何の音もしない。ベッドとサイドテーブルしかない部屋。窓から見えるのは、暗い空だけだ。月も星もない四角く切り取られた空。無機質な
ものに囲まれて自分が世界で一人ぽっちになってしまった気がする。
真哉にも智史にも見捨てられて、残されたものは、携帯がひとつ。
これからどうすれば良いのだろう。
膝を抱え込んで額を膝に合わせた。丸まっていると、気持ちが少しだけ落ち着く。
真哉のところへなど行けるわけが無い。かと言って、智史のところへも帰るわけにもいかないだろう。また一人で街に放り出される。
足先に震えを感じた。顔を上げると、携帯が小さく震えているのが目に入る。智史が電話がくれたのだろうか、と思った。ゆっくりと手を伸
ばして、携帯を開くと番号が表示される。自宅の電話では無い。雅紀の知らない番号だ。智史の携帯なのだから、智史宛なのだろう。そんなものを取るわけにも
いかない。掌で震える携帯を見ている事しかできない。
もし、これが大事な連絡だとしたら――――智史に知らせなければいけない。
どうやって?
智史が今どこに居るのかさえ分からない。どうやって連絡を取れば良いのかも分からない。
携帯は突然動きを止める。きっと、またかかってくるだろう。いつまでも自分がこれを持っていてはいけない。
「松田さんに」
携帯のメモリーに松田の番号が入っているはずだ。松田に取りに来てもらうしか手段は無い気がした。
メモリーの一番上にあった松田の番号は直ぐに通じた。
「はい」
いつもの松田の声が聞こえる。
「深波ですけど、松田さんにお願いしたい事があるのですが」
「深波? 存じ上げないのですが、どういった関係の方でしょうか? 」
事務的な声で言われた言葉が胸に痛い。智史は松田に電話しろと言ったのに、知らない振りをするのだろうかと不安になった。けれど、伝えなければいけない。
「あの、雅紀です。智史さんのところで――――」
「ああ、はい。失礼しました。どのようなご用件でしょうか? 」
松田に分かってもらえた事に少し安堵した。
「智史さんがホテルに携帯を置いていったので、届けて欲しいんです。さっきも着信が入ってたから、早く届けた方が良いと思うんですけど」
「今、専務はご自宅に居るはずですから、急いでいるなら直接届けていただければ良いと思いますが。私は身体が空くのが遅くなりますので、そちらへ伺えるの
は明日の午前中になります」
「直接? 」
「はい。タクシーを呼ぶようにフロントに手配致しますか? 」
「あ、いいです。しなくて」
「では、明日の午前中に伺います」
「あ、でも、携帯の着信が」
「気になるようでしたら電源をオフして下さい。それでは」
雅紀が声を出そうとした瞬間、携帯からは無機質な音が流れてきた。松田が忙しいのは知っている。身体が空かないと言っていたのだから、今も仕事中なのだろ
う。松田に頼む事はできない。かと言って、智史と今、直接会う事は躊躇われた。
シンプルなストラップが付いただけのシルバーの携帯は表面に浮かぶ無数の細かい傷がどこへでも持ち歩いていたのだと思わせる。唇を噛み
しめながら、携帯の電源をオフにした。そっとベッドへ戻すと、また身体を丸める。背中は寒い。不安で凍えそうになる。自分で蒔いた種だ。それがどんな花を
咲かすのか、そんな実をつけるのか分からなかったとしても、蒔いた責任はある。不安なら蒔かなければ良かったのだ。無理矢理蒔けと言われた訳ではない。自
分で選んで蒔いたのだから、どんな結果になろうと、それを受けなければいけない。
じっと夜が明けるのを待っていた。家に帰ろうか、という考えがふっと浮かぶ。一度帰って、これからの事を考えよう。真哉はこちらに居るのだから、家に帰っ
ても会う事はない。会ったところで無視をされるのが関の山だとしても、会うのは辛い。
「少しだけ」
ずっと居るのは、きっと辛いだろう。新しい道を見つけるために少しだけ戻ろう。そう思ったら、少し心が落ち着いた。眠いと思うのに、寝る事はできなかっ
た。視界の端で漆黒だった空が明るくなっていった。
インターホンの音に顔をあげた。きっと、松田が来たのだろう。携帯を手にベッドを降りる。ドアをあけると、いつもの無表情な松田が立っ
ていた。
「おはようございます」
落ち着いた声で言い、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます」
あいさつに答えながら、ドアを引き松田を部屋へ招き入れた。
「これを」
言いながら携帯を松田で差し出した。
「では、何も用事が無ければ行きましょうか」
出された携帯を無視したように、松田は身体を翻す。
「どこへ? 」
慌てて雅紀は訊いた。
「専務のご自宅へ。それはご自分でお返し下さい」
松田はドアを引き、雅紀を待っている。
会いたくない――――とは言えなかった。
車は雅紀の気持ちをお構い無しに、滑るように街を走っていく。地理は分からない、だから、あとどれくらいで目的地へ着くのかは分からな
い。それでも、刻々と近づいているのだけは確かだと思う。
昨日の今日で、どんな顔をしたらよいのか分からなかった。智史はどんな顔で自分を見るのかと思うと、逃げ出してしまいたくなる。優しい顔しか知らなかっ
た。だから、昨日は違う顔を見てどうしたら良いのか分からなかった。そしてこれから、会ってどうすれば良いのだろう。
車は覚えのある駐車場へ止まる。松田に促されるように、エレベータへ乗った。最上階で開いたエレベータを降りると、ドアは目の前だっ
た。
インターホンを鳴らす事もなくドアを開ける。ドアを押さえた松田が雅紀に先に行くようにという仕草をした。
松田に軽く頭を下げて前を通る。先に見えるリビングの扉を開ければ、きっと智史が居る。
複雑な気持ちだった。嬉しいような哀しいような怖いような、きっと一言では表せない。慕う気持ちはまだある。けれど、一方では怖いと思う。もう、きっと、
会うのがこれで最後なのだと思うと、哀しい。
ゆっくりと歩く雅紀の歩調に合わせて、松田が後ろから付いてくる。永遠に続けば良いのにと思う廊下はすぐに突き当たる。ゆっくりとドアを開けた雅紀の視界
に入ったのは、ソファで書類に目を通している智史の姿だった。
胸がツキンと痛んだ。どうして、この人を拒絶してしまったのだろう、と思った。ドアの音に顔をあげた智史は、雅紀を見て目を細めた。
入り口で立ち止まってしまった雅紀を松田が軽く押し、ソファに座るように告げた。胸がトクンと小さく波打つ。松田に言われたとおり、ソファに腰を下ろしな
がらも、胸の波は打ち続ける。
「これから、会議があるんだ。用件は早めにしてくれ」
智史の言葉には、感情を見つけられなかった。事務的な単調な言葉に胸の波はざわめきに変わる。
「これを、お返しします」
携帯をテーブルに置くと、智史の眉が微かに動いた。
「用は済んだのか? 」
「はい」
頷きながら、息を吐き出すように答えた。
智史は携帯を取り上げると、電源を入れてズボンのポケットに戻す。
雅紀はソファから立ち上がると、深く頭を下げた。
「今までありがとうございました」
言いながら、目蓋が熱くなってくるのを押しとどめるように、目を堅く閉じた。
「これから、どうするんだ? 」
智史の声が頭の向こうから聞こえる。更に目をかたく閉じて開けると、顔をあげた。
「家へ帰ろうと思います」
智史が怪訝そうな顔をする。
「家へは帰れないんじゃないのか? 」
「一度、家へ帰ってこれからの事を考えます」
「そうか……」
智史が小さいため息をついた。「なら、お前に買ってやったものは全部持っていけ。ここにあっても仕方がない」
「智史、さん」
そんな事はできないよ――――と言おうと思ったけれど、あっても仕方ないと言われたら言えなくなった。
「週末でよければ、送っていってやる」
言葉が胸に突き刺さる。雅紀は何度もかぶりを振った。
「いい。今は一人になりたい」
「なら、好きにすると良い」
智史は言い捨てると、ソファを立つ。そのまま書斎へと消えた。松田も後を追うように、書斎へ消える。一人になった雅紀は、大きく息を吐くと、寝室へと足を
運んだ。作りつけのクローゼットの引き出しをあけると、智史が雅紀に買ってくれたものが詰まっている。ほとんどは一度も袖を通した事が無かった。食事であ
れ、映画であれ、外出する事を拒んだ。家の中で堅苦しい服など必要ではなく、着るものは限られていた。
置いていこうかと思いながら、残されるのは嫌なのかもしれないと思う。残っていれば、嫌でも思いだしてしまうかもしれない。こんな最後を迎えた相手など思
い出したくもないだろう。ボストンバッグとショルダーバッグに荷物をつめると、立ち上がって部屋をぐるりと見回した。一年弱という時間が長かったのか短
かったのか分からない。けれど、その間此処で過ごした時間は優しさがあった。
「さよなら」
もう戻ってくる事のない時間を思い、口の中で呟いた。
寝室を出ると松田が待っていて、封筒を雅紀に差し出した。
「専務からです」
少し厚みをもった封筒を受け取り中を覗くと、紙幣が入っていた。
「もらえないよ」
返そうとした封筒を松田は押し戻す。
「私は受け取るわけにはいきませんので。餞別だそうです」
家に帰るにもまとまったお金を持っていたわけではなかった。きっと、それを智史は知っている。
「智史さんは? 」
「書斎におられます。お会いになりますか? 」
松田の声が幾分か温かく感じられたのは、最後だからなのだろうか。
「ううん」
言葉とともに、かぶりを振った。会えば辛いだけだ。書斎のドアまで行くと、ドアに手をつき、中に向かって話かけた。
「智史さん、今までほんとにありがとう。あなたの腕の中にいる時が一番安心するって言ったのは、本当だよ。さよなら」
言葉を一気に吐き出した後、ドアの向こうに耳を傾けてみたけれど、何も音は無い。ドアから離れて荷物を持つと、居間の入り口で後ろを向いた。。
「松田さん、今までありがとうございました。久保さんにもありがとうございましたって伝えて下さい」
松田が困惑の表情を浮かべた。
「駅まで送りますか? 」
「ううん。此処で。それじゃあ」
軽く頭を下げて、居間のドアを開けた。もう、これで、智史とは繋がりは無くなってしまう。今なら、書斎に飛び込んで謝ったら許してくれるかもしれない。何
度も謝って、もうあんな事はしないと言えば、また傍に置いてくれるかもしれない。けれど――――きっと忘れられない。たった一度智史を怖いと思った瞬間を
忘れる事はできない。だから、此処で終わりにするのが良いのだ、きっと。
まるで重力が二倍になってしまったような重い手で居間のドアを閉めた。
――――さよなら
心の中で呟きながら廊下を歩く。家から出てきた時より雅紀の心は重かった。
*****
「追わなくていいのですか? 」
窓外を見ながら松田が言った。
「未成年が家に帰るというのだから、止める理由は無いだろ」
パソコンに向かいながら智史が答える。
「良いんですか? それで? 」
含みのある声で松田は返した。智史が大きなため息をつく。
「お前も、俺と二人の時にその他人行儀な言い方やめろよ。言いたい事があるなら、はっきり言えば良いだろ」
松田が口の中で小さく笑った。
「代わりだったんだろ? 」
言い方も変われば、声まで変わる。
「そのつもりだったんだけどな」
智史が呟くように言った。
「――――槙を呼ぶか? 」
少しの沈黙の後松田が言った。
「何の為に? 」
智史が怪訝そうな顔をする。松田は窓外から智史へ視線を移した。
「槙なら喜んでお前を慰めてくれるよ」
揶揄するような物言いに、智史は鼻をならした。
「ふん、余計なお世話だ」
言い捨てる智史に松田が視線を伏せる。
「まだ、浅見の事を気にしてるのか? 」
キーボードを打っていた智史の指が一瞬止まった。
「……もう忘れたよ」
「なら、槙を受け入れてやれば良いだろ」
「お前に、指図されたくは無い」
智史が乱暴にキーを叩き、ウインドウを閉じた。
「次の相手を捜すのか? 」
「さあ? たまには真面目に仕事するのも良いだろ。行くぞ」
智史はパソコンの電源を落とすと席を立つ。
立った弾みで起こった風に雅紀の言葉が重なる。
『あなたの腕の中にいる時が一番安心するって言ったのは、本当だよ』
あの時、抱きしめてやりたいと思いながら動けなかったのは、自尊心からなのだろうかと思う。雅紀の本気の抵抗は智史の心にも影を落とした。
雅紀が出て行ってから二週間が経った。智史は未だに雅紀が居なくなった事に慣れずにいた。パソコンに向かいながら、ふっと窓外が気にな
る。時折そんな事がある。青い空は何も教えてはくれないが、同じ空の下に雅紀も居るのだと思う。元気だろうか、と返ってくるはずのない問いを空に向かって
した。空は変わらず穏やかな色を見せるだけだ。
ガタっとドアが開く音がして雅紀が帰ってきたのだろうか、と思った。
書斎を出た智史を迎えたのは久保だった。
「おはようございます」
突然でてきた智史に驚くように、頭を下げる。
「ああ、今日は早いんだな」
「今日は天気が良いそうなので、日頃手をつけないところをやろうかと」
「そうか」
書斎へ戻ろうとした智史を呼び止めるように久保が言った。
「今日、来るときに、雅紀さんに似た人を見たんです」
智史は弾かれたように、久保を見た。
「でも、きっと人違いですね。最近は、あの年頃の子を見るとみんな雅紀さんに見えてしまって」
久保が自嘲するように笑った。
雅紀が居なくなって、淋しいのは自分だけではないと智史は思う。
「最初は、仕事の邪魔だと思っていたのに、不思議なものですね。今は居ない事が物足りないと思うなんて。人は一人では生きていかれないのかもしれません
ね」
久保は既に連れ合いをなくし、一緒に住んでいる子供もいない。
「そうだな」
智史は言葉を返すと、書斎へ戻った。パソコンの前に座り大きく息を吐く。真面目に仕事をするつもりでいながら、なかなか仕事が進まない。今までは二時間で
書けた資料が、一晩かけてまだ終わらない状況だった。
集中できない。今までは、早く終わらせて雅紀を可愛がってやろうと思った。今はそれが無い。まだ時間があると思うと、作業はなかなか進まない。雅紀が居な
かった時に、自分はどうしていたのかさえ覚えていない。
だらだらと時間だけが過ぎていく。
一番大切なのは槙だと思っていた。けれど、雅紀も大切だったのだと、失った今思う。真っ直ぐで偽りの無い瞳に癒された。欺くとか騙すとか、そういう言葉と
は無縁なやつだと思った。全てを素直に表すから、安心して全てをさらけ出せた。そういうやつだからこそ、あの時受け入れてはくれなかったのだろう。けれ
ど、待つ事などできなかった。こいつは俺のものだと確信を持ちたかった、それをあいつの全てが拒絶した。
傷が癒えるのは時間が掛かりそうだと思った。もし、次に選ぶとすれば、雅紀に似たやつだろうと思う。あの純粋な瞳にもう一度会いたいと
智史は思った。