部屋に入ってきた松田は雅紀に頭を下げると、書斎へ向かった。ドアを開けたまま、書斎へ入る。
開けられているドアに誘われるように、雅紀は書斎へゆっくりと近づいた。松田なら、智史がどう考えているのか知っているかもしれない。
身体の調子は完全に戻っている。いつ、家まで送ってくれるつもりなのだろう。先週末は仕事があると、出かけて行った。忙しいと言われれば、何も言えない。
この息が詰まるような生活をいつまで続けるのだろう。欲しいと思う人が傍にいながら掴む事ができない。応えてくれる言葉が自分の望むものでは無いと分かっ
ているから、訊く事もできない。
松田は机の上に置いてある書類をひとつづつ確かめていた。
「松田さん」
部屋の入り口から、松田の背中に向かって声をかけた。
「何でしょうか」
松田は書類をめくりながら答える。
「訊いてもいい? 」
一瞬止まった手は、何も無かったように動き始めた。
「私で分かる事ならば」
「僕の事で智史さんから何か訊いていない? 」
予定は松田が管理しているはずだから、雅紀を送る為に一日空けなければいけない事は松田に伝えられているはずだ。
「私は何も聞いておりません」
そんなはずは無い。
「智史さんは、僕を家まで送ってくれる、と言ってくれているのだけど――――いつになるのだろう」
仕事より優先させて欲しいわけじゃない。けれど、まるで予想のつかないその日を考えると、抜けられないトンネルのようだ。先が見えない事が余計辛くさせ
る。
あ、それならと松田が顔を雅紀へ向けた。
「明日、専務は一日空いているはずです。予定については聞いておりませんが」
言葉を終えると、松田は書類へ視線を戻した。
――――明日
目の前に眩しい光が現れたようだった。思わず目を背けてしまいたくなるような眩しい光。
松田は、「あ、これだ」と小さく呟くと、手に取り上げた書類を鞄へ収める。雅紀は近づいてきた松田に道をあけるために、部屋を出ると、
壁に背をついた。立っている事が辛かった。
書斎を出てきた松田は足を止めて、雅紀を見る。
「差し出がましいとは思いますが――――我慢というのは想いを遂げる為にするものではないでしょうか」
いつもと同じ無表情の顔の奥に、非難とも取れる色が見えた。雅紀は胸をぎゅっと掴まれたような気がした。自然と胸元で拳を握っていた。
返事を待たずに、松田は軽く頭を下げると書斎のドアを閉め玄関へ向かう。しばらくして、玄関ドアが閉まる音が微かにした。
雅紀は壁に背を預けたまま、座り込んだ。
自分は今何を望んでいるのだろう、と思う。智史と別れる事? 違う。そんな事は望んでいない。欲しいを思う手を掴めないのはなぜだろう。拒絶される事が怖
いから?
けれど、我慢してもしなくても別れは来る。智史は終わりだと言ったのだから。
終わりが来る。それも、突然に。いつなのかと待ち望んだように思えたその日は、はっきり知らされると絶望のように感じた。
明日で全て終わりになる。
夜、寝室のドアを開けると、居間のソファでグラスにワインを注いでいる智史の姿が目に入った。シャワーを浴びた後、バスローブだけを
引っかけてワインを飲むのは智史の日課だった。
左手で雅紀を抱き込み、ワインを飲みながらキスをする。ワインの刺激が舌を刺し、ワインに酔わされているのかキスに酔わされているのかわからなくなる。何
も躊躇うことなく、快感を貪り溺れていった。そんな日があった事は遠い昔に思えた。
静かに近づき、背後から声をかけた。
「智史さん」
ぴくっと動いた身体が雅紀の方を向き、怪訝な表情を見せる。
「何だ」
答えながら、智史はワイングラスを口につけた。その仕草に、もうお前には興味ないと言われたように感じた。胸の奥が切なさに占領される。けれど、今しかな
い。
ソファを周り、智史の手からワイングラスを取ると、テーブルに置いた。グラスを取られ、あいた手を握りこむと、智史は眉を潜めた。
「何か用か? 」
「抱いて――――」
言いながら、バスローブの中に手を差し入れて、智史自身に触れた。一番安易に感じてもらえる方法を選んだ。
優しく包み込むと、ゆっくり擦り上げる。ぴくっと身体をふるわせた智史は小さく呻いた。
今はまだ萎えているものを口に含む。充分に濡らしながら、擦り上げていく。これだけで受け入れるのは、きっと辛いだろう。けれど、相手
に協力してもらう事を期待できないのだから仕方ない。どんなに辛くても、欲しいと思う気持ちがある。
「雅……紀? 」
頭上から、くぐもった声が聞こえる。変化する智史のものと共に、まだ自分に感じてくれているのだと思うと、少し、気持ちが楽になった。
この二週間は針の筵にいるようだった。欲しいと思うものが傍にあるのに、自分から触れる事を拒んでいた。どうせ拒否されるのだと思う
と、これ以上聞きたくない言葉を聞かない道を選んだ。もう終わりなのだ、と諦めた。
智史は許してくれないと、思っていた。何の努力もせずに、ただ我慢していた。何のためにこんな辛い思いをしているのかなんて、考えもせずに。
どうせ辛い思いをするのなら、あなたが欲しいのだと、伝えたい。もう、だめなんだろうか。あなたの傍に戻る事はできないのだろうか。
口を離すと、膝をソファの上に付いて、片手でソファの背を持ち身体を持ち上げるとそのまま、智史を受け入れようとした。拒まれる前に受
け入れてしまいたかった。
けれど、智史の上に落とした身体はふわっと持ち上げられると、ソファの上に降ろされた。
「ベッドへ行け」
そう言った智史は、ワインを一気に飲み干すと、グラスとワインを持って席を立った。
離れていく智史の気配を感じながら、項垂れたまま雅紀は動けなかった。身体の神経を全て切断されてしまったように、身体の感覚を失っていた。自分はここに
いるのに、自分の身体は空にとけ込んでしまったようだった。
これほどまでに、嫌われているとは思わなかった。感じてくれれば受け入れてもらえると思っていた。受け入れてもらえれば、少しは可能性があるかもしれな
い、と思った。
「ベッドへ行け、と言っただろ」
頭上から智史の声が聞こえた。
縋るように目の前の腕を掴んだ。
「嫌だ」
嫌だ、このまま終わりなんて嫌だ。明日になったら別れてしまうなんて嫌だ。
「嫌だよ」
言いながら、かぶりを振った。
智史の小さなため息が聞こえ、雅紀が掴んでいた力を加えた。振りほどかれてしまう事も嫌だった。離したくなかった。
「お前は――――抱いてと言ってみたり、嫌だと言ってみたり、いったいどっちなんだ」
その声に雅紀が顔を上げると、智史は目を細めた。
「どっちなんだ? 」
「抱いて――――」
掴んでいた手を離して、両手を智史へ伸ばした。身体を寄せてきた智史の首へ腕を絡める。
「抱いて」
耳元で囁いた。
「こき使うな、と言っただろう」
雅紀の身体を抱き上げながら、智史が言う。
「うん」
頷きながら、雅紀は智史に抱きついた。
「抱け、と言ったのはお前だからな」
「うん」
言いながら、雅紀は智史の肩に頬を寄せた。微かな石鹸の香りとともに、智史の匂いを感じた。