頭の中で真哉に話す言葉を整理する。分かったと真哉が納得する台詞など用意する事はできなくて、けれど、はっきりと自分の気持ちを告げる言葉を言わ なければいけない。一番言いたくない言葉を口にできるだろうか、と不安になる。心臓は規則正しく動いている。その鼓動を身近に感じる。今にも 走り出しそうな鼓動を感じながら、落ち着けと、頭と心に命令した。
「はい」
松田の声が聞こえてきた。携帯の着信があったらしい。携帯に答えながら、いつもは無表情の松田が微かに笑った。話の内容から相手は孝介なのだろう、と思
う。きっと店に来るだろう真哉への手紙を雅紀は松田を通して孝介に言付けた。話があるから来て欲しいという文面にホテルの名前と部屋番号だけが書かれた短
い手紙を見て、真哉はどう思ったのだろう。
「言っておくよ――――ああ、また後で」
切った携帯をズボンのポケットに戻し、顔を上げた松田は、また無表情に戻っていた。
「孝介からか? 」
智史が松田に訊く。
「はい。手紙を渡したとの事です。順調にいけば30分程でこちらへ着くのではないかと」
「それだけじゃ無いだろ」
智史は意味ありげに松田を見た。松田は小さく笑う。
「手紙を渡すと、馬淵は酷く嬉しそうな顔をして今までのお詫びと感謝の言葉を言うと店を飛び出して行ったそうです。――――孝介は専務より寧ろ馬淵の方を
応援したい、と言っていました」
「ふん」
松田の言葉に智史は鼻をならす。「あいつが私の味方になる事なんて無いだろ」
「そうかもしれません。それでは、私はこれで」
智史の返事を待たず、松田は深く礼をすると部屋を出て行った。
ドアの閉まった音を聞くと、智史が小さなため息をついた。
「俺は、奥に居た方が良いか? 」
智史が自分の事を俺というのは、素になっている時だ。仕事や公共の場を離れて本当の自分に戻る時に変わるのだと気づいたのは最近の事だった。そういう態度
をとるようになったのも最近だ。気づきはしなかったけれど、真哉の事が知られる前は一線を引かれていたのだと、今なら思う。
智史は真哉と会う場所としてホテル最上階のスイートルームに部屋を取ってくれた。人に聞かれたくない話であるから、ホテルの個室は有り難いと思ったけれ
ど、ここまで良い部屋を取ってもらう事は無いと言ったのに、聞き入れてはもらえなかった。加えて、用意してくれたバーバリーのシャツとズボンは、肌触りは
良いのに落ち着かない。たまには言う事は聞けと言われて、反抗する事はできなかったけれど、これからの事も合わせて気持ちがざわざわしていた。
「此処に居て欲しい」
雅紀は視線を落としながら呟いた。真哉と二人きりになってしまうのは怖かった。誰か見ていてくれる人が必要だった。
20分程した頃に、ドアをノックする音が聞こえた。時間が早いとは思いながらも、智史と目を合わせる。
智史は手を伸ばしここで待っていろという仕草をすると、ソファから立ち上がった。ゆっくりと入り口へ向かう。その間に、もう一度ノックの音が聞こえた。
「雅紀、俺だよ」
懐かしい声が聞こえて、胸がきゅっと締め付けられた。
智史がドアを開ける。ドアの向こうでほっとした表情を見せた真哉が智史の顔を見て怪訝そうな顔をした。
「あんた誰? 俺、雅紀に会いに来たんだけど」
明らかに不審そうに呟く。
「名前を聞く時は先に名乗るものだ」
智史は真哉の前に身体を滑らせた。顔をゆがめつつ智史の肩口から部屋に視線を泳がせた真哉と目が合う。
「雅紀っ」
智史を払おうとした真哉の腕は、智史に捕まえられてしまった。「離せよ」
「言ったはずだ。名前を名乗れと」
真哉は智史を横目で見ると、視線を雅紀へ向ける。雅紀は何も言えず顔を伏せた。
「馬淵真哉だよ。これで、いいだろ。早くその腕どけてくれよ」
真哉の声、そして聞こえてきた大きな足音に顔をあげた。すぐ目の前に真哉の姿があった。睨むように雅紀を見る。その姿が懐かしくて、愛しくて、声が出な
かった。
「俺は怒ってるんだぞ。何も言わずに何ヶ月も何してたんだよ。すげえ探したんだからなっ」
叫ぶような声音と強い視線に耐えられなくなって、また視線を伏せた。
「ごめん……」
口から出たのは、それだけだった。
「まあ……理由はゆっくり聞かせてもらうからさ。行こう」
真哉は言いながら、ソファに置いていた雅紀の手を取ると、軽く握った。肌が触れた瞬間に身体がぴくっと反応する。触れあったところから血液が送られてき
て、身体が大きな心臓になってしまったように、身体全体が鼓動する。
流されていくように引き上げられる手を押し戻しながら、雅紀はかぶりを振った。
「僕は行かない。ごめん、出て来る時にちゃんと言うべきだったんだ。僕達――――終わりにしよう」
一気に言葉にした。身体の鼓動は止まらない。血の流れが速くなって、息をする余裕すら与えてくれないほど、心臓が速く強く収縮する。その鼓動を自分でも持
て余していた。
膝を落とした真哉が雅紀の顔を覗き込んでくる。
「な、なんで……だよ。なんでそんな事言うんだよ」
雅紀はゆっくりと大きく息を吐くと、真哉の瞳を見つめた。大好きな琥珀色の瞳がそこにはある。戸惑った色を見せながらも、以前と同じく透き通っていてきれ
いだった。
「気持ちが無くなった――――それだけだよ」
瞳の奥が熱くなる。こんな気持ちを悟られてはいけないと思うのに、身体は言う事を聞いてくれない。顔を背けると目を閉じた。
「嘘だ。お前がそんな事言う訳ねえじゃん。なんでそんな事言うんだよ。あいつに言わされてるのか? 何の為に? お前は何の心配もせずに俺のところに戻っ
てくれば良いんだ」
握られた手に更に、力を加えられた。
「ずいぶんな自信だな」
入り口で立って様子を見ていた智史が近づいてくる。真哉は手を離し、雅紀を隠すように前に立った。
真哉の手が離れると、今までの鼓動が嘘のように静まっていく。愛しさは胸をしめつけるけれど、ゆっくりと身体の中を流れて染み込んでいく。まだ好きだと、
前と気持ちは変わっていないと思い知らされる。
「こいつは返してもらう。世話になった礼は後でさせてもらうから、とりあえず今日は連れて帰らせてもらうよ」
真哉の言葉に智史は目を細めた。
「雅紀は行かないと言ったのに、聞こえてないのか? 」
「こいつの本心じゃねえよ」
智史が近づいてくる。睨みあいながら縮められていく二人の距離があと一歩に迫った時に、智史が立ち止まった。
「本当だよ」
雅紀は言いながら立ち上がると、真哉の脇を抜け智史の横に立った。真哉を思うなら尚更、終わりにしなければいけない。
「ごめん、真哉――――僕はこの人に付いていく事にしたんだ」
予定にあったわけじゃない、こうしようと思っていた訳じゃない。なのに、身体が勝手に動いた。「ね」
雅紀は智史の肩に手をかけると、智史を見上げて目を閉じる。これだけで、きっと智史は雅紀の思う事を理解してくれる。期待通り触れてくる唇に全てを預け
た。触れる智史のくちびるは温かいのに、雅紀の身体は冷たくなっていく。周りの空気も凍っていくように感じた。
ゆっくりと唇を離しながら真哉を見た。目を見開いて驚いた顔がそこにあった。声を出せないかのように、開けられた口からは、何も発しな
い。
「だから、僕の事はもう放っておいてくれよ」
身体の感覚が乏しかった。足がちゃんと床を踏んでいるのかわからない程、立っている事自体が頼りない。瞬きもせず驚きを表した瞳が睨むようにこちらを見て
いる。その瞳に縛られるように身体を動かすことさえ難しい。
「なんで、こいつなんだ? 何があったんだよ。ちゃんと説明しろよ。気持ちが無くなったっていうなら、そう言えば良いだけだろ。言わな
くたって分かるさ。お前は嘘なんてつけないやつだから。お前が消える必要なんてないだろ。この半年俺がどんな気持ちだったか、お前に分かるか? 」
「とか言いながら、ずいぶん良い大学に行ってるじゃないか。それとも、それは裏口か? 」
真哉の言葉を遮るように智史が言った。訝しげな顔をしながら真哉は智史を見やる。
「雅紀がいなくなったなんて知らなかったんだよっ。教師は塾へ行って学校へ来ないとか言うし、家へ行ったって、勉強してるからって、俺と同じ大学目指して
勉強してるって言われたら――――無理矢理会ったって邪魔するだけだと思って我慢してたんだ。同じ大学に受かれば、それも良いし、もしダメだったら東京に
連れ出すつもりでいた。だから、表向きでも家を出られるような大学に受かる必要があったんだよ。なのに、なのに――――なんでお前が居ないんだよ」
真哉に睨みつけられて立っているのが辛くなる。そのまま座り込んでしまいたかった。胸が苦しくて、息ができなくて、意識さえ遠くなっていきそうになる。
できるならそうしたかった。真哉と一緒に居たかった。今でも、本心を言えばそうだ。けれど、事情が変わってしまったのだから仕方ない、望む事はできない。
「所詮、全部親がかりだろ」
智史の低い声が響く。真哉とは対称的な冷静な声だった。
「仕方無いだろ。まだ学生なんだから」
「その学生のお前が、雅紀に何をしてやれるんだ? 雅紀を連れて行ってどうするんだ」
「ぜ、いたくはできないかもしれないけど、普通の生活ならできる」
「親の金で? 」
真哉が口を引き結ぶ。眉根を寄せ思い通りにいかない苛立ちを顔に表した。
「所詮、お前ができる事など全部親がかりだろ。大学を出たら親の会社に入るのか? そうすれば、何の心配も不安も無くレールに乗ってトップまでいける」
――――やめてくれ!
そう叫んだ言葉は声にならずに頭に響く。それ以上言わないで欲しい。智史の口を塞いで止めたくなる。けれど、身体はおもりを付けられたように重くて、言葉
は頭の中をすり抜けていく。
真哉の顔色が変わるのが分かった。目を細め、不快感をあらわにする。
「全部親がかり。親がいなきゃ何にもできない。そうだろ? 」
続けられた智史の言葉に、険しかった真哉の顔が自嘲するようにふっと緩むと顔を伏せた。
「――――雅紀が、そう言ったのか? 」
違う、と叫ぼうとしても声はでなかった。頭の中で押しとどめるものがある。
「お前も、そう思ってたんだ」
真哉が酷く悲しい声で続けた。
違う、という言葉は今度は、はっきりと意識がある自分が声に出さなかった。否定したところで、真哉を受け入れられない以上、もっと傷を増やしていかなけれ
ばいけない事になる。答えられずに顔を伏せた。それを肯定ととられても仕方ないと思った。
「そうか……俺がバカだったよ」
胸に突き刺さる言葉に目をきつく閉じた。
「お前がそんなやつだとは思わなかった。お前だけは俺の事分かってくれていると思ったのに」
呟くように言うと、真哉はゆっくりと足を前へ進めた。雅紀の横を抜けて部屋の入り口へ行く。雅紀がもう一目だけ真哉の姿を見たいとあげた視線に返ってきた
のは、真哉の冷たい瞳だった。別れる事を望んでいたのに、はっきりと形になるとやりきれない思いになる。真哉に抱きついて、嘘だと言いたくなる。好きだ
と、叫んでしまいたくなる。
重い、ドアの閉められた音に、全ての力が抜けてしまった。座り込んでしまいそうになった身体を智史に支えられる。
「もっと骨のあるやつかと思ったら、たいした事ないじゃないか」
そのまま智史に抱きかかえられた。
「いやだ……降ろして」
「ベッドにな」
背筋に嫌悪感が昇っていった。今までは、優しくて安心できる腕の中であったはずなのに、不快感しか感じない。
「嫌だ。お願いだから今すぐ降ろして」
見上げた雅紀に智史は怪訝な表情を見せる。
「嫌だね」
雅紀を抱いたままドアノブを回し、寝室のドアを開ける。足を伸ばして降りようとしても、しっかりと抱き込まれていて、身体が自由に動かせない。ベッドの上
に放られて、すぐ降りようとすると、先を阻まれ上に覆い被さってくる。膝の間に足を入れられて、逃れる事ができなくなってしまった。
「いやだよ。智史さん、お願いだから止めて」
初めての拒絶だった。身体の中で嫌悪感が渦巻く。腕を伸ばして智史の身体を押し上げようとする。けれど、力では叶わない。伸ばした腕など関係なく、降りて
きた唇が首筋を啄む。身体の中を走ったのは快感ではなかった。
「いやだ、やめて」
身体を捩って顔を背ける。拒絶の声とは関係なく、智史の唇が雅紀の首筋を這う。
「――――あいつに、会ったからか? 」
耳元で囁かれる声にも不快感を感じる。夢中でかぶりを振った。
「酷いよ、智史さん。真哉は親の事を言われるのが一番嫌なんだ。がんばっても、がんばっても、でてくるのは親の名前で、それが嫌で悩んで、でも逃れる事は
できなくて――――今の真哉の気持ちを思うと、こんな事する気になんてならないし、あんな事を言ったあなたを受け入れる事なんてできない」
頬を捉えられると、無理矢理上を向かされた。智史の瞳を間近に感じて、怖いと思った。いつもは優しく思える瞳が獣のそれのように思える。
「あれぐらいでダメになるようなママゴトなら、さっさとダメになった方が良い。マイノリティに属するというのはそんな甘い事じゃない。あいつは、俺のたっ
た一言でお前を疑ったんだろ」
智史の言葉は頭を素通りする。嫌悪感が言葉を聞き入れる事を拒否する。
「真哉を傷つけたくなかった」
「ふん」智史が鼻を鳴らす。「なら、付いていけば良かっただろう。傷つかないで別れようなんていうのは無理だ。お前が甘いから助けてやったんだろ。それと
も、別れるっていうのはポーズだったのか? 」
智史の手がシャツのボタンにかかる。
「いやだ」
智史の手を止めようとした手は滑って、智史の顎に当たり弾けた音をたてた。一瞬全ての時間が止まった。
ごめんなさい、という言葉すら出なかった。そんなつもりじゃなかったという言い訳をする事もできなかった。唇に滲んだ血を舌で舐め取る
と智史がゆっくりとベッドから降りる。雅紀は後ずさるように、身体を引き上げた。
「そんなに、あいつが大事なのか? 」
片方の眉をつり上げて、智史は不快を表す。
返す言葉も無ければ、示す仕草さえ無かった。智史を見つめる事しかできなかった。しばらく雅紀の返事を待った智史は、沈黙に焦れたように言葉を繋いだ。
「ならば、あいつのところへ行けば良いだろう」
手をズボンのポケットに入れると、携帯を取り出しベッドの上へ放る。
「松田の携帯番号がメモリに入っている。あいつの住んでいる所は松田が知っている」
智史は言い捨てると、足早に部屋を出て行った。程なく、もうひとつのドアを閉める音が聞こえる。
部屋には静寂が響いた。