足音が聞こえた。
俊介がはっと意識が戻って体を起こすと、体にはケットがかけられていた。
誰が?
こんなことをしてくれるやつに心当たりは無かった。
外は明るくなっていて、時計を見ると、七時を回っていた。
可南子なのか? と思いながら、俊介は自分の下腹部に触れた。
はっきりとイった感触があったのに、痕跡はなかった。
祐貴を捕まえたと思ってからの記憶がない。
――あれは夢?
けれど、そうだとは思えなかった。
足音は近づいてきて、可南子が姿を見せた。疲れたような表情で顔色は血の気がないように青白かった。
「大丈夫か?」
俊介は思わず声をかけていた。
「あなたには言われたくない」
不満げに言うと、可南子は祐貴の前に座って手を合わせた。
なんだよと思いながらも、憎まれ口をきけるようになったのはいい傾向なのだろうと思う。昨日は、家に帰ってきてから声を聞いていない気がした。
可南子は線香をあげると、祐貴の枕元に行って白い布を外した。
「祐貴、朝だよ」
ぼそっと呟く。
そして、そっと祐貴の頬に触れて、はっとしたように手を離した。
俊介は何も言葉はかけられなかった。
自分ができなかったことを可南子がやって、恐れていたことは現実なのだと思い知らされたような気がした。
しばらく沈黙が流れて、それを破ったのは可南子の深いため息だった。
「こんな形でわがまま聞いてくれるなんて、ずるいよ」
可南子が不満げにこぼす。
「でも、望んだのは私……、なんだね」
寂しげに続けると、力なく笑った。
「どういうことだよ」
俊介は可南子に声をかけた。
知りたかった。
可南子のわがまま?
それは何?
「もう、会えないでしょ? あなたと」
可南子がなんで分からないの、といった顔をする。
「でも、私のそばにはいてって言うのを付け加え忘れちゃった」
困ったように眉を潜めて、けれど、それは涙を押しとどめているように見えた。
そうやって納得しようとしているのだと思った。
――お前も受け入れるの?
そう思いながら、俊介は顔を伏せた。
「ありがとう。もういいわ。美樹さんも待っているだろうから帰って」
可南子がため息混じりに言う。
「……しかし」
俊介は祐貴のそばを離れる気にはなれなかった。
「大輔は置いていっても大丈夫よ。何もしやしないわ」
それを心配しているわけじゃない。
「また人が来るだろ。お前一人じゃ……」
祐貴の傍にいられる言い訳を探した。
「そのままで、お通夜にでるつもり? 」
「あ……」
汚れたシャツは替えたものの、確かに普段着のままだった。
「祐貴を隠したりはしないから」
視線を向けてきた可南子の瞳は潤んでいた。
子供とは違い支度をしに一度は帰らなければいけないだろうと思う。
「……すぐに戻るよ」
俊介は祐貴に向かって言葉にした。
答えてくれないとは分かっていても、そこに祐貴はいた。
読経の音とざわめきとすすり泣く声と足音と。
色々な音は混ざり合っていて、なのに、それは調和をもっているようには思えなく、すべてが耳障りだった。
二日間の一連の流れは滞ることなく終わり、祐貴を乗せた黒い車は道に吸い込まれていく。後に続く車に姿を消されても、あそこにいるのだと思うと俊介は視線
を外せなかった。
「帰ろう」
美樹が肩をつついてくる。
「いや、帰ってくるまで……」
本当は付いて行きたかった。
「ここで待っていて、どうするの?」
どうする?
そんなことは考えていなかった。
「帰ろう。祐貴だって自分の家に帰ってくるでしょ? そのとき会いにいけばいいじゃない」
美樹がじれったそうに言う。
自分の家に?
「そっか……」
逃げたりはしない。
祐貴はもう自分の意志でどこかへ行ってしまうことはない。
「そうよ」
「そうだな」
もう、笑顔を見せてくれることも声を聞くこともできない。
「大輔は?」
あたりを見回しても、見送りに出た人はもうほとんどいないのに、大輔の姿は見えなかった。
「行っちゃったわよ。一緒に」
「え?」
知らなかった。
「史也についていてやるんだって。祐貴と約束したんだって」
「……なんで、あいつだけ」
文句がこぼれた。
「だめよって言ったのに、いいわよって可南子さんが……あなたはそんな話をしていたときもずっと祐貴のこと見てたでしょ。きっと人の声なんて耳に入らなく
て。だから、気が付かなかったのよね」
否定はできなかった。
最後だと言われたから、目を離すことはできなかった。
一分でも一秒でも。
「だから、帰ってきたら分かるわ。だいたい、付いていって大人しくしてられるの?」
美樹が意味ありげに言う。
大人しく?
自信は持てなかった。
すべてを見透かされているようで、完敗だと俊介は思った。
家に戻ると、途端に疲れが押し寄せてきて、ネクタイだけ解くと俊介はソファに倒れこむように沈んだ。
「着替えだけは、済ませちゃって」
美樹がTシャツと短パンを放ってくる。
「ああ」
返事はしても、動く気にはなれなかった。
「シャワー浴びる?」
物陰から問いかけられて。
「今はいい」
そう答えるのがやっとだった。
昨晩は寝ていない。その眠気が一斉に襲ってきたのか、目を開けていることさえできなかった。
暗闇に話し声が聞こえた。
「そう、引っ越しちゃうの……」
この声は美樹だと分かる。
引っ越すって?
誰が?
頭はまだ完全に動いていないようだった。
「早いほうがいいと思って」
違う声が答える。
この声?
そう思ったところで、俊介はいきなり目が覚めた。
「ちょっと待てよ」
そのまま廊下に出て行くと、玄関に美樹と可南子の姿があった。
床にいくつもの紙袋が置いてある。
あれはなんだ、と思いながら先にはっきりさせなければいけないことがあった。
「引っ越すって? 誰が?」
驚いた顔をした美樹はしょうがないわねという顔になって、けれど、可南子は無表情だった。
「実家に帰ることにしたの。部屋は余っているっていうし、その方が色々便利だから」
淡々と可南子が言う。
「あそこはどうするんだよ」
祐貴の家だ。
「まだ決めてない。書類上の手続きがあるし急ぐことはないから、ゆっくり考えるわ」
他人事のように、どうでもいいことのように、可南子は言った。
「色々お世話になって、いままでありがとう」
軽く頭を下げた可南子に俊介はらしくないと思った。憎まれ口の一つや二つ出てくるのが当たり前だった。
「じゃあ、また」
可南子がドアのとってを取った。
「あ、でもいいの? 大輔がお邪魔したままで。迎えに行こうか?」
美樹が可南子を止めようとした。
「美樹さんがよければ。正直言うと大輔がいて助かった。史也のことまで気が回らなかったから。もう少しだし、いてくれるっていうから」
軽く笑うように表情を崩す。
「あ、もう。ごめんね。わがままで」
美樹が困ったような声を出して、可南子はゆるくかぶりを振った。
俊介が所在なげに立ち尽くしていると。
「少し、いい?」
可南子が視線を向けてきた。
「ああ」
必要に迫られたわけでもなく、向こうから声をかけてきたのは初めてかもしれない、と思った。
部屋のドアを閉めて、祐貴の家へ行くものだと思っていたのに、すぐに可南子は立ち止まった。
可南子がゆっくり振り向くと、見上げてくる。
そして、無言で握っていた手を出して、目の前で広げた。
可南子の手の中には、小さなビンがあって、その中には白い粉が入っていた。
「ほんの少しだけ分けてあげる」
可南子が首を傾げる。
俊介がビンを可南子の手から取ると、それは夕日を反射してきらきら光っていた。
「私なら絶対許せないけど、美樹さんならきっと許してくれると思うから」
可南子が視線を伏せた。
俊介は言葉がでなかった。
これは?
心臓がばくばくとなって、俊介は立っているのがやっとだった。
「色々、ありがとう」
可南子は言うと、俊介の答えを待たずに背中を見せ、姿はだんだん小さくなっていった。
何も言葉がでてこなくて、何も考えられなかった。
可南子から渡されたものを手の平に握りこむと、俊介はごくりと喉を鳴らした。