雅紀が目を開けると白い天井が視界に入ってきた。消毒液の匂いが鼻を刺す。
――――ここは?
見覚えのない場所に居る事だけは確かだった。視界の端で動く人影に視線を向けた。
「気がついたのね」
そう言った看護師は時計を見ながら、点滴を調整する。
「僕……」
言いかけて、その先の言葉を失う。
明らかに病院だと分かる白い天井、白い壁、腕に刺さる針は天井からつり下げられている点滴に繋がれている。
「もうすぐ、お迎えの人が来ると思うから。点滴が終わったら呼んでね」
人なつこい笑みを浮かべて言うと、看護師はカーテンを閉め部屋を出ていった。
迎えに来る人間など居ないはずだ。なぜ、病院に運ばれて、ベッドで横になっているのだろう。思いだそうとすると、ずきっと頭が疼いた。
動く手で額を押さえながら、思い出そうと記憶を巡らす。
――――そうだ、バイトで店番をしていて、交代だと声をかけられたところまでは覚えている。その後、意識を失ったのだろうか。それは、早朝だった。どれく らい時間が経ったのだろう。部屋を見渡しても時計は見あたらない。窓から入ってくる日差しからもう既に日は高いだろうと思った。

カーテンが開く音がして、見知らぬ男が入ってきた。二十歳台前半でジャンパーにジーパンという姿は病院関係者とは思えない。
「もう、気がついたんだ」
部屋を間違えて入ってきたのかもしれないと思ったが、そうでもないらしい。彼は部屋へ入ってくると、そのまま壁に立てかけてあった椅子を開いて座った。時 間をつぶすように手の持っていた雑誌を開く。
「あなたは、誰? 」
この土地には数えるほどしか知り合いはいない。その中の誰でもない。看護師が迎えと言ったのは、彼かもしれないが、記憶を探っても覚えはない。
「覚えてない? 」
雑誌から顔をあげた彼は意味ありげな顔をする。どこかで会った事があるのだろうか? 自分の記憶さえ自信がなくなってくる。
「ごめんなさい」
言いながらゆるくかぶりを振った。彼は仕方ないな、という顔をする。
「一回会っただけでも、彼氏の方は覚えていてくれたのにな。まあ、俺の事はどうでもいいよ。シリックの松田サンから頼まれたんだ」
シリックという名前に心臓がドキンと跳ねた。智史の会社だ。という事は間違えなく、今の自分の状況を智史に知られたという事なのだろう。

「僕、大丈夫です。一人で帰れますから」
これ以上智史に世話になる訳にはいかない。家へ帰ると言って自分から出てきたのだ。今更、出せる顔など無い。
「勝手な事言われると困るんだよね。怒られるのは俺じゃなくて、松田サンなんだからさ。俺は言われた通りにするだけだから。だから、大人しく従ってくれ よ。荒っぽい事はしたくないし、それで松田サンが怒られる事になるのもヤだからさ」
孝介は言い終わると、また雑誌に視線を戻した。
「でも――――」
「文句は、やつに言ってくれよ。俺は言われただけなんだから」
今度は、雑誌から目を上げず面倒くさそうに言った。
松田が怒られる、と言われると逆らえないと思った。やつというのは智史だろう。智史と一度は会わなければいけないらしい。

点滴は一粒づつぽたっぽたっと落ちてくる。刻む時間のように正確に。
ふっとある名前が頭に浮かんだ。
「孝介さん? 」
雅紀の呟きに、彼は顔を上げた。
「覚えてたんだ」
一言言うと、また彼は視線を本へと落とす。松田が信頼していると言った人物だった。きっと、智史も信頼しているのだろう。口では悪く言いながらも。
そっか、恋人の立場を悪くはしたくないよな、と思った。そういう関係であるかは憶測に過ぎない。けれど、孝介と携帯で話している時、一度だけ見た松田の笑 顔は優しかった。

点滴が終わった後、精算は後で松田が来てやるから、と言われて孝介の車に乗った。そんな訳にはいかない、と抗議をしてもムダだった。 「やつに言え」の一点張りで、「早くしてくんないと、店に行く時間になっちゃうんだよね。これ以上駄々こねられると困るんだけど」
と、突き放すように言われて、従う他は無かった。孝介にしても、やりたくてやっている訳ではない。それは態度からも分かる。

「あ、そこを――――」
と、言いかけてやめた。何も言わずに運転席へ乗り込んだ孝介は、行く場所を指示されているのだろう。そして、それはたぶん智史のマンションだ。一度は会わ なければいけないだろう、とは思っていた。けれど、それが今日というのは早すぎる。心の準備ができていない。なぜ帰らなかったと問いただされれば、どう答 えてよいかわからない。駅までは行った。切符も買おうとした。けれど、この釦を押したらもう此処には居られないと思ったら、押していたのは、返却釦だっ た。

孝介が合い鍵で智史の部屋を開けた。部屋へ一歩入った瞬間、流れてくる風に懐かしい匂いを感じる。
「早くあがれよ」
乱暴な声にうながされて、軽く頭を下げると靴を脱いで上がった。
奥は静まっている。たぶん、誰も居ない。平日の昼間なのだから、智史は会社へ行っているのだろう。久保の来る曜日でも無い。孝介は居間のドアに手をかけ雅 紀を待ちながら、指でドアを叩いていた。雅紀が居間へ入ると、ソファへ座れとあごをしゃくる。
雅紀がソファに腰掛けたのを見ると、カウンターを回ってキッチンへ行った。
「何、食う? 」
くぐもった声が聞こえる。孝介は冷蔵庫のものを探っているようだった。
「いいよ。僕は」
正直お腹がすいた感覚は無かった。大きなため息の後、冷蔵庫が乱暴に閉まる音がした。見上げた時計は昼が近いことを知らせる。

「だ、か、ら、反抗しないでくれる? 」
カウンターから乗り出すようにして、孝介が吐き捨てる。「それと、俺、この家の事分かんないだけどさ。何を食ってもいいわけ? 」
「え? 」
振られた質問に、返事を返せなかった。松田が細かく指示を出しているのかと思っていた。
「松田サン、突然来たかと思ったら、鍵と紙を一枚出してきて、此処へあんたを迎えに行って、やつのマンションへ連れていってくれ、って。俺の返事も訊かず に言うだけ言って、最後に思い出したように食事はちゃんとさせておいてくれ。って言うとうちを飛び出して行っちゃったんだよね」
言葉の最後に大きなため息が付く。「ほんと、やつの言いなりだから、やんなっちゃうよ」
まるで、手がかかる子供の話をしているようだった。明らかに、松田の方が年上だと思うから言われる言葉が馴染まない。
「だって、仕事でしょう? 」
秘書なんだから、仕方ないのではないか、と思う。
「どこまで仕事だか、分かんないよ。何処に連れ込まれて何されてるかなんて分かんねえし」
そんな事ないよ――――という言葉は喉元で止まった。そんな事は無いと思う。けれど、書斎で何をしているのかなんて分からない。そういう対象に見ていな かったから気づかなかったのかもしれない。
「ま、俺は松田サンを信じるしかないんだけどさ」
孝介はまたひとつ大きなため息をこぼした。「で、何にする? 」
「僕がやるよ」
言いながら、雅紀は立ち上がって、孝介の向かいに立った。
「生野菜以外は全部冷凍されているんだ。家政婦の久保さんが冷蔵庫の中身を見ながら足してくれる。シチューでも煮物でもなんでもあるよ。孝介さんも食べる でしょう? 」
カウンターに腕を乗せたまま、孝介は「ああ」と雅紀に返した。
雅紀は冷凍庫の中からじゃがいものスープが入ったパックと、フランスパンを取り出し、「孝介さんも選んで」と促す。孝介は雅紀が示すパックの中からビーフ シチューを選んだ。

久しぶりのスープは舌に温かさがいつまでも残っているようだった。智史の部屋へ来た時、初めて口にしたのも同じスープだ。向かいでは、 空いたビーフシチューの皿を前に孝介がぼんやり天井を見つめていた。
「あんた、あの二人の関係どう思う? 」
けだるい声で孝介が訊く。
「――――僕には、仕事上の関係だとしか思えないけど? 」
事実雅紀の前で、他の関係があると疑うような事は無かった。松田も男を相手にするのだと、孝介の存在を知って初めて知ったくらいだ。
孝介は返事をせず、空を見上げたままだった。
立ち上がってシチュー皿を取った雅紀に「サンキュ」と孝介が小さい声で答える。雅紀はゆるくかぶりを振りながら、自分のスープ皿も一緒に持ち、キッチンの 流しへ置いた。つい何日か前までは当たり前のようにやっていた事だった。その時にはダイニングで自分の向かいに座っているのは智史だった。流しで皿を洗い ながら智史の視線を感じて、心地よかった。そんな事を思い出しながら、遠い記憶のように感じる。

皿を洗い終えて、流しの水を止める。
「じゃあ、俺店に行くから」
背後から、孝介の声がした。なんと答えて良いかわからなくて、「ありがとう」と答えた。
「しつこいようだけど、此処にいろよ。どこにも行くなよ」
孝介は人差し指を振りながら、指図をするかのように言う。
「分かってるよ。ちゃんと智史さんには会うよ」
そう言った雅紀にふっと笑顔を見せると、孝介は「じゃあな」と言って後ろを向いた。

軽い居間のドアが閉まった音がすると、しばらくして重い玄関のドアが閉まった音がする。部屋の中に一人取り残された事に、不思議と不安 は無かった。ソファの上に足を上げて身体を丸める。よくこうして智史の帰りを待っていた。そんなあの頃が返ってきたような錯覚に囚われる。
お帰りなさい、と言って上着を取ると、キスを落としてくれた。その感触を思い出すと胸が熱くなる。

なのに。
それを拒絶したのも自分だ。
あれから、まともに目を合わせていない。
南向きに面した居間は、柔らかい日差しが窓から入ってくる。射すような夏のそれは違う、包みこむような柔らかい日差しは、智史に重なる。
けれど、一度だけ見せた射すような視線を思い出すと、身体が冷たくなる。怖いと初めて思ったあの瞬間。
求めているのか、拒絶しているのか、自分でも分からなくなる。

頭の思考を追い出したいとかぶりを振った。所詮、嘘や言い訳などできない。訊かれるまま正直に答えるしかできない。それで、結論をだす のは、智史だ。それが、自分の望んだ事ではないとしても、受け入れるしかない。
今、自分は智史の手中にいる。
 

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