と会う機会が増える。
はっきりと断ってしまったら、紺野と裕太にきっかけが生まれてしまうかもしれない。
そんなことは無いだろう、と思いながらも、元気がない紺野に裕太が声をかける場面が浮かぶ。
今みたいに。
『何かあったの?』
黒い大きな瞳に心配という気配を乗せて。
声だけじゃなくて、瞳でも語りかける。
無邪気で影がなくて素直な裕太に、紺野は惹かれてしまうかもしれない。辛い時には裕太みたいなやつが傍にいてくれれば気持ちが休まるだろうと思う。それで
うまくいってしまったら? そう思ったら、紺野を振り切ることはできなかった。紺野に裕太を見て欲しくない。興味の対象にはして欲しくない。それが裕太に
とって幸せなことではない、と分かっていても。
裕太の幸せと自分の幸せは重ならない。自分は裕太の不幸を望んでいる。
心の中で渦巻く黒い影は裕太への言葉を躊躇わせた。
「何か……あったの?」
さすがに三度目の問いかけを隆は無視できなかった。
「裕太が気にすることじゃない。学校でちょっと苛立つことがあっただけだ。模試の結果もあんまり良くなかったから、ちょっと苛立ってるだけだよ」
机に向かいながら隆は言葉にした。裕太に向かいあって、話すことはしたくなかった。
今、自分に責任が持てない。
紺野に彼女ができれば、沈む裕太を慰めるのが自分の役目だと思っていた。
今すぐじゃなくて良い。いつか、裕太が自分の存在に気づいてくれないだろうか、と思っていた。そんな期待が音もなく弾けていく。
先を進むことも、後へ戻ることもできない身動きできない自分を感じた。
このまま、ずっと卒業までもやもやとした黒い影を引きずらなければいけないのだろうか。
裕太にも紺野にも真実を告げることができずに。
「僕は邪魔?」
遠慮がちの声が聞こえた。
「僕がいるから、勉強ができない?」
「そんなことないよ」
隆が後ろへ振り返ると、真っ黒な瞳とぶつかった。
胸がちくっと痛む。
本当に好きなら幸せを望むべきなんじゃないのか。そう頭の片隅で囁く声がある。おまえはずるい。まるでカノンのように追いかけてくる声がある。
裕太に教えてやれば良い。あいつとお前に指向は同じだと。そうすれば裕太は喜ぶだろう。
紺野に言えば良い。やっぱり、お前は恋愛対象にはならないと。
それで、うまくいくかどうかは誰にもわかりはしない。
裕太は帰ってくるかもしれない。
指向が同じでも、思いが重なるわけじゃない。
けれど、それで、知ってしまったら?
裕太が紺野の好きな相手を知ってしまったら?
裕太は帰ってくるのだろうか。
恋敵だと知って、今までのように、腕の中で泣くだろうか。
「今日は、帰るよ」
裕太はベッドの縁から立ち上がった。そのまま、隆の前を通り不安げな顔で小さく手を振ると部屋を出ていく。裕太を視線で追いながら、隆は言葉をかけられな
かった。
パタンと小さくドアが閉まる音がすると、足音が遠ざかっていき、階段を下りていく。
部屋に一人で取り残されて隆はほっとした。
とりあえず、今日は裕太に真実を話さなくて済んだ。姑息だ、と思いながらも簡単な方へ流される。明日裕太に会ったら、明日紺野に会ったら、その先は考える
ことを脳みそが拒否する。
知らなければ良かった。
知らなければ、夢を見ていられた。
知ってしまって良いことは無い。
裕太の気持ちも、紺野の気持ちも、自分の気持ちさえ、持て余すばかりだ。
三年間付き合った彼女にさえ、こんなに苦しい気持ちは持たなかった。他に好きな人ができたと振られた時でさえ、少しの寂しさはあっても、すぐに忘れた。な
のに、今は裕太のことを思うだけで胸がつぶれそうになる。
可愛くて守ってやりたくて、そのくせ、不幸を望んでしまう。自己矛盾の鎖が自分の周りをぐるぐると回る。そして、それが自分を締め上げていく。
身体は動かない。前へ進むことも、後戻りすることもできない。
「はぁ……」
でるのはため息ばかりだった。
何もしたくないのに、頭上から仕事が降ってくる。週番とは教師にとって便利なシステムなのだろう。課題を集めて、職員室まで持ってくるように朝担任から言
われていた。とりあえず、今日集めた分を持って、隆は昼休みに職員室まで届けに行った。
帰り道、窓から入ってきた風を隆は心地よく感じた。夏のむっとした熱気ではなく、冬の身体が縮むような冷気ではなく、肌を優しく撫でていくような風は甘い
花の香りも乗せていた。誘われるように、隆は窓までいくと、窓の桟に頬杖をついた。
気分は優れない。受験生でもある自分が色恋ごとを引きずっている場合じゃないと思う。時は着実に進んで行き、隆の都合で止まってはくれない。
紺野はいつもどおりだった。昨日のことは夢だったのかと思えるほど、自然に話しかけてきた。
「おはよう」
それは朝の挨拶。
「ごめん。昨日のことは俺が考えなしだった。忘れてくれていい」
それは、昨日のことは夢ではないという念押し。
そして、軽い笑顔を残すと、紺野は自分の席へ帰っていった。
忘れてくれていい、と言われて、本当に忘れられたらどんなに良いだろうか。ゲームのリセットやパソコンの削除のように、人間の記憶は簡単じゃない。忘れろ
と命令しても忘れられない。
ただ、忘れてくれと言われて、断ることもできなくなった。それは良いことなのだろうか。麻痺した頭にはよく分からない。
窓からは裏庭が見えて、奥のフェンスに沿って金木犀が並んでいた。深い緑の中にオレンジ色の花がぼつぼつと顔を見せている。手前には裏門通じるコンクリー
トで固められた細い道が校舎に沿って通っている。その脇には大きな銀杏の木が立っていた。
太い大きな銀杏の木、その脇に人影が見えた気がした。
「本当に?」
そして、聞こえた声に隆は身体が固まった。
「本当だよ」
そして、もう一つ聞こえてきた声も聞き覚えがある声だった。
隆は思わず窓から離れ、隠れるように脇の壁へ背を当てた。
――――裕太と紺野?
接点がないとは言わない。けれど、休み時間に二人で会う仲でもないはずだ。
「たかちゃんが、本当に保留するって言ったの?」
不安そうな裕太の声。
「ああ、望みを持たせてくれたんだろうけど……」
穏やかに答える紺野。
「……たかちゃんはそんなことしないよ。気持ちがなければ、そんな望みを持たせるようなことは言わないよ」
「俺も、そうあって欲しいと思うけどね」
「……良かったね。紺野さん……」
その声は消え入りそうだった。
隆は聞いていられなくなって、その場から逃げるように教室まで走った。
良かったね、紺野さん――――そう言った裕太の声が頭の中で回っていた。
――――知られた?
知られたくなかった。
けれど、裕太と紺野の話は確かに自分のことだろう、と思う。
それも、裕太は誤解している。
裕太のことがなければ、確かにはっきり断っただろう。けれど、あの時は断れなかった。断ってしまえば、そのまま裕太を紺野に取られてしまう気がした。それ
は嫌だった。ずっと見守ってきた裕太を、素直に手放したくは無かった。だから、出た言葉だった。
なのに。
自分の思惑と現実は思いのほか離れていて、一番知られたくなかったやつに、一番知られたくないことを知られてしまった。
噂ならいい訳もできるだろう。そうではなくて、本人の口から聞いた言葉をどうやって釈明できるのだろう。
一瞬の気の迷いが深い溝の中へ自分を落としていく。隆はそう感じた。
「裕太くん、待ってるわよ」
玄関に入り、隆が「ただいま」と一声かけると奥から母の声が聞こえた。
返事をする気にもなれず、仕方なく階段を上る。昨日は勢いで一瞬のうちに上った階段が今日は二倍にも三倍にも長く感じた。
学校帰りに寄った予備校の授業は全然頭に入らなかった。何やってんだよ。そんなこと考えている場合じゃないだろ、と思うのに思考回路は余計なことばかり信
号に乗せてくる。
裕太とこれからどう向き合えばいいのか。
覚悟を決めろよ。裕太に幸せになって欲しいだろ? 裕太に笑っていて欲しいだろ? どうすればいいのか、本当は分かっているんだろ?
頭の中で方々から声が聞こえる。
分かっているんだろ?
その問いかけには、答えたくなかった。
分かっているんだ。自分がさっさと諦めればいいんだ。自分ははっきり答えがでてる。
好きなのは裕太で、紺野には恋愛感情は持てない。
裕太も、好きなのは紺野で、自分は単なる幼馴染でしかない。
紺野は?
好きだと言われた。
けれど、裕太への気持ちは分からない。愛情に変わるかもしれない。変わる可能性が一番あるだろう。
裕太はいい子だから、きっと紺野も気にいる。
第一、いつの間にか、二人きりで話す仲になっていた。裏庭なんて普段誰も行かないようなところで、偶然出会ったなんてあり得ない。
示し合わせたのか、誘ったのか。どちらにしても、それだけ親しいということだ。
いつの間にか、知らないうちに――――裕太はそんなこと一言も言ってくれなかった。隆の知らないところで、あの二人は繋がっている。
全てを知って、今裕太は何を思うのだろう。
どんな用があるのだろう。
今までのように、しゃくりあげるのだろうか。恋敵に?
恨み言を言うのだろうか。何を言われても、隆に返す言葉は無い。
どんなにゆっくり歩いても、確実に部屋へは近付いてくる。
目の前のドアを一度は躊躇って、ゆっくりと開けた。逃げているわけにもいかない。逃げる場所なんてない。
昨日と同じように、裕太はベッドの縁に腰掛けていた。
俯き加減の顔がドアの音で上を向く。まっすぐに合った瞳に涙は無かった。けれど、瞳の色は深く沈んでいた。その瞳の色を変えてやりたいと思うのに、自分に
はその力がない。
ドアを閉め向かい合ったまま、少しの時間が流れた。
「僕、諦めるよ」
裕太が瞳がうっすら滲む。
「だから、待つことないよ」
滲んだ瞳はそのままで、涙をこぼさなかった。
「裕太、何言ってんだよ……何のことだよ」
分かっているのに、隆の口からでるのはそんな言葉だった。
「紺野さんから聞いたよ。答えを保留するって言ったのは、僕のことがあったからでしょ? 僕はもう諦めるよ。だから、待たなくていいよ」
「ちが……」
言いかけて、隆は口を噤んだ。
たかちゃんはそんなことしないよ――――そう裕太は言った。
裕太を取られたくなくて、口から出た言葉をどう釈明すればいいのだろう。
「僕はもういいんだ。すっぱり諦める決心がついたよ。だから、僕のことは気にしないで……ごめんね。たかちゃん」
裕太は顔を伏せるとそのまま立ち上がった。
「裕太」
隆がかけた声に裕太は顔をあげると、笑顔を見せる。口元は笑っているのに、潤んだ瞳は沈んでいる。瞳の色は悲しみをそのまま乗せている。
「良かったね、たかちゃん」
良かったね、紺野さん――――昼間聞いた声が重なる。
返す言葉もなく、隆は身体が固まった。
裕太は隆の横をすり抜けるように、部屋を出ていった。
昨日と同じ、パタンとドアが閉まる小さな音を残して。