浅い眠りの中で、ドアが開く音が聞こえた。パタンと小さな音をたててドアが閉まると、小さな足音が聞こえ、ベッドのスプリングが揺れた
事で誰かがベッドに入ってきた事を感じる。それが、誰かは分かっている。
手を伸ばし抱きしめたいと思った。何もできないならせめて、ぬくもりを与える事はできないのかと思った。智史が与えてくれたぬくもりを少しでも返したい、
と思った。
けれど、思うだけだ。きっと智史はそれを喜ばない。すぐそこに身体はあるのに、手を伸ばせば届くところにあるのに、見えない壁を感じる。深い溝を感じる。
こ
こ数日そんな日が続く。初めて智史の冷たい言葉を聞いた日から、それは続いていた。ベッドの中で気配を感じる事はあっても、顔を見る事さえ無い。朝智史が
ベッドをぬけていく時、起きてはいてもベッドの中で寝ているふりをした。なんとなくそうした方が良い気がした。それは、たぶん、智史がいつも
より早くベッドを出ていくからだ。声もかけずに。
いつまでこんな日が続くのだろう、と思う。
梅雨の明けた空は昼間きれいなコバルトブルーを見せるのに、心は晴れない。
今日も智史は遅いだろう、と思っていた。味気ない食事を済ませシャワーを浴びる。それで今日は終わってしまった。一日ぼんやりと居間の
ソファで膝を抱えて座っていただけだ。他にする事もできる事も、したい事もなかった。時計の音が正確に時を刻んでいく、その音を聞いていただけだった。
突然玄関ドアが乱暴に開いた音で、身体がびくっと跳ねた。大きなな足音が聞こえ、激しい音をたてて居間のドアが開けられる。
雅紀はソファの前で立ち上がったものの、身体が動かなかった。入り口に立つ智史とにらみあっているに近い視線を交わす。
ややあった沈黙の後、雅紀は言った。
「お、帰りなさい。食事は? 」
「済ませてきた。お前は? 」
久しぶりに返してくれた言葉に、胸が熱くなってくる。
「もう、済ませたよ」
近づいてきた智史に手を伸ばす。上着を受け取ろうと思った。
「……じゃあ、先に部屋へ行っていろ。私はシャワーを浴びてくるから」
「……うん」
上着を受け取りながら、小さく頷いた。心臓の鼓動を感じる。いつもは胸の奥にひっそりと息づいている心臓が大きく震えてくる。智史が以前のように接してく
れた事で、ここ数日の辛さなど吹き飛んでしまった。
部屋へ入ると、ドアを開けたままハンガーに上着をかけた。窓にレースのカーテンだけをひく。そのままベッドの縁へ腰掛けた。もうすぐ智 史が来てくれると思うと、自然に顔が綻んでくる。今日は何があったのか訊けるかもしれないと思った。きっと、トラブルが解決したのだと思った。
ほどなく部屋に入ってきた智史がドアを閉めた。部屋が暗闇に包まれる。それは、わずかな時間で目が慣れてくれば窓から差し込む光でぼん
やりと見えるようになる。肌を合わせる時は、そのくらいの光が好きだ。
けれど、智史は部屋の明かりをつけた。突然のまぶしさに目を細める。雅紀が明るい中で抱かれるのを好まない事を智史は知っている。部屋に先に行っていろと
いう言葉を抱いてくれるのだと思ったのは、見当違いだったのかと思うと、心の中は暗幕をひかれたように一気に暗く沈んだ。
「雅紀」
目の前に立った智史に名前を呼ばれ見上げると、手で顎を捉えられて唇を塞がれた。部屋の明るさは嫌だった。けれど、身体は応えて腕を背に回してしまう。そ
のまま、抱きかかえられるようにベッドに組み敷かれた。
「明るいのは、やだ」
唇が離れた時に、小さく不満を口にした。雅紀の首筋をたどる唇に言葉は無い。
「智史さん、電気消してくる」
起きあがろうとした身体は、ベッドに押しつけられた。
「いいんだよ、このままで」
いつもは優しく写る瞳が、暗さを含んでいた。それが、表情さえも暗いものに見せる。声は借り物のように、感情を感じなかった。
「智史さん、何があったの? 何があなたをそんなに変えてしまったの? 」
雅紀の問いに応えは無い。パジャマのボタンを外しながら、智史の唇は雅紀の身体をなぞっていく。
この間の乱暴さは無い。ゆっくりと身体を確かめていくような愛撫は徐々に身体を熱くしていく。いつの間にか、身体を被うものは剥ぎ取られ、ベッドの下に落
ちていた。明るい中で、自分を暴かれていくのはいやだと思う。けれど、それ以上に今与えられている快感を手放すのは嫌だった。たった数日なのに、それが長
い月日のように感じる。前に智史に触れられたのは、遠い昔のように思えた。
擦りつけてくる智史の身体が、智史の身体も熱くなっている事を教えてくれる。バスローブを介してであれ、智史のものを感じて更に熱が高まってくる。身体は
智史を欲しがっていた。
窄まりの中に、ジェルをまとった冷たい指が入ってくる。それを喜ぶように襞が締め付ける。
「此処は、俺が初めてじゃないよな」
ぽつりと智史が言った。
知られているとは思っていた。智史を初めて受け入れた時、身体はすんなりと受け入れた。それについて智史は何も言わなかった。言うほどの事でもないのだ
と、その時は思った。
「さ、と……しさん? 」
なんで今ごろそんな事を言うのだろう。
「お前の身体は愛される事しか知らない。だから、何も拒まず素直に受け入れる」
言いながら、敏感のところを擦り上げられて背中が反り返る。
「あ、あ……んぅ、なん、で……ごろ」
そんな事は分かっていて、抱いてくれるのだと思っていた。
「馬淵真哉、ってやつを知っているか」
名前を聞いた途端、身体の血が全てどこかへ吸い取られていったような気がした。一気に冷えた身体は、半分ほど立ち上がっていたものさえ、例外ではなかっ
た。
すっと指を抜かれて、萎えたものを握りこまれた。
「あ……」
「ずいぶん、正直なんだな」
萎えたものは擦り上げられて、与えられた刺激に素直に反応する。けれど、手の動きが止まるとまた萎えてしまう。
「単なる同級生だよ」
智史がなぜその名前を知っているんだろうと思った。接点はないはずだ。
高校で知り合った。天から二物も三物も与えられていたのに、その境遇をどこかで否定していたやつだった。
「単なる同級生と、お前はセックスするのか? 」
智史の問いに顔を背けるしかできない。単なる同級生で居れば良かったんだ。そうすれば、何も起こらなかった。
「そいつがお前を捜している」
身体がぴくりと動いた。何もまとわない身体は反応を智史に知られてしまう。小さく笑った智史の声が聞こえた。
雅紀はゆっくりと智史の方を見た。
「なぜ、どこで、智史さんは彼を知ったの? 」
智史の手が優しく雅紀の頭を撫でる。
「知りたいのか? 知ってどうするんだ? あいつの所へ戻るのか? 」
雅紀は視線を伏せ、かぶりを振った。
「僕は、どこにも行かない、って言ったよ」
どこにも行かない。行くところなんて無い。
「数日前に、興味深い話を松田から聞いた」と智史は話始めた。
雅紀は額を智史の胸に預けると、右手で智史の腕を掴んだ。どこかに触れていないと不安だと感じた。
「お前が最後に行った店を覚えてるか? 」
智史の問いに雅紀はかぶりをふる。あの時の事はほとんど記憶が無い。たぶん、今探して行ったとしてもたどり着けないだろう。
「そこに、お前の写真を持って、知らないかと尋ねてきたやつがいた。ずいぶん前に仕事を探して来たけど断った、とバーテンは答えた。また来たら教えて欲し
いと携帯の番号を置いていったそうだよ。それが一ヶ月位前の事らしい」
智史の腕を強く握りしめてしまった事に気がついてあわてて緩めた。大きく呼吸をする。忘れてられていないと喜ぶ気持ちと忘れて放っておいて欲しいと願う気
持ちが渦をまいて混ざりあっている。
一ヶ月前という身近な時間に心が落ち着かなくなる。まだ、探しているのだろうか。自分が職を探して歩き回ったところは、色んな意味で危ないところだと認識
がある。そういう場所を歩き回らないで欲しいと思う。
「それから暫くたって、同じバーテンがある場所でそいつを見たらしい。誰かに写真を見せて話をしていたというから、まだ、お前を捜していたんだろう」
胸がぎゅっと掴まれるような気がした。
「ある場所って? 」
わざわざ隠す意味が分からない。
「……いわゆる、発展場というところだ」
雅紀は息を呑んだ。自分が踏み込めなかった場所だった。そんなところへ真哉が自分を捜して行ったという。
やめさせないと、と思った。けれど、どうしていいのか分からない。
「大丈夫……なのかなそこ。突然襲われたりとか……」
「自由恋愛の場なんだから、大抵は襲われたりはしないだろう」
智史の言葉に安堵する。「だが、騙すやつは居るかもしれないな」
「騙すって? 」
「お前を知っているとか言って、誘うやつはいるかもしれない。相手をしてくれれば教えてやるとか」
不安が急に大きくなる。それで、もし相手をしたら……。
「不特定多数の人間と交わったらどんな事になるのか、ちゃんとした知識があるやつほどそんな事はしない。運と言えばそれまでだが、そのお前の同級生には
ちゃんとした知識はあるのなら心配する事はないだろう」
「なければ? 」
「まあ、病気をもらうかもしれないな」
身体が凍りついていく。
やめさせなければいけない。もし、まだそんなところへ行っているのなら。けれど、どうやって?
どうやって知らせればいいのだろう。自分が行くしかないのだろうか。ちゃんと別れを告げてこなかった自分が悪いのだ。でも、別れを告げる事なんてできな
かった。
「今日、そいつを見てきたよ」
智史の言葉に思考が止まった。
「え? 」
どこで?
「同じ発展場に、毎日のように足を運んでいるらしいな」
「じゃあ」
おそるおそる顔をあげて智史を見た。
「今もまだ、お前を捜しているだろうな」
心が悲鳴をあげていた。声にする事のできない叫びが胸の中を渦巻く。
「智史、さん。真哉を、真哉をやめさせるにはどうしたら良い? あなたにはこれまでも言葉にできない程世話になってる。こんな事頼むの
は筋違いだって分かってる。でも、僕には頼めるのはあなたしかいないんだ。お願い。真哉をやめさせて欲しい――――」
智史の胸に縋った。それしかできなかった。
「ただの同級生、なんだろ。そこまでする事はない」
智史の言葉に激しくかぶりを振る。
「違う。大切な人なんだ。一番大切な人なんだ。だから、お願い――――」
見上げると智史の眉がぴくっと動いたのが目に入った。
智史は無言で、サイドボードにある子機に手を伸ばし慣れた手つきで番号を押す。
「俺だ」
ラインは直ぐに通じたらしい。
「ああ、例のやつ引っ張りだしてやってくれ。方法は任せる」
返ってきたらしい言葉に「ああ、頼んだ」と告げると、智史は子機を戻した。
「智史さん? 」
不安はまだ胸の中で渦巻いている。
「お前の頼みは聞いてやったんだ。もう良いだろう」
智史は雅紀のものを握り込んだ。
「で、でも」
「始め松田から話しを聞いた時、お前を帰してやらなければいけないかと思った。どんな理由があるのかは知らないが、探してるやつがいて、お前には想ってい
るやつがいる。会わせてやるのが良いのかとも思った。でも、お前を見たら気が変わった。お前を渡したくない」
直接的な刺激を受けて雅紀のものは反応を見せる。唇が首筋をたどっていく事に身体は熱を帯びてくる。
「それでも、返してやらなければいけないだろうか、と思った。口ではなんと言っても、お前がそれを望んでいると思ったからだ」
「さ……とし、さん」
手は内股を掠り、窄まりを解す。
「今日、あいつを見てはっきり自分の気持ちが分かった。お前は渡さない。昔は知らない、今、お前は俺のものだろ? 」
智史自身が窄まりにあてがわれるのを感じた。ゆっくりと進入してくるそれを雅紀の身体は当たり前のように受け入れる。
「あなたが、それを望むなら」
雅紀は手を伸ばして智史の頬を撫でた。
分からない。自分の身体はすんなりと智史を受け入れる。抱かれていると安心する。好きだと言葉に出して違和感はない。それを自分の素直な気持ちだと思え
る。真哉に対するものは、もっと激しかったように思う。会える度にドキドキした。別れる時は切なかった。肌を重ねる事は息苦しく思えるほどの愉悦をもたら
した。
忘れたいと思いながら、忘れられない真哉の記憶。
その記憶を持ちながらでも、智史の腕の中にいる自分はとても穏やかな気持ちでいられる。
突き上げられる快感の波に酔わされながら、浮かんだ真哉の笑顔は遠くなっていった。