雅紀が気が付くと辺りは明るかった。
ベッドの中に智史がいた気配を探ろうと手を伸ばしたが、自分の周り以外は冷たいシーツに跡は感じられなかった。枕元の時計に目をやると、既に昼近い。半日 近く寝ていた事になる。久しぶりの熟睡にこのところ感じていた頭の重さは消えていた。

元気になったら、家へ送っていくと智史は言った。それが、すぐ間近に感じられる。
ドアの向こうから掃除機のモーター音が聞こえていた。それが、きゅんという音を最後に止まるとしばらくしてドアをノックする音が聞こえた。

「はい」
返事をすると、雅紀はベッドを出てドアを開けた。
一瞬驚いた顔をした久保はすぐにいつもの優しい顔に変わり「大丈夫ですか? 」と言った。
「うん」
頷きながら答える。
「もう、そろそろお昼ですけれど、どうしますか? 雑炊で――――――雅紀さん? 」
途中から久保の言葉は耳に入らなかった。瞳の奥が熱も持って潤んでくる。久しぶりに暖かい声を聞いたと思った。

土鍋に作られた雑炊を久保が茶碗によそってくれた。湯気のたつ茶碗を両手で包むと熱いくらいだった。
「雅紀さん、痩せましたね」
久保が自分の分を盛りながら、声をかけてくる。智史から何を聞いているのかは分からないが、雅紀には何も訊かない。
「そうかな」
鏡さえも満足に見ていないから、よく分からない。ただ、暖かい食事を手にしたのも久しぶりだった。
レンゲですくい、息をかけてさましながら、口の中に収める。プリプリのエビが弾けて、口の中に旨味が広がる。身体の中に落ちていくそれらは、奥から身体も 温めてくれた。
「おいしい」
思った事が自然に出てしまうと、久保は優しく微笑んだ。
「たくさん食べて、早く元気にならないと」
いっぱいありますからね、と土鍋を指差しながら続ける。
元気になったらどうなるのか、久保は知っているのだろうか。元気になったら、というのはどうやって決められるのだろう。医者は疲労からくる貧血だから栄養 のあるものを食べて休養を取ればすぐに良くなる、と言った。
直ぐに、智史との別れがくる。終わりだ、と彼は言った。

食事の後、シーツを変えるという久保を断りベッドの上でまどろんでいると、大きな物音が聞こえてきた。何があったのかと、居間へ出てい くと毛布にくるまれたものが業者らしき人の手で開梱されている。
少し離れて見ていた久保に近寄り訊いた。
「何がきたの? 」
「さあ――――荷物が来る事は聞いていたのですが、これほど大きいものだとは思っていませんでした」
久保も不思議そうに開梱される様子を眺めている。
業者の来ているジャンパーから有名なレンタル業者だと分かった。
手慣れた様子で開梱されていったそれは、少しづつ姿を現す。
――――ベッド?
「これは、どこへ? 」
「あ、こちらです」
業者の問いに久保は答えると、書斎へ案内した。
いたたまれなくなって、寝室へ飛び込むとベッドの中に滑り込んだ。此処に自分のいる場所は無いのだと、雅紀は思った。

浅い眠りの中で、ドアが開いた音に意識が戻ってきた。
ゆっくりとした足音が聞こえる。音が止まると、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。頬に暖かい手が触れてくる。
「智史さん」
名前を呼ぶと、ぴくりと動いた手は離れていった。
「僕、家に帰るよ。一人で。明日にでも。大丈夫だよ。今度こそ、ほんとに帰るから」
起きあがると、智史は腰掛けていたベッドの縁から立ち上がった。
「お前の言う事は信じられない。学習能力はあるんでね。一度踏んだ轍は二度と踏まない」
「僕はもう元気だよ。もともと単なる寝不足なんだ。昨日ぐっすり寝られて……もう大丈夫だよ」
外から入ってくる柔らかい光量の中、智史の影が動く。
「こんなに痩せたのに、か? 」
頬を暖かい手が滑る。その感触に、胸がきゅっと潰される。
「もう、ほんとに、大丈夫だよ」
「――――この一ヶ月、鍋も食器も無ければ布団も無いような部屋で、どんな生活をしてたんだ」
「それは――――今度バイト料をもらったら揃えようと」
職を探すためには、住居を決める必要があった。そのために、手持ちのお金はほとんど消えてしまったから、身の回りのものまで揃える余裕など無かった。
「トイレや流しまで共用のアパートなんてものが、よく、この近くにあったものだ」
告げられる言葉に返す言葉は無い。智史は大きく溜息をつく。
「とにかく、元気になったら送っていく。それまで大人しくしていろ」

「――――なら、智史さんが此処で寝てよ。僕が書斎へ行く」
忙しくて疲れて帰ってくる人をさしおいて、自分がこの広いベッドで、のほほんとしている事なんてできない。
「――――仕事もあるんだ。お前が書斎にいるのは邪魔でしかない。何度も同じ事を言わせないでくれ。私は疲れているんだ。元気になれば送っていく。それだ けだ」
「智史さん」
かけた声に振り返る事もなく、ドアの向こうに智史は消えた。
「智史、さん」
もう一度かけた声にも、返ってくる声は無かった。

ベッドを分けるという事はもうお前の事は抱かないと宣言されたような気がした。漠然とした気持ちとは違い、智史の意志がそこにはある。
「智史さん――――」

離れたくないと思う。それ以上に、重荷になりながら傍にいる事は苦痛になる。優しい言葉も、笑顔も、キスも無い、与えられるのは無表情 な顔と声。それだけなら、まだ良い。けれど、意志を持った拒絶はその場にいる事さえ辛くなる。抱かれないという事は自分の存在を否定された気がする。

それから、智史と言葉を交わす事は無かった。朝、智史が家を出ていくドアの音で起き、智史が帰る前にベッドへ入る。帰った智史が確かめ るように触れてくる手を掴みたいと思いながら、布団の中で拳を握った。心の中が沼のようになっていく。重たい泥土が沈んでいく。吐き出すことのできない気 持ちが溜まっていく。
自分を押し殺して息を詰めたような生活が二週間ほど過ぎていった。
 

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