ベランダから外を眺めていた雅紀は、突然背後から腕を回されて身体が小さく跳ねた。けれど、誰の腕かは直ぐに分かる。
「ごめん、智史さん起こしちゃったね」
「早起きは良い事だよ」
雅紀の首筋に顔を埋めて、くぐもるような声で智史が応えた。
「朝やけが凄く奇麗だから、今日も良い天気だよ」
一段と明るくなった山腹がもうすぐ日が昇る事を知らせる。
「外へ一歩も出ないお前には、関係ないだろ」
皮肉とも取れる言葉に、「そうだね」と雅紀は小さく呟いた。
「でも、晴れていた方が気持ち良いよ」
雨が必要な事は知っている。草や木や生き物たちも水が無ければ生きていけない。海水が潤せるのは海の中だけだ。地上に生きるものは雨に頼るしかない。けれ
ど、日が昇らなければ、生きてもいけない。我が儘なものだ。
「お前は、此処に来てからどれくらいになる? 」
右手で胸のあたりをまさぐりながら、耳元で囁く。不思議と智史に触れられると、胸に燻る不安が消えて行く。
「1月の初めからだから、半年ぐらいかな」
この間まで、雨が続いていたが、ここの所晴れる日が多い。梅雨が明けるのもうすぐだろう。
「もう、そんなになるのか。……ずっと家の中に籠もっていて退屈じゃないのか? 」
「そんな事ないよ。週三回は、家政婦の久保さんが来てくれるから、料理一緒に作ったり、掃除を一緒にしたり、色んな話も聞かせてくれるし」
「高校に行く気が無いのか」
雅紀の言葉を遮るように、智史が言った。「学費なら出してやる。高校は出ておいた方が良い」
何度も言われた言葉だった。返事が出来ずに雅紀は黙り込む。高校へ行くという事は自分の身元を明かすという事だ。それだけではない。必
要になる書類もでてくる。
「まあ、考えておけ」
軽く首筋にキスを落とすと、智史は雅紀を離し部屋へ戻った。思い出したように、不安が心に影をおとす。
高校は出ておいた方が良い――――それはそうなのだろう。
だからと言って、今の自分はどういう状態なのかも分からない。高校三年の一月に家を出た。その後、親が学費を払い続けているとしたら、卒業はできているの
だ
と思う。ただそれを証明するものを自分が手にする事はできない。
将来を考えれば、今のままで良いはずは無い。智史とて、いつまで雅紀の面倒を見てくれるかはわからない。契約とは言っても、ただの口約束だ。
家を出て何とかなるという目処があったわけじゃない。ただ、此処には居られないと家をでた。東京に出てくる事しか考えられなかった。身
元がはっきりしなくても雇ってくれるところがあるように思ったからだ。その考えが甘い事は直ぐに分かった。
家も無く、保証人も居ないやつを雇ってくれるところなど、何処にもなかった。年を偽り何軒も飲み屋を尋ねた。けれど、童顔の雅紀は家出してきたのだとばれ
たようで、奥から警察へ電話する声を聞いて飛び出した事もある。
別の店では「その、ルックスなら行けば金になるところを教えてやるよ」と言われ、教えてもらった所へ行ってみると、いわゆる発展場というところだった事も
あった。いざとなれば男でも売りができるのだと知った。けれど、生理的に受け付けなかった。男に声をかけられ、この人とするのだと思っただけで、身体全体
に鳥肌が立ち、足早にその場を去った。相手は何処にでも居るような人だった。どちらかと言えばルックスは良い方だったかもしれない。けれど、知らない人と
肌を合わせるのはどうしようもなく嫌だった。
何日も歩き周り、何軒目かも忘れた店を出た時に、声をかけてきたのが智史だった。
「仕事を探しているのか? 」
少し長めの髪はきれいに流されていた。涼しげな目元が優しく見えて、着ているものは高価なものだと一目で分かった。安物ではない品がそこにはあった。直感
で、悪い人じゃないと思った。確証があったわけじゃない。今思えば、小綺麗にしていて高価なものを身につけてる悪人など、掃いて捨てるほど居るじゃないか
と思う。
ただ、あの時は疲れていた。もう歩くのも考えるのも嫌だった。
「はい」と小さな声で答えた雅紀に「付いておいで」と智史は言った。
その後智史は何も言わず、雅紀を車に乗せ此処に連れて来た。
部屋へ招き入れると、暖かい食事を出してくれた。
疲れきってあまり食欲が無かった雅紀は、その時出してもらったスープの味が未だに忘れられない。
暖かいジャガイモのクリームスープは、凍えた身体を少しづつ融かし温めてくれた。そして、心までも優しく包んでくれるようだった。
向かいでワイングラスを持ちながら、智史は言った。
「仕事の内容は一つ。私が自宅でうち合わせをする時に隣に居ること」
智史の言葉に雅紀は口元まで持っていったスプーンを皿へ戻した。
「それだけ、ですか? 」
「秘書だと思えば良い。ただ、ひとつ条件をだそうか。此処に住む事」
夢なのか? と思った。そんなうまい話があるわけは無い。もしかしたら、店を出た時に、倒れて気を失ってしまったのかもしれない。まるで、マッチ売りの少
女の様に、夢を見ながら天へと旅立つのだろうか。
「いいか? 」
天へ旅立っちゃうのは困るけれど、夢なら冷めないで欲しいと思う。
「はい」
雅紀は姿勢を正して頭を下げた。雇い主となった人に。
それから、半年以上経つのに一度も外へ出た事は無かった。外に出る事を禁止されている訳じゃない。むしろ、食事に行こう、とか、洋服を
買いに行こうと智史は声をかける。
その度に「ごめんなさい」と雅紀は断った。
外には出たくない。外に出れば、自分のいる場所を人に知られてしまう。ただ一人だけ、知られたくない人が居る。その人に知られたくないから、誰にも知られ
たくない。
もしかしたら、その人は自分なんて探していないかも知れない。行き先も理由も告げずに姿を消したやつなど、忘れているかもしれない。人は忘れるものだと言
う。忘れられるから生きていけるのだと言う。
半年前から自分の中で時計は止まってしまった。けれど、世の中は確実に動いている。だから、忘れていてくれれば良い。自分は忘れられないけれど、その人に
は自分の存在を忘れて欲しい。
太陽が山腹から顔を覗かせ、四方八方に光りを飛ばす。
太陽に背を向けるように、雅紀は部屋へ戻ると、そこに智史の姿は無かった。
出社には早い時間だから、書斎でパソコンにでも向かっているのだろう。
「紅茶でも、入れようかな」
ビールよりワインを、コーヒーよりも紅茶を好む智史の為に。
先の事を考えるのは、明日でも良いだろう。そうやって、先延ばしにしている。
「今日は、久保さんが来てケーキの焼き方を教えてくれるんだよな」
ずいぶんと料理を覚えた。筋が良いと褒められて調子に乗っていると自分でも思う。簡単な料理なら作れたけれど、一手間かけるだけで、ずいぶん味が違うのだ
と久保に教えられた。智史が旨いと褒めてくれるのも励みになる。
とても穏やかな日が過ぎていく。ずっと、このままでいたい。
明日もまた、今日のような朝を迎えたい。そして、たぶん、明日はそうなるだろう。
だから、考えるのは明日にしよう。
雅紀はパジャマを着替えると、キッチンへ向かった。