「じゃ、何か食べる? 」
孝介が槙に向かって言う。
「どうせなら、飲みたい」
呟くように言った槙の言葉に「じゃあ、取っておきのを持ってくるよ」と言うと孝介は店の奥へ消えた。
「ごめんね」
槙が小さな声で呟いた。
「槙さん」
槙の言葉に答えるように、頭を振った。謝ってもらう事などない。
「いつかはこんな日が来るって分かっていたんだけど――――」
「智史さんは槙さんを大事に思ってるよ」
慰めにもならないかもしれないと思いながらも、こんな言葉しか言えない。
「それは分かってる。指向が違うのだから、いくら想ってもしょうがないって事も」
「槙さん」
「でも、大事に思ってくれるのも、あなたが一人前になるまでだわ」
「そんな事ないよ」
雅紀の言葉に槙は小さく笑うと、視線を伏せた。
孝介がトレーに盛り合わせのつまみにワインとグラスを持ってくる。
「全部あいつに付けとくから、なんでも好きなもの言って。ワインもボルドーの年代ものだぜ。あいつの秘蔵品なんだけど、どうせもう店には来ないんだろうか
ら良いよな? 」
雅紀の方を向きまるで同意を求められるように言われて、言葉に詰まった。
「――――そんなの、分からないよ」
「じゃ、OKね」
困る、と思いながらも反論できない。孝介はワインのボトルを開けようとした。
「オーナーに向かって『あいつ』呼ばわりしていいの? 」
ゆっくりと顔をあげた槙が孝介に向かって呟く。
「何、槙さん、この後に及んでまだあいつの肩持つわけ? 」
「そういう訳じゃないけど……」
責めるように言われて、槙はまた視線を落とした。
槙の目の前のグラスに紅い液体が注がれる。
ここが智史の店だったのだと、雅紀は初めて知った。何か繋がりはあるとは思っていたけれど、そうなんだと思うと納得できる。
「雅紀は未成年だから、こっちな。アルコールは弱めにしといた」
孝介は乳白色の液体が入ったグラスを雅紀の前に置いた。
また来るよ、と言うと孝介は店の奥へ行き、一度外へ出た後、カウンターに戻った。まだ客が来るには早い時間なのだろう。カウンターに一 人飲んでいる客がいるだけだった。
付いては来たものの、どうしたら良いのか分からない。気の利いた言葉が言えるわけじゃない。ただ見ている事しかできない。雅紀は自分の不甲斐
なさが嫌になってきた。
槙はワインを一口飲むとグラスを置いた。
「バカな女だと思うでしょ」
雅紀は頭を振った。
「そんな事ないよ。槙さんは僕の憧れの人だよ」
いつもの凛としている姿にとても好感が持てたし、何より槙の描くデザインが好きだった。
「なんか、複雑。あなたにそう言われると――――あの人の事を諦めようとして他の人と付き合った事もあるのよ。でも、諦める事なんてできなかった。今の私
があるのはあの人のお陰で、あの人がくれた言葉ひとつひとつが私を作っていったんだもの」
遠くを見るように、槙がひとつひとつ言葉を繋いでいく。
大事なんて言葉じゃない、智史が一番愛おしく思うのは槙なのだ、と伝えたい。けれど、それは雅紀の役目ではないし、言える事じゃない。かと言って、諦めた
方が良いなんて言う事もできない。
いつもより華奢に見える身体は少しの言葉でも壊れてしまいそうに思える。
槙は小さく溜息をつくと、目蓋を閉じて壁に寄りかかった。
漂うアルコールの匂いに酔ってしまったのかもしれない。雅紀はドアの閉まる音で、はっと我に戻った。相変わらず、槙は壁に凭れている。
「送っていくよ」
カウンターの中から孝介の声がした。
槙が怪訝そうな顔で目を開く。
「いいの? あなたがいなくなっちゃって? 店はこれからでしょう」
いつの間にか、カウンターの中にもう一人いたバーテンがいなくなっていた。
「オーナーの指示なんでね。店は閉めていいからタイミングを見計らって送っていってくれって。槙さん、店よりあんたの方が大事みたいだよ。うちのオーナー
は」
槙は顔を伏せると、両手を胸の前で握り込んだ。
「こういうのを、蛇の生殺しって言うのよね」
槙の声は上擦っていた。
「でも、冷たくされたら、もっと辛いだろ」
そう言った孝介に、槙は「そうね」と言いながら小さく笑った。
孝介が槙の前に傘を差し出す。
「これは? 」とバスタオルを示した槙に、「そこに置いておいてよ。後で片づけるから」と孝介は答えた。
「お前も、つ・い・でに送っていくから」と孝介言われ雅紀も複雑な思いを持ちながらも立ち上がり、タオルをたたんで席に置いた。
店を出ると雨は相変わらず、しとしとと降っていた。
大通りに出て、タクシーを拾う。雅紀に奥へ座るように言うと、孝介は助手席に座った。
「この先で」
という孝介の声でタクシーは止まる。
「戻って来ますから、待っていて下さい」と運転手に声をかけ、孝介は槙とともにタクシーを降りた。
しばらくすると、戻ってきた孝介が後ろの座席に乗り込んでくる。
「大丈夫かな」
孝介の顔をうかがうながら雅紀は言った。槙を一人にして良いんだろうか、と思う。
「家の中に入るまでは見届けたぜ。後どうしろって言うだよ。俺に抱けって言うのか? 」
返ってきた言葉に慌てた。運転手がすぐ前にいるのに、そんな事言っちゃって良いのだろうかと思う。
「ち、ちょっと、マズイよ」
小さな声で囁く。
「それとも、お前が抱く? 」
思わず、かぶりを振った。
「彼女をどうこうできるのは、あの大ばかしかいないんだから、しょうがないだろ」
智史は孝介によっぽど嫌われているらしい。
「いい人だよ」
なぜ、これほど孝介が嫌うのか分からない。松田がこき使われているから、だけとは思えない。
「あっと、ここにも大ばかがいたっけ」
孝介が意味ありげな顔で雅紀を見る。怪訝そうな顔をした雅紀に孝介は笑った。
「俺は、あっちの彼氏の方が良いと思うけどね」
孝介の視線を避けるように、雅紀は顔を伏せた。
「何も知らないから、そんな事言えるんだよ」
「そうだよ。だけど、いいの、ホントにそれでって俺は思ってるよ」
良い、わけじゃない。でも、仕方ない。諦めるしか考えられなかった。
孝介はその後何も言わなかった。
見慣れた通りに入り、タクシーはマンションの前で止まった。松田が智史のマンションにいるのだと言って、孝介も一緒にタクシーを降り
た。
ちょうど入り口に入る人がいたおかげで、インターホンを押す必要が無かった。
エレベータに乗り、最上階を目指す。
玄関の鍵は閉まっているかなと思いながら、ドアノブを回すと、抵抗なくドアが開いた。
部屋に上がると、松田の声らしきものが切れ切れに聞こえた。居間にいるんだ、と思って居間につづくドアノブを持った途端、智史の声が響いた。
「じゃあ、俺に抱いて、捨てろと言うのか」
「そんな事言ってないだろ」
聞いたことのない智史と松田の言い争いに雅紀がドアを開ける事を躊躇していると、孝介が後ろから手を回しドアを開ける。
「戻りましたよ」
孝介の声に、智史がこちらへ視線を向け、松田が振り返った。
智史はそのままソファに座り込む。
「松田サン行こう。バカは放っておいて」
「ちゃんと、槙は送り届けたんだろうな」
智史が叫ぶ。
「言いつけどおりにね。ちゃんと、家の中に入るまで見届けましたよ。俺にできるのはそこまでですから」
「分かった。もう、良い」
その声に松田が頭を下げた。
「それでは、失礼します」
松田は雅紀の方をちらっとみると、部屋を出ていき、後に孝介が続いた。