「祐貴は?」
疲れたような顔で入ってきた可南子は聞いてきた。
「ついさっき目が覚めて、また寝たよ」
穏やかな寝顔がすぐそこにあった。
「そう」
呟くように答えると、可南子はさっきまで俊介が座っていた椅子に腰を下ろした。
「医者は何だって?」
聞く権利くらいはあると思った。大切な友人だ。
「原因は分からないけれど、全体的に体の機能が落ちてるって。血中酸素の数値が思わしくなくて、人工呼吸器をつけることを考えてくれって」
「そんなに悪いのか?」
俊介は祐貴を見やった。
ただの疲労だと思っていた。
ぐっすり寝込んでいるのか、祐貴はぴくりとも動かない。
「普通に生活していたなんて不思議なくらいだって。若いから回復力に期待したいって。まだでてこない検査結果があるからそれが出てから治療方針は決めるけ
ど、こういう場合は過度なストレスが原因なこともあるから、それを取り除いてやらないと回復は望めないって」
――過度なストレス?
祐貴なら十分に考えられることだと俊介は思う。すべてを抱え込んでしまう。一人で考えて結論を出して周りに頼ることをしない。
「働きすぎなんだよ。ちゃんと寝てたのか?」
仕事を家に持ち込んで、休む時間はあったのだろうか?
「分からない」
「分からないって、お前……」
呆れた。一緒に生活しているやつが寝ているかどうかも分からないなんていったいどうなっていたんだ、と思う。
それでも、祐貴は一切不満をこぼすことは無かった。
「寝よう、って言っても切りがいいところまでやって、とか。朝は私より早かったし。ベッドに入っていても寝ていたかどうかは分からない」
可南子がゆるく頭を振る。
「強いストレスを受けるような心当たりがあるかって聞かれて分からないって答えたけど、心当たりがあり過ぎて、私……」
可南子は、くっと口を噤んだ。
それでも。
分かっているなら、対処はできるはずだ。
「まあ、いい機会なんじゃないの?」
取り返しがつかないことになる前で――。
少なくとも問題だけは認識できたわけだ。
「私ね。祐貴に会社やめればって言ったの」
「え?」
それは初耳だった。
「私が働くから。ずっと家に居てなんて言わない、もっと時間が自由になる仕事を選んでって」
「それで?」
「私のわがままに不満を言ったことも拒んだこともなかったのに、そのときだけは、それはできないって。体のことを心配してくれるのは分かるけど、大丈夫
だって言って譲らなかった。どうしてだか分かる?」
可南子が見上げてくる。瞳は微かに潤んでいた。
俊介は答えることをためらった。
ただひとつ頭に浮かぶ答えが当たっていて欲しいと思う反面、可南子を目の前にして言えることじゃない。
「あなたに会えなくなるからよ。言わなくても分かる。それしかないと思った」
可南子は眉根を寄せ、悔しそうに言った。
それは、そうであって欲しいと俊介が望んだ答えでもあった。
「今日だって……」
「何かあったのか?」
電車の中でも祐貴は何も言っていなかった。
「家で休んでいればって言った。史也は私が連れていくから、ゆっくり休んでって。体の調子が悪そうだって気づいてなかったわけじゃない。朝起きるのも辛そ
うだったし、だから気をつけていたつもりだった。なのに、私の前じゃ平気そうな顔するの。大丈夫って聞いても、大丈夫だって言うの。そうよね、じゃあ、帰
ろうってことになるものね」
可南子は悲しそうに視線を伏せた。
「別に、今日でなくても良かったじゃないかっ」
一言声をかけてくれれば、予定を延ばせばよかったことだ。
「そう。私が延ばしてもらおうかって言えばそうなったんだと思う。でも、言いたくなかった。電車の中でだって、なんで隣に座ってるのって思った。でも、そ
んなあからさまなことは言えなかったし、見ているのも辛かったから見ないようにしてた。祐貴が居て史也が居て幸せだと思う。でも、それはいつかあなたに根
こそぎ持っていかれちゃうんじゃないかっていつも不安だった」
「祐貴はそ――」
「分かってるわ!」
そんなことはないと言おうとした言葉は遮られ、可南子は睨んできた。
「あなたに祐貴のことを言われたくない」
可南子の声と言葉と表情から、俊介はすべてを拒絶されているように感じて、ごくりと喉を鳴らした。歓迎はしていないまでも、それなりに許してもらえている
のだと思っていた。
それは違う?
「分かってるのよ。祐貴は心をすべてあげることはできないって言った。私は、それでもいいと言った。だけど、もういいでしょう? って思うの。もう何年
経ったのって。会っちゃうから忘れられないのよって。なら、会えなくなれば忘れてくれるんじゃないかって」
可南子が苦しげに顔をゆがめる。
「――俺たちは友達だよ。それさえ許してくれないのか?」
ここ数年そういう付き合い方をしてきた。お互い距離を保ってきた。
「表向きはね。でも、違うじゃない。あなただって祐貴だって――」
可南子が唇を噛む。
はっきり確かめることはできないけれど、傍にいて感じるものはある。それまでも友達のものだと俊介は言えなかった。
「美樹さんが不思議。なんであんなに平然としていられるの? 私は家で大人しくなんてしていられない。家にいたら嫌なことばかり考えてしまいそう。帰りが
遅かったら、きっと居ても立ってもいられなくてあなたの家に怒鳴り込んでるかもしれない。最初はね、史也を美樹さんに預けることが怖かったの。私ならきっ
と優しくなんかできない。手を引くなんてことできない。道路に突き飛ばしてるかもしれない……でも、彼女は違う。同じ立場のはずなのに平然としてる彼女を
見習わなきゃいけないって思う。でも私はやっぱり彼女みたいにはなれない――」
考えもしなかった耳を疑うような言葉が可南子から返ってきて俊介は息を飲んだ。
けれど、言葉にはしても、実際そんなことはしないだろうと思う。
大輔の頭を撫でていた可南子を見たことがあった。そのとき、そんな気持ちを持っているようには見えなかった。
「どうしろっていうんだ?」
気持ちはどうにかしようとしてなるものではないと分かっているはずだ。
「分からない。こんな私も自分で嫌なの。わがままばかり言っていたら祐貴が離れていってしまうかもしれないと思っても止められない。祐貴がいいよって言っ
てくれるとまだこの人は私のことを思ってくれているんだと思って安心する。そうやって祐貴を追い詰めて。祐貴を独り占めできないって分かってるのに独り占
めしたいのよ――」
可南子は布団の中へ手を差し入れると祐貴の手を引き寄せ両手でぎゅっと握った。
できるものなら独り占めしたいのは自分も同じだ、と俊介は思った。
そう願ったことは一度や二度じゃない。
ふっと可南子が顔をあげて見てきた。
「どうした?」
「なんか、変」
不安そうな顔をして、可南子は手を祐貴の顔に近づけた。
「変って?」
俊介は窓を離れ祐貴の近くへ寄った。
特に変わったことは無かった。
「息、してない……」
「嘘だろっ」
俊介は布団の上から心音を探って、分からなくて布団を剥いで胸に耳を当てた。
こうすればいつも規則正しい心臓の鼓動が聞こえた。なのに、いくら耳を澄ませても、神経を集中しても聞こえるものは無かった。
「あ、どうしたら……」
可南子が情けない声を出す。
とりあえず、医者を呼ばなければいけない。
そう思い俊介はあたりを見回してベッドの柵に絡まっている線につながったボタンを押した。
「どうしました?」
聞こえてきたのは暢気そうな看護師の声だった。
「様子がおかしいんです。息、してないみたいで……」
そんなことあるわけないだろと思いながら、今分かる事実はそうだった。
「すぐ行きます」
看護師の声は緊張したものに変わって、インターホンはガチャっと切れた。
「どうしよう」
可南子が眉を寄せ泣きそうな顔をする。
「大丈夫だよ。すぐ医者が来てくれるんだから」
早く来てくれよ、とドアを見つめて俊介は思った。
こんなことがあっていいはずが無かった。