もう一度鳴ったインターホンに玄関を開ける。
「こんにちは」
雅紀がかけた声に、槙は答えなかった。
「智史さんは、まだ帰っていないけど」
「分かってるわ」
視線を伏せ答える槙は、いつもの様子とは違っていた。
「どうぞ」
スリッパを出し招き入れると、まっすぐ居間へ向かう。智史と約束でもあるのだろうか、と思った。槙は居間に入ると、まっすぐテーブルに向かった。
出してある課題を片づけないと雅紀が思った瞬間、課題を描いた紙は槙の手に握りつぶされていた。
突然の事に、動く事も声をだす事もできなかった。槙は雅紀の方へゆっくりと振り向いた。
「本当なの? あなたがデザインを始めるって」
いつもの槙の声じゃない。張りつめたような叫び声が居間に響いた。
「槙さん」
なぜ槙がそんな事を言うのか分からない。それも、いつもは穏やかな人が明らかに怒りを現して。
「取らないで――――あなたは心を手に入れてるじゃない。私があの人にできるのは良いデザインを描く事だけなの。それさえも、取っていかないで」
槙の手に握られた紙がくしゃと音をたてた。
「違うよ。槙さん」
「何が違うのよ。あなたがデザインを始めたら、あの人はあなたにかかりっきりになるに決まってるじゃない。もう、私なんて必要とされなくなってしまう。ど
うして、何もかも奪っていってしまうの? 」
槙の潤んだ瞳に雅紀何も言えなくなってしまった。
「お願い」
顔を歪めて、まっすぐに雅紀を見ながら言う槙に、雅紀は小さくかぶりを振ることしかできなかった。
違うよと言っても、槙には分かってもらえないだろう。
玄関のドアが開く音がして、顔をそちらへ向けると、智史が居間に入って来た。仕事の時の顔じゃない、智史の顔には、動揺が浮かんでいるように見えた。
「槙」
智史の声に、槙は手の中の物を放りなげると、智史を突き飛ばすようにして外へ出ていく。
「槙さんっ」
どうしたら良いのか分からず、雅紀は槙の後を追った。
エレベータの扉が閉まる寸前に、手を差し入れ無理矢理ドアを開けるように乗り込むと、目の前の槙は壁に凭れるようにして項垂れていた。
エレベータが一階に着くと、槙は雅紀が目に入らないかのようにマンションの外へでていく。
「槙さん」
後ろから声をかけても、槙は反応を返してはくれなかった。
空からは、細かい雨が落ちてきていた。
「槙さん、帰ろう」
横から顔をうかがうようにしても、槙は前を真っ直ぐ見ている。
「槙さん、誤解だよ。智史さんが一番大切なのは槙さんだよ」
雅紀の言葉に反応したように、槙が突然止まった。槙の肩にぶつかるように雅紀も止まる。
「あなたに、そんな事、言われたくないわよ」
「槙さん、違うんだよ」
「何が違うの? 」
吐き捨てるように言われて答える言葉は無かった。
どうやって説明すれば良いのだろう。自分は槙の代わりのようなものだ、と言ったところで分かってもらえる訳はない。なぜ、そんな事になるのか、知らないの
だから説明の仕様が無い。
「とにかく、槙さん戻ろうよ。智史さんとちゃんと話を――――」
「話を? あなたといちゃいちゃしてるところを見せつけられながら? 今までは私にも役にたてるものがあるって思えたから、我慢する事もできたのよ。今の
私には何も無い。あの人にとってもう私なんて必要ないんだから、話す事なんて無いわ。あなたは帰れば良いでしょ。私に付いて来る事なんてないわ。もう私
なんて……」
雅紀を振りきるように槙は歩き出す。
「槙さん」
雅紀は槙の後に付いていく事しかできなかった。降り続く雨が身体を湿らせていく。髪が水分を含んで重くなっていく。槙はどこへ行くつも
りなのだろう。駅とは反対側に歩いていく。以前よりはマシだが、雅紀は地理に弱かった。既に、今歩いているところは、自分の分かる範囲では無い。
遊歩道を通り大通りに出たところで、槙は立ち止まった。辺りを見回すように暫く立っていると、手を挙げてタクシーを止める。乗り込んだ槙に続いて、雅紀も
乗り込んだ。槙を一人で放っておく事はできなかった。
拒まれるかと思ったが、槙は雅紀を一瞥すると、奥の席に移った。
槙が運転手に告げた地名は雅紀には知らなかった。
車に揺られながら何も言わず、槙はただ窓外を眺めていた。そんな槙を見ている事しかできない。
「あ、そこの信号の先で」
槙の声に車は滑らかに端に寄り、ドアを開ける。雅紀は降りると、ドアに手をかけた。このまま、ドアを閉めて行ってしまわないとは限らない。
「あの、お金が少し足りないので、持ってきます。この子は置いていきますので、少し待っていて下さい」
雅紀を示しながら言った言葉に、運転手は眉を寄せ少し嫌な顔をしたが、「ああ」と頷いた。
「そういう事だから」
槙は車から降りると、雅紀の身体を車内へ押した。
「槙さん」
車の屋根に手を付き、あわてて槙に声をかける。「すぐ戻るわ」と槙は答え、横道に入って行った。
どうしたら良いのだろうと思いながら、小さくなっていく槙の後ろ姿を見ていた。槙の後を追ってしまえば、無賃乗車だと言われかねない。かと言って槙は帰っ
てくるのだろうか。
「お客さん、入ってくれないと雨が入るんですけどねえ」
「あ、すみません」
注意されて仕方なく雅紀が車内に入ると、ドアは勢いよく閉まった。何かないかと探ったポケットの中にはガムしか入っていなかった。
雨が窓を濡らす。一筋二筋と雨が流れていく。雨の向こうに、槙が入っていた横道が霞んで見える。ここがどこなのか分からない。いつまで
待てば良いのかわからない。槙がどこへ行ったのか分からない。
もうずいぶん経っただろうか、と思ってタクシーの時計を見ても三分しか経っていない。長く感じる時を身体を堅くして待っていた。
「遅いねえ」
運転手が呟いた時、槙が消えた道から人が歩いて来た。けれど、それは一目見て槙ではないと分かった。背カッコから男だと思えたし、傘も差していた。
気落ちして視線を落とした。槙は来ない、と思った。一人でどこへ行ってしまったのだろう。このまま、帰る事なんてできない。どうしたら良いのだろう、と頭
の中で言葉が回る。
コツッと思考を遮る音が聞こえた。
助手席を叩く人がいて、運転手が窓を開ける。
「料金を頼まれたんだけど」
どこかで聞いた事のある声だと思ったが、傘に隠れて顔を見る事はできなかった。
運転手は料金を受け取ると、後ろのドアを開ける。
「すみませんでした」
そう言って雅紀はタクシーから降りた。
タクシーを降りると、上から傘をさしかけてくれる人がいる。
「ありがとう」と言って、顔を見上げた。
「珍しい組み合わせだな」
「孝介さん――――」
怪訝そうな顔した孝介がそこにいた。