ふと、壁にかかっている時計を見上げると、針が九時を指していた。
智史の帰りの時間はその日によって違う。早ければ日が沈む前に帰ってくる時もあるが、帰ってこない日もある。いつ帰ってくるか分からない人間など待たず
に、先に食事をして寝ていろと言われていた。けれど、遅く帰ってきた時でも食事をしていない時もある。ごくたまに、と言えるほど少ない事ではあるが、今日
がそうかもしれないと思うと一人で食事をとる事を躊躇う。一人より二人の方が嬉しい。二人で食べた方が美味しく感じる。
もう少し待ってみよう、と視線を時計から外した。
ソファに背を預け沈みこむ。何もする事は無い。テレビを見たいとは思わない。音楽を聴きたいとも思わない。ただ、時間が過ぎていくのを身体で感じている。
そうやって、この半年を過ごしてきた。
締め切った部屋の中、空調の音しかしない。湿気を抑えるために弱く設定しているエアコンは時折、柔らかい風を吹き出し、空気を優しくかき混ぜる。それさ
え、エアコンが満足したら停止する。音が無い世界になる。
音が無いくせに空気が響きあっている。そんな中、玄関のドアが開く音が聞こえてきた。
反射的に身体が飛び起きる。この時間、この部屋へ来るのは智史しかいない。
リビングの扉が開くと、予想通り智史が姿を現す。
「お帰りなさい」
上着を取ろうと、ソファを立って智史に近づいた。雅紀が出した手を無視して、智史はネクタイを緩めながらダイニングテーブルを一瞥する。ダイニングテーブ
ルの上には二人分の食器が並べられていた。
「食事は先にしていろ、といつも言っているだろ」
いつもとは違う低く尖った声が響いた。智史の声なのだろうか、と疑ってしまうような始めて聞いた声音に、雅紀は身体がびくっと震えた。
言葉の無い雅紀に、智史は溜息をひとつこぼすと、書斎へと入っていった。
一人取り残された雅紀は、しばらく動けなかった。
始めて聞いた声音、始めての冷たい態度、始めての無視。
一緒に暮らし始めてから半年、疲れていると感じた時も、機嫌が悪いと感じた時もある。けれど、どんな時でも優しかった。肌を重ねてからは、帰ってきた時に
は必ず、キスを落としてくれた。額であったり、頬であったり、首筋であったり、唇を塞がれてそのままソファに押し倒された事もある。機嫌が悪い時は、さら
に雅紀を求めた。
なのに、今日は違う。始めて見た智史の姿に小さな不安が胸で燻る。
どうしよう、どうしたら良いんだろう。考えても答えは出ない。とりあえず、食事を片づけなければいけないと思った。食事をしろ、と彼は
言ったつもりなのだろう。
一人で、しかも重たい気持ちを抱えた食事は味なんてわからなかった。時間が経つ程に、胸の不安を大きくなっていく。出ていけ、と言われるのだろうか。そう
言われたら出ていくしかない。仕事といえるほどの事をしているわけじゃない。雅紀がいなくなったところで、智史が困るとは思えない。
食事を終えて片づけた後、雅紀は紅茶とフルーツケーキを持って書斎をノックした。
冷たい言葉をかけられるのは覚悟の上だ。不安に思っているよりも、はっきりさせた方が良い。出ていけと言われるのなら、早くその言葉を聞いてしまった方が
良い。
「何か用か? 」
ドア越しに先ほどと同じ、低い声が答える。
静かにドアを開けると、智史がドアに背を向けパソコンの前に座っている姿が目に入った。パソコンの電源は入れられていない。
「ケーキを作ったんだ――――良かったら食べて。紅茶も一緒にテーブルに置いておくから」
後ろ姿の智史に声をかける。緊張して声が堅い事を自分でも感じた。
書斎でも打ち合わせができるように小さな応接セットが置いてある。そのテーブルの上に、持ってきたトレーをそのまま置いた。
「呼んでくれたら、片づけるから」
返事のない智史に、言葉を付け加える。
「――――先に休んでいろ」
振り向きもせず、智史は応えた。低く抑揚のない声は、雅紀を気遣う言葉を紡ぎ出す。
「うん。分かった」
なるべく明るい声で返事をした。
まだ出会って半年だ。自分の知らない智史がいて当然なんだ、と思った。どうでもいいやつに食事をしろとか寝ろとかは言わないだろう。気にはかけてくれてい
る。智史の態度は自分が原因ではなく、仕事で大きなトラブルがあったのかもしれない。真っ先に書斎に入ったのは一人で考え事をしたかったのだろう。なら
ば、雅紀がこの部屋にいる事は智史にとって好ましくない事だ。
「おやすみなさい」
もう、来ないからという意味で言った。
「おやすみ」
雅紀の言葉に智史は応えてくれた。ほんの小さな事なのに心がふっと軽くなった。
書斎を出るとシャワーを浴びて寝室へ行った。明かりを消して窓辺に立つ。月は無くても柔らかい明かりが差し込んでくる。空に星は見えな
い。明るくなった地上の光は星を消してしまっている。
レースのカーテンだけを引くと、一人で寝るには広すぎるベッドの端に身体を滑り込ませた。少し固めのスプリングはすぐに身体に馴染んで、優しく身体を支え
てくれる。
窓に身体を向けると、目を閉じた。あとは、明日を待てば良い。胸に燻る不安は明日になれば消えているかもしれない。望む望まないに関わらず時は休まず刻み
続ける。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。浅い眠りの中で、ドアが開く音がした。背後に智史の気配を感じながら雅紀は目を閉じてい
た。寝ていろと言った智史の言葉に従うために。それが智史の望む事なら、と。
けれど、すっと伸びてきた智史の手が雅紀の頬を捉えた事に、身体がびくっと反応してしまった。
「雅紀、起きてるのか」
頬を捉えた手で智史の方を向かされて、雅紀はゆっくりと目を開いた。
目の前に智史の顔はあるのに、光量が少なくて表情は分からない。
「うん」
応えた雅紀の頬を優しく智史が撫でる。
「何かあったの? 智史さん」
触れてくれた事に自分を求めてくれているのだと思った。力になる事はできないけれど、話を聞くぐらいはできる。言葉にして少しでも気持ちが安らぐなら、話
して欲しい。
「お前は、どこにも行かないか? 」
いつもと同じ優しい声が耳に響く。
どこへ行くと言うのだろうか。此処以外に自分のいる場所など無いと分かっていると思ったのに。
「僕はどこにも行かないよ。行く場所なんて無い。僕は――――」
智史さんのところしか居る場所は無いんだ――――。
最後まで言わせてもらえなかった。
唇を塞がれ、舌が絡み取られていく。甘いケーキの味がして、食べてくれたんだ、と思った。
布団を剥がれ、パジャマのボタンを外されていく。智史のシャツに手を伸ばした雅紀の手は、智史に掴まれベッドへ押しつけられてしまった。
「智史さん? 」
雅紀の呼びかけには応えず、素早くボタンを外すと、手が雅紀の肌を滑っていく。それだけで、不安が消えていく。身体が熱を帯びてくる。
ふっと、槙の顔が頭を過ぎった。
お前はどこにも行かないか? と聞いてきた智史の言葉は誰かが智史の元を去った事を意味するのだろうか。だとすれば、それは槙しか考えられない。
数人いるデザイナーの中で一番大切にされているのは槙だ。それは確かだと思う。自宅にまで呼ぶデザイナーは槙だけだ。会社では誰の目があるかわからない
と、槙のデザイン画だけは自宅でしかも智史だけに見せられる。それで結果を出しているのだから文句はあっても公には言われないのだろう。数多くだす事は価
値をさげる事だと言い、デザインも絞られる。そこまで気を使うのは槙だけだ。
その槙が会社を辞めると言ったとすれば、智史の落胆も大きいはずだ。
けれど、大切にしながらも拒絶している関係が長く続くとも思えない。槙が去るのは時間の問題であり、ある意味智史はそれを待っていたのだろう、と思ってい
る。
槙が智史に好意を持っているのは仕草や目線から分かる。だから、智史は雅紀を傍に置いた。自分は指向が違うのだと槙に教える為に。何も言わずに、槙の気持
ちを拒絶するために。
それは、智史から聞いたわけでは無い。雅紀の勘でしかない。しかし、他に理由が見つからない。わざわざ槙との打ち合わせの時だけ雅紀を
傍に置き、身体に触れてくる理由が。
先日は、キスをしているところまで見られているだろう。彼女は愛しい人が他のそれも男とキスしているのを見て、どう思ったのだろう。そう思うと胸が痛い。
けれど、雅紀に智史を拒む事はできなかった。それが、たったひとつの契約だからというわけじゃない。智史の心の闇を感じるからだ。
智史は男色なわけじゃない。男を相手にはしている。少なくとも雅紀もそうだ。けれど、槙に対しても恋愛感情を持っている。槙が帰った後、智史はいつもより
激しく雅紀を求める。それは、快楽を得るためというより、苦しさから逃れるために思えた。忘れたい想いを抱えていて、忘れられる時を貪る。決して忘れる事
などできない事は分かっていても、求めてしまう。
なぜ、そこまでして智史が槙を拒絶するのか分からない。同じ会社の上司と部下である関係が今の時代障害になるとは思えない。却って、有能なデザイナーを確
保できる事は会社にとって利益も大きいはずだ。
なのに、智史は槙を拒絶する。その智史の心の闇は自分に重なる。
大切に想いながら、つらぬきとおす事ができない。そんな気持ちを雅紀は知っている。
衣服を剥がれ、無防備になった身体に、智史はジェルを絡めた指を突然沈みこせてきた。
「あぅ――――」
周りからゆっくり解す事もせず、身体を高める事も無しに進入してきた指は痛みを伴う。
何かに急かされるように、進入して来た指は雅紀の敏感なところを擦りあげる。
ゆっくりと優しくではなく、早く強く刺激されて、智史を呼びかけようとした声は、言葉にはならなかった。
「さ……ん――――あ、あっ」
動きは止まる事なく、雅紀を高めていく。早く、強く。
「あっ……ぅ――――あ……んぅ」
待って――――止めて――――と心で叫んでも、声には出せなかった。口から出るのは押さえきれない喘ぎだけだった。こんなに、早急に高められた事はなかっ
た。
仰向けで足を開き固定されたまま、智史は雅紀の窄まりの中にある敏感な部分を執拗に攻めてくる。上から見下ろされ自分が感じていく様を全て見られている。
それが恥ずかしくて、更に感じてしまう自分が恨めしい。
初めはいつもと違うやり方に慣れず強ばっていた身体が、与えられる快感に力が抜けていった。神経が一点に集中し、そこで与えられる快感が身体をふるわせ
る。
見下ろす智史の表情は影になって分からない。どんな顔をしているのだろう、と手を伸ばしたくても手に力は入らなかった。
指をすっと抜かれ、身体をひっくり返された。開かれた身体の中は補ってくれるものを待っていた。熱く強く貫いてくれるものが早くきて欲しいとうごめく。
期待に反して入れられたものに、雅紀に息をつく間がない快感を与えた。待っているものはそれじゃない。けれど、一番感じるところを集中して攻められる。あ
なたが欲しいんだ、入れて欲しい、と叫びたくても喘ぐ息に邪魔されて言葉にできない。緩く立ち上がっているものも握り込まれて擦り上げられた。
何度放ったのか自分でも分からなかった。喘ぎが嗚咽に変わった頃、やっと雅紀は解放された。汗と自分の放ったものが身体のまとわりつい
てベタついた身体が気持ち悪い。誰も触れていないし、何もされていないのに、身体は余韻で震えていた。もうそこにはないはずの指がまだあるように感じる。
自分のものではなくなってしまったような身体の震えを抑えるために、何回もゆっくりと大きく息を吐いた。
結局、智史を受け入れる事なく、自分ばかりが何度がイかされた。言葉も無く、自分の荒い息づかいだけが響く中で、何度も絶頂を迎えた。智史さんが欲しい、
と心の中で何度も叫んでも、結局それを言葉にする事さえできなかった。
部屋のドアが静かに開き、誰かが入ってくる気配がする。身体のだるさに負けて起きあがる事さえできない。黒い影がゆっくりと自分に近づ
いてくる。一瞬僅かな光が顔を照らしたけれど、それはすぐに影になった。ベッドに乗り、のぞき込んできた顔は、やはり暗くて表情が見えない。
温かいものが頬に触れて、それが濡らされたタオルだと分かった。
「さとしさん、自分で、できるよ」
雅紀は智史の手の上に自分の手を重ねた。
「――――お前は、大人しくしていろ」
雅紀の手を振りきるように智史の手が動く。タオルを介してであれ、智史に触れられるのは心地良かった。智史は丁寧に雅紀の身体を拭っていく。拭われた後、
空気にさらされた肌がひやっとして気持ち良かった。
さっきまで帰ってきたままの服装だった智史は、バスローブに着替えていた。シャワーを浴びてきたのだろう。
全身を拭うと、智史は雅紀に触れるだけにキスを落とす。雅紀はやっと自分の意志で動かせるようになった腕を智史の首に回した。
「僕だけイッて終わりなんて、やだよ」
あなたにも、ちゃんと感じて欲しい。
首に回した腕に力を入れた。そのまま背中まで落とし抱き込むようにする。
智史の手が雅紀の頬を撫でる。
「お前は、どこへも行かないんだろ」
優しい声がそこにはあった。
「行かない」
誘うように目を閉じる。触れてきた唇は二、三度啄むと離れていった。
「なら、良い」
智史が身体を起こすと、雅紀の腕は軽く弾けてしまう。
「智史さん? 」
雅紀の声には応えず、智史は後ろを向いた。
「先に、寝ていろ」
背中越しに雅紀に声をかけると、智史は部屋を出て行った。雅紀はドアに消されていく智史の背中をぼんやりと見ていた。
身体は怠かった。睡魔はすぐそこまできている。せめて智史が帰ってくるまで、起きていたいと思っていたのに、気がついた時には明るい日差しが窓から差し込
んでいた。