突然吹き込んできた風がテーブルの上に置いていた紙を飛ばした。白く長い指が紙を追い、畳に落ちた紙を拾う。
「あ、ごめん。槙さん」
槙は口元を綻ばせて「どういたしまして」と言いながら、紙をテーブルの上に戻した。
桜の花は散り、明るい緑色の葉が木々を色づかせている。締め切った部屋が少し暑く感じられて、薄く窓を開けていた。様子を見に来たという槙を部屋へ通し、 作業はそのまま続けていて、と言う槙の言葉に甘えて、区切りがつくところまでやっていたところだった。
「もう一本線を描いたら、お茶を入れるから」
定規の位置を計りながら雅紀が言うと、
「いいのよ、お構いなく。邪魔したら怒られちゃうから」
と言いながら槙は、更に顔を綻ばせて、くすっと笑った。

「いいんだ。これが終わったら休憩しようと思っていたから」
線を引き終えると、他の紙と重ねてテーブルの端に置き、雅紀は立ち上がった。
「ほんとに、いいのよ。様子を見にきただけなんだから」
横を過ぎていく雅紀を目で追いながら槙が言う。
「うん。僕が欲しいんだ」
少し後ろを向いて答えて、やかんに水を入れコンロにかけた。

「ほんと、何も無いわね」
背中から槙の声が聞こえる。
真哉と二人で生活する為に借りたアパートは築15年の1DKだった。6畳の部屋にはシングルベッドと机と本棚がひとつづつあり、真ん中に冬にはコタツにな るテーブルを置いている。洋服の類は押入の中に吊したり、箱に入れたりしていた。
「うん。必要なもの以外は全部処分した。置いておくところも無いしね」
テレビやらCDデッキやら真哉の部屋にあったものはほとんどリサイクルショップへ持って行った。新しいものだったのに、思いの他安くて、売るのをやめよう かとも思ったけれど、結局売る事にした。必要最小限のものから二人で作っていきたかった。
「大の男二人じゃ、この広さは狭いんじゃないの? 」
ここに引っ越して来たのが夏の終わりで、それでも暑いと思ったのだから、今年の夏が怖い。けれど、冬はお互いの熱を感じて暖かかった。どっちもどっち、今 は触れあう距離がうれしいけれど、いつまでもそう思うのだろうか。
「仕方ないよ。来年になれば僕は卒業してちゃんと給料貰えるようになるはずだから、そうなったら、もう少し広いところへ引っ越せるかもしれない」

二人で暮らすにあたって、真哉は親からの仕送りを全部切った。大学をやめて働くと言い出した真哉を、やめる事はないと説得したのは智史 だ。真哉が大学の友達と始めたネットショップへ商品をだす事も智史はしてくれて、少しだけれどやっと利益も出てきている。あとは真哉のバイトと、見習い社 員として貰っている雅紀の少しばかりの給料でなんとか生活していた。
「で、彼氏は? 」
「今日はバイトに行ってる。学校行って、バイト行って、寝るためだけに帰ってくるようなもんだよ」
夜遅くまで働いている真哉が身体を壊さないか心配で、そう言ったら学校で寝てるから大丈夫だと言っていた。きっと、そんな事はない。早く卒業したいと思っ ているはずだから。雅紀もバイトを始めると真哉に言ったら、すぐに却下された。
今年は勉強しろと言う。来年になったら楽させてもらうから、と続けられて真哉の言葉に従った。
良いものを描いて、早く売れるようになる方が結局は良いのだと思うことにした。

沸いたお湯で紅茶を入れて、槙が買ってきてくれたケーキを切って皿に盛った。
テーブルに紅茶とケーキを並べると、「ありがとう」と槙が柔らかく微笑む。前から綺麗な人だとは思っていたけれど、更に綺麗になった思うのは、気のせい じゃないだろう。

「そう言えば、もう、槙さんじゃないんだね」
トレーをテーブルの端に置くと、自分も腰を下ろした。
「別に何も変わらないわよ。何もしなかったし。仕事では槙のままやってるし」
言いながら、槙が嬉しそうに笑うのを羨ましいと思った。槙は紅茶を一口口に含むと、「美味しい」と小さく呟く。

「ジノリのイタリアンフルーツなんて、このカップだけこの部屋には合わないわね」
槙はカップの絵柄を見るように、少し上に掲げた。
「うん。それは特別。この間初めて僕のデザインが売れた時、記念に買ったんだ。真哉が何か自分の為に使えって言ったから」
贅沢をできないのは分かっていたけれど、少しだけ真哉の気持ちをもらった。ジノリのイタリアンフルーツは智史の部屋で初めて見たものだった。それまで、陶 器のブランドなんて全然興味も無かったから、気にした事も無かったけれど、綺麗な絵柄と触れて心地よい感触は中に入れられた紅茶の味さえも美味しくさせ る。今度はマイセンが欲しいと密かに思っていた。
「へえ、彼氏優しいじゃない」
真哉を褒められたと思ったら、自然に顔が綻んでしまった。
「少しづつ増えればいいなあ、って思う。僕のデザインが売れたって聞いた時、すごく嬉しかったんだ」
「そのうち、置く場所がなくなるくらい増えちゃうわよ」
「そうなると、うれしいな」
雅紀がカップを口元へ持っていくと、槙がテーブルの上の紙を一枚拾いあげた。
「これなんか、羽根のモチーフがきれいね」
ペンダントトップを描いたもので、三個の小さい石を羽根が包んでいる。
「槙さんに言ってもらえると、自信がもてるよ。来週智史さんが見てくれるって言っていたから、それまでに何枚か見せられるものを描かなきゃいけないんだ」
「うん。大丈夫よ。私が太鼓判を押してあげる」
言いながら、槙は紙をテーブルに戻す。
「良かった」
雅紀が小さく息を吐くと、槙は微笑んだ。
 

真哉と暮らしはじめてから生活は楽ではないけれど、気持ちは穏やかだった。
真哉が帰るまで起きていようと思うのに、ついうとうとして机の横で寝てしまっている事がある。気がついた時には真哉の腕に抱き込まれて、それだけで満足し た。暖かい体温が身体だけではなくて、心も温めてくれる。堅い畳の上で布団を引っかけただけじゃ、疲れは取れないんじゃないかと思っても、寝息をたてて気 持ち良さそうに寝ている真哉を起こすのは躊躇われたし、自分もその場所から抜けたくはなかった。そのまま目を閉じれば朝で。意識が戻った時に、確かめなく ても感じるぬくもりは心地よい。

「向こうの親は何も言ってこないの? 」
真哉は親との連絡用に使っていた携帯で「もう帰らない」と告げた後、契約を解除しそのまま捨てた。引っ越し先も告げず、向こうから連絡の取りようは無いは ずだった。
「真哉には言ってないんだけど、一度ここに来たんだ。きっと、大学に問い合わせれば教えるよね、本当の親なんだから知る方法はあったと思うんだ」
「それで」
槙は眉根を寄せると、首を傾げた。
「前と一緒。黙って真哉の前から消えてくれって。でも、それはできないって言った――――約束はできないけれど、時間が欲しいって言ったんだ」
「時間? 」
「何年か経てば、気持ちも状況も変わるかもしれない。幸か不幸か僕達は保証してもらえるものも縛られるものもないから」
「それって――――」
槙が続けようとして飲み込んだ言葉が予想できて、それを否定するように頭をふった。
「別れるとか考えてるわけじゃないんだ。ただ、違う形で結びつくあり方もあるかなって。はっきり見えてるわけじゃないから、約束はできないってちゃんと 言ったよ。このまま、ずっと傍にいたいと思うかもしれない。先の事はわからないけれど、真哉が大学を卒業するまで、猶予をもらったんだ。おじさんもあまり 真哉を刺激したくないみたいだし、妥協点だよね」
槙は小さく溜息をつく。
「ずいぶん、落ち着いてるのね」
「うん――――不思議とね」
突然真哉の父親が尋ねて来た時さえ、少しの驚きはあったものの、気持ちは穏やかだった。それは、きっと、真哉が自分が思う以上の事をしてくれるからなのか な、とぼんやり思う。想われていると思えるから、全てに対して優しくなれる。
「強くなったわね」
そう言うと、槙は紅茶をもう一口飲んだ。
家を出る時には、こんな日が来るとは思わなかった。真哉と暮らす事も、自分が今やっている事も。
時間は色々なものを変えていく。ならば、ぎりぎりまで辛い決断はしたくない。それまでに、新しい道が開けるかもしれない。

「そういえば、つい先日も専務の部屋はずいぶんにぎやかだったみたいね」
「――――ごめんなさい」
思いあたる事があって、謝罪の言葉が口から出た。今、真哉は智史の会社に出入りしている。仕事の事でも色々相談しているみたいだった。けれど――――。
「あなた達が会社に来るようになって、ずいぶん、華やかでにぎやかになったわよ。刺激があって、良いけどね」
槙の言葉に苦笑いをするしかない。真哉と智史が静かに話をするという事はできないみたいで、怒鳴り声が響くものだから、ちょっと名物になってる、と松田が 話してくれた。真哉は智史とどんな話をしたかは、決して言わない。

「あなた達が来ると、社の女の子達が喜ぶしね。来年、あなたが来たらどうなるのか、楽しみだわ」
意地悪そうな表情をして言いながらも、槙の瞳は笑っている。
「やだな、槙さん」
答えながら、視線を伏せた。
智史の部屋を出てから、智史と会うのは会社に限られていた。それが、智史のけじめなのだろう。智史と向き合いながら、時々、ふっと、この腕に抱かれていた のだと、思う時もある。自分が一番辛かった時に助けてくれたのは智史だった。
男は同時に二人を愛せると、どこかで聞いた。その時は聞き流した言葉を、今なら、そうかもしれないと思う。
激しく求めたい、と思うわけではないけれど、智史を好きだと思ったのは嘘でも誤魔化しでもない。
「槙さん、幸せ? 」
訊いた言葉に、槙は少し驚いたように瞳を大きく開くと、くすっと柔らかく笑った。それが答えなのだろう。右手で左手薬指のリングをさする。
「でも、指輪は自分で作った方が良かったんじゃないの? 」
槙がさするリングに視線を向けた。
槙が唯一ねだったのは、自分が槙の指輪を作る事だと、智史はぼやいていた。一応の知識があるのだから、できないとは言えなかったらしい。
「いいのよ。たった一つしかないものだから」
「智史さん、なんでもできるのかと思ったら、案外ぶきっちょなんだね」
そう言うと、槙が睨む。
「それが、いいんじゃない」
槙の言葉に思わず笑ってしまった。そんなものかもしれない。好きな人だから許せてしまう。愛しいと思える。それが、歪んだどこにでも売っていそうなデザイ ンの指輪でも。
小一時間ほど、軽い話をすると槙は帰っていった。
「安心したわ」と槙が言った言葉に胸が熱くなった。疎まれても仕方ないのに、この人は優しい。自分も槙に嫉妬する事はなかった。それは、男と女だから?  もし、槙が男だったらと、一瞬思っただけで、その考えは頭から消し去った。実際、槙は違う。

 
 

畳の上で、滑る足を絡めてくる。
「ん……」
釦を外しながら、唇が身体を這っていく。
「あ……」
ズボンの中に差し入れた手が敏感になっているところを包みこむ。
「っ……」
「ごめん、あんまり構ってやれなくて」
耳元で熱い息が囁く。
「なんで……そ、んな事言う……んだよ」
真哉の帰りが遅いのは、自分と一緒に暮らすためだと分かっている。一緒に暮らせるだけで、朝感じるぬくもりだけで充分だと、何度言っても真哉は分かってく れない。
「何も言わずに消えるなんて、もう絶対しないでくれよ」
何度も「もう、しないよ」と答えても、真哉は時々そう言う。
「もうしない……絶対だよ、真哉」
同じ答えを繰り返す。それ以外にどうしたら良いのか分からない。時間は戻せない。一度やってしまった事は元には戻せない。同じ想いを持っていたとすれば、 去るものより、残される方が辛いんだ、たぶん。
「好きだよ」
これしか自分の気持ちを伝える事はできないと思える言葉を続けた。
「好き……あ――――」
声が息になっていく。音が喉元で消えてしまい、喘ぎになって口から漏れる。

好きなのは二人、肌を合わせたのも二人、だけど。
――――僕の描いたものはすべて真哉への気持ちだよ
智史には実際に満たしてくれるものを望んだ。けれど、真哉には、ただ抱き込まれているだけで満足してしまう。身体も満たされていく。
今思えば、描くことは忘れられない真哉への気持ちをカタチにしたかったのだと思う。溢れてくる想いは際限がなく紙にカタチを落としていく。触れたい、守り たい、重なりたい。どの想いも真実だ。
 

「好き……だよ」
そして、この言葉はもう、真哉にしか言わない。

Fin.




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