なんで、こんなに好きなのかな?
会えなくても気持ちが薄れていくことさえない。
初めて抱きしめてくれたから?
二つ下の弟が病弱で親は弟にかかりきりだったから、親にさえ抱
いてもらった記憶はない。
いつも、世話のかからない良い子を演じてなきゃいけなかった。誰かの腕の中で、心を広げられたのは、真哉が初めてだった。誰より
も、一番安らげる存在だった。
もう、きっと、そんな人には出会えないだろう――――でも、諦めなきゃいけない。
もう、課題を広げて二時間は経つのに、一向に進まなかった。智史を失った事はちょっぴり大きかったかな、と思う。分かっていた事では
あっても、あまりに、突然だった。
目を閉じて、静かに息を吐く。
――――大丈夫、僕にはやりたい事がある
自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
鉛筆を持ったところで、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
――――智史さん?
ここ最近は帰りが遅かった。理由はわかっていたし、家主に帰ってこなくても良いよ、と言うのはおかしいから口にはしなかった。わざわざ帰ってきてくれるの
は、心配してくれているからだという事も分かっていた。
食事はしてきたのかな?、と思いながら雅紀は席を立った。
リビングのドアが開き、
「お帰り――――」
声をかけた時、現れた人物は自分の予想とは違っていた。
「雅紀」
ついさっきまで、頭で描いていた人物が、目の前に立っている。首を少し傾けて、優しい笑顔が自分に向けられる。雅紀は、声もでないほどの驚きで一瞬自分を
失った。はっと気づいた時に、駆け出して寝室に逃げ込み、そのまま、背をドアにあて座り込んだ。
なんで? なんで、真哉がここに――――。
「雅紀」
ドアを小さく叩きながら、真哉が呼ぶ。上から真哉の声が聞こえてくる。ドアの中で叩かれた音が反響している。頭の中が叩かれているように感じる。
「雅紀、いるんだろ。返事くらいしてくれよ」
二人きりで会うのはマズイ。顔を合わせる事は絶対にしちゃいけない。
どうしたらいいのか分からない。
でも、ひとつだけ分かっていることはある。中途半端な態度だけはとっちゃいけない。
「真哉」
雅紀は少し横を向いて、ドアに向かって声をかけた。
「雅紀」
真哉の声が降りてきて、自分の耳元で聞こえる。呼ばれただけで、胸が疼く。このドアの向こうに真哉がいる。
「何しに来たの? 智史さんならいないよ」
「……分かってるよ……雅紀と話をしに来たんだ」
少し戸惑ったような声が聞こえた。智史がいないと、分かっていて来た?
「話なら、この間ホテルでしたよ。それ以外にはないよ」
あれが精一杯だった。
「あれで、納得なんかできるわけないだろ。一番大事な事が抜けてるじゃないか」
雅紀は頭をドアに預けると、静かに息を吐いた。何をどう話せば良いのだろう。そう言えば、智史は真実を突きつけてやれ、と言っていたっけと思った。
明かりをつける時間さえなかった部屋の中は、日が既に落ちている今、外からの薄い光しか入ってこない。ぼんやりと前を見ていた目は次第に暗闇に慣れてき
て、
ベッドが浮き上がるように見えてきた。毎晩のように、雅紀はこのベッドの上で智史に抱かれていた。
「雅紀、ここを開けてくれよ。お前が嫌だっていう事は絶対しないから。顔を見せてくれよ。雅紀」
名前を呼びながら、真哉は小さくドアを叩く。頭の中にドアを叩く音が反響する。
「真哉、僕が嫌なのは、このドアを開ける事だよ――――ねえ、真哉」
「――――ん? 」
「分かってると思うけど、僕は毎晩のように智史さんに抱かれていたんだよ。もう、前の僕とは違うんだ。真哉に想ってもらう価値なんてないんだ」
言いながら身体が冷たくなっていく。そうだよ、何があったとかは、もう関係ない。自分は変わってしまったんだ。
「――――価値って、なんだよ。そんなもん、関係ない。俺はお前が欲しいだけだよ。傍にいて欲しいだけだよ。お前があいつに抱かれていた事ぐらい想像でき
るよ。それでなきゃ、いくらお芝居だって、人前であんなキスなんかできないだろ。正直ショックだったよ。頭ン中が真っ白になって何も考えられないくらい、
お前がどういうやつだったか、分からなくなるくらい、頭ン中が混乱してた。悔しくて、哀しくて、頭にきて、もう、色んな感情がぐっちゃんぐっちゃんになっ
て。でも、時間が経って、落ち着いたら、絶対おかしいって思ったんだよ。何、隠してるんだよ。何があったんだよ。教えてくれなきゃ、納得なんてできない。
お前を、お前を諦めるなんて事できないよ」
真哉の言葉が胸に浸みる。自分だって、諦めたくなんかない。だけど、仕方ないって思ったんだ。
真実を突きつけるなんて、しなくて済むのならその方が良いに決まってる。
「そんな事、もうどうでも良いよ。忘れたし――――結局は、今、どう思ってるか、だよね」
「雅紀? 」
「会いたくない、顔を見るのも嫌なんだよ。だから、帰ってくれない? 」
ドアの向こうにいるのは真哉じゃないと自分に言い聞かせて真っ黒な影を頭に描いた。なのに、黒い影は段々と真哉になっていく。
胸が熱くなって、涙が溢れてきて、零しそうになる嗚
咽を唇を噛みしめて耐えた。最初で最後、もう二度とこんな事言えない。
身体が小刻みに震える。それが、ドアを通して真哉に伝わるような気がして、少しだけドアから離れた。
お願いだから、分かって欲しい。もう、何も言えない。声を出したら、一緒に涙まであふれ出してきそうだった。
「わかったよっ」
少しの沈黙の後、吐き捨てるように叫んだ声がドアの向こうから聞こえた。
望んだ答えだったのに、一筋暖かいものが頬を伝った。それは、すぐ冷たくなって手の甲に落ちる。
しばらくして、遠くから乱暴にしまるドアの音が聞こえた。
本当に終わった、と思った。終わらせなければいけないのは分かってた。でも、まだ気持ちだけは通じているのだと、心のどこかで思ってい
たかった。はっきり、それも切られてしまった。いや、切ったのは自分だ。
「真哉」
そう呟いたら涙が溢れてきた。声を出せば溢れてしまうと、分かっていたはずだ。泣きたくなんかないのに、泣こうと思っているわけじゃないのに。いったいこ
の涙
はどこから、来るんだろう。あとからあとから流れる涙を、止めたいのに、どうしたら良いか分からない。
ゆっくり立ち上がると、ベッドに倒れ込んだ。
「真哉――――こんなに、こんなに好きなのに」
今まで言いたくても、言えなかった言葉を叫んだ。ずっと我慢していた気持ちを吐き出してしまいたかった。
胸が潰れそうなほど痛い。枕を抱き込んで、顔を埋めた。落ちるところなんてないのに、何かに頼っていないと、体が落ちていきそうだ、と思った。
どうしてもこぼれてしまう嗚咽の中で、カチャリと小さい音が聞こえた。
身体がぴくっと跳ねる。
家には誰もいないはずだった。真哉は――――出ていったはずだ。
開けられたドアから明かりが線のように差し込む。
「なのに? 」
聞こえた声に、身体が固まった。今起こっている事を理解できなかった。なぜ? さっきのドアの音は?
「本当に、帰るところだったよ……いや、あいつとあんな約束してなかったら、帰っていた」
声が近づいてきて、ベッドの縁に腰掛けた人は雅紀の頬に手をかけた。優しく撫でると、上へ向ける。
「なんて、顔してるんだよ」
眉根を寄せて呟く。
「あ、会いたくないって――――」
「そんな顔で言われても、迫力ないって――――泣くなよ」
こぼれてしまった涙を掌で拭ってくれる。
「だめなんだよ。分かってよ」
引き寄せられて、抱きしめられた。
「じゃあ、隠してる事全部言えよ。だけど、俺は諦めないからな。あいつに、そう約束させられた」
「智史さん? 」
「ああ、嫌なやつだよ」
智史さんが――――。
「雅紀、生憎俺は超能力者じゃないからさ、言ってくれなきゃ分かんないんだよ。分かってやれればいいのにな。そうしたら、お前にこんな
顔させなくてもすむのに」
涙がぼろぼろと落ちてくる。今まで泣いた事なんてなかったのに、泣きたくなんかないのに、涙が止まらない。胸がいっぱいで何も考えられなくて言葉にできな
い。
「俺はお前を諦めないから」
真哉の言葉に雅紀は小さくかぶりをふった。諦めるのは真哉じゃない、自分だ。
「お前の言葉を聞くまでは、不安もあった。俺はホントに嫌われたのかと思った」
今度は何度も大きくかぶりを振った。
真哉は顔を綻ばせると、雅紀をベッドへ降ろした。上着のポケットから何かを取り出すと、ボードに置き、上着を滑らせるように、ベッドの下へ脱ぎ捨てる。
「俺も好きだよ。だから、何も問題はないよ」
ベッドに膝をついて上に覆い被さり近づいてくる瞳に、雅紀は目を閉じた。
今更、抵抗なんてできない。そんな力はないし、もう、嫌だった。
終わりにしなきゃいけないと思うのに、真哉の腕の中は心地よくて離したくない。
自分の気持ちを知られてしまった以上、もう全てを話すしかない、よね。
でも、最後にもう一度だけ、望んじゃだめかな――――。
触れてくる唇に全てを預けた。包み込むように口付けると舌先で唇をなぞる。応えるように薄く開けた唇から、中に入ってきて、優しく舌を
絡ませてくる。雅紀は、腕を真哉の背中へ回した。
離したくない。周りの時間が全て止まってしまえば良いのに。そうすれば、ずっと二人でいられる。真哉を感じていられる。
膝を割ってくる足に、進んで足を開いた。離れた真哉の唇が、首筋に落とされる。手は雅紀のシャツの釦をはずす。
息がかかるだけで、触れるだけで、身体が震え熱を持ってしまう。
分かってる、終わりにしなきゃいけない、でも、最後にもう一度だけ、雅紀は自分を納得させるように心の中で呟いた。