月のカタチ後日談
『一番大切な……』
「お手数おかけしてすみません」
頭が地面についちゃうんじゃないかと思えるほど、向かい合う小さな身体が頭を下げる。
最近は社内でもこんな言葉を聞くことが少なくなったのに、と俊介は目を細めた。
「気にすることないよ。どうせ、俺は暇だったんだし」
徹夜あけの休みで、ぐっすり寝てさっき起きたばかりだった。突然のトラブルは待ったなしの上に早急な対応が要求された。とりあえず、応急処置だけはなんと
か終わり、根本的な解決を図らなければいけないにしても、明日からで十分だろう。
電話のベルで目が覚めて、美樹の声が聞こえてきた。
『うん、わかった。いつもどおりでいいんでしょ』
たった一言だけで用件は終わったらしく、その後電話を切る音がした。
『大輔、史也、迎えに行ってくるね』
そう美樹の声が聞こえたから、
『待てよ』
俊介は大声で叫んだ。
とりあえず着替えて、俊介は美樹の代わり家を飛び出して来た。
いわゆるマンモス団地のはずれに史也が通う保育園がある。定時で帰らないと間に合わない保育時間に延長がついても微々たるものだ。祐貴も来れない、可南子
も仕事の途中で抜けることもままならない時、美樹が向かえに行くのはよくある事らしい。
棟違いとは言え同じ団地内に住んでいるのだから、それほど手間なわけじゃない。
迎えに行った俊介に保母は訝しげな表情を浮かべたが、史也がいつも代理で向かえに来る美樹の旦那だと言ってくれたおかげで、不審そうな顔をしながらも保母
は史也を渡してくれた。
保育園を出た途端、史也は立ち止まって頭を下げた。
『お手数おかけしてすみません』
その言葉から、史也を自分の子供と同じ歳だとは思えなかった。けれど、ついこの間五歳の誕生日を終えたばかりのはずだ。
大人の足で徒歩五分。子供だけで遊びに行ってももっと遠くへ行くだろうと思える距離であっても、保護者の迎えが必要になる。それは仕方のないことだろう、
とは思う。
家まで連れて帰って、玄関で史也が入ったことを見届ければいいと、美樹は言った。
「母ちゃんはすぐに帰ってくるのか?」
俊介が史也に聞くと、史也は一瞬ためらってから「たぶん」と小さく答えた。
「お母さんはそのつもりだと思う」
そう史也が続けた言葉に、俊介はひっかかりを感じた。そのつもり、ということはだいたいにおいて違うということだ。
「飯どうすんの?」
起きたばかりの俊介はともかく、世間ではもう夕食の時間だろう。辺りからも、そんな匂いが漂ってくる。
「家に帰れば、なんでもあるから……」
「なんでも?」
「うん。お父さんが作って冷凍しておいてくれる。シチューも、海老フライも、ハンバーグも……お母さんが帰ってきても、それを温めるだけだから……」
――――ハンバーグ?
「父ちゃんが作っておいてくれるんだ。おいしいだろ」
「うんっ」
史也は子供らしい返事をすると、顔を曇らせ一瞬口を噤んだ。
「お母さんも、休みの時は作ってくれる」
いい訳のように口にする。
「そっか」
俊介は史也の頭にそっと触れると、撫でた。
「今日は何食べんの?」
俊介が顔を覗き込むようにして訊くと、史也は唇を尖らせて考えるように視線を上げた。
「ハンバーグにしなよ」
俊介が声をかけると、史也の表情が緩んで、「うん」と元気に返事をする。
「いいなあ。俺も食べたいな。史也の父ちゃんが作ったハンバーグ」
あれが、最後になってしまった。
「……食べに来る?」
史也がおそるおそる見上げてくる。
「いいのか?」
「うん、いっぱいあるから。でも……」
「ん?」
「大輔ママも大輔も待ってるよね」
史也が顔をふせる。
「そんなことないさ」
俊介はポケットから携帯を取り出すと、家へ繋いだ。史也の家で夕飯食ってから帰る、そう美樹に告げると、美樹は一瞬沈黙の後、『そう言うんじゃないかと
思っていたわ』と答えた。甘やかしちゃダメよ、ときつく言われ通話は切れた。
俊介が史也を見ると、史也は不安そうな顔をしていた。
「いいか? 食べに行っても」
携帯をきりながら俊介が訊くと、史也は満面の笑みを浮かべてうん、と頷いた。
ハンバーグと付きあわせの温野菜、小松菜の入った味噌汁と、ご飯、それだけのものを史也はレンジで温めて出してくれた。冷蔵庫から漬物をだし、豆腐も切っ
て小鉢に入れて出してくれる。
ふとした仕草や表情が祐貴に似ている。それは、初めて史也を見た時から感じていたことだった。愛しさは重なってくる。
親子ほど歳が離れていて、事実同じ歳の子供が自分にもいるのに、はっとしてどきっとすることがある。
用意して、食べて、片付けて、史也の手馴れた様子に俊介は切なさを感じた。同じ歳の自分の子供は待っていれば出してもらえて、片付けなんてあることさえ分
かっているのか。
「偉いな、史也は。大輔とは偉い違いだ」
個性が違うことは分かっている。けれど、歳以上に、史也は大人びたところがある。
「……お母さんは、僕より仕事が好きだから……」
皿を洗いながら、史也がぽつんと呟いた。
「そ、そんなことないだろ……保育園の運動会は会社休んで来てくれたんだろ?」
ついこの間あった運動会には祐貴と二人揃って行ったはずだ。休みの日にやってくれない、と祐貴がぼやいていた。
水道の蛇口を止めて、史也は振り返った。
「お母さんにとって、仕事と僕を比べるのは、僕がお父さんとお母さんを比べるようなものだって言うんだ。お父さんとお母さんどっちが好きって訊かれたら、
僕はどっちも好きって答えるしかなくて、でしょ、ってお母さんは言うんだ。でも……」
史也は不服そうに口を尖らせて顔を伏せた。
「そうじゃないのか? 」
「正直に答えたらいけないって思うから、いつも同じって答える。でも、ちゃんと順番はあるよ。お母さんだってちゃんと順番があって、一番が仕事で二番がお
父さんで、三番目が僕なんだ」
史也はつまらなそうに答える。
「そんなことないよ」
可南子が史也をないがしろにしていることはないと俊介は思う。生まれた当時、仕事に復帰するまでは片時も離れないほど、可愛がっていた。
「だって……」
史也は諦めたような声を出す。
「お前のとうちゃんは? 」
「え?」
「お前のとうちゃんにも順番があるのかな」
一番近くで見ている史也にはどう映っているのだろう、と俊介は思った。
「お父さんは……分かんない」
史也が力なく答える。
その答えに俊介は気が抜けた。自分を、と思った自分が浅ましく思えた。もう恋人として別れて何年経つのか。お互い家庭も持っていて、可愛い子供もいる。
「お父さんの一番好きな人は遠くにいる気がする」
史也が思い浮かべるように続けた言葉は意外なことだった。遠くにいる人、といって思い浮かぶ影さえない。
「遠く?」
「お父さん、夜散歩するの好きなんだ。お父さんが行く時、僕も付いていくんだけど、公園でぼんやり空を見上げてて……真っ暗で月しか浮かんでいないのに、
ずっと空を眺めてるんだ。声かけるまで、ずっと。そんなとき、お父さんの一番好きな人って空の向こうにいるのかな、って思う。訊いたことはないけど……」
大輔パパは知ってる?、そう史也に訊かれて、俊介は答えられなかった。
お前の父ちゃんが一番大事なのはきっとお前だよ、そう俊介が史也に言おうとした時、突然玄関のドアが勢いよく開いて、バタバタと走ってくる足音が聞こえ
た。その足音は居間の入り口で止まった。
「父ちゃん、バトンタッチだ」
ぜいぜいと荒い息を吐き居間の入り口を塞ぐように大輔が立っていた。
「早く、帰れよ。あとは俺がいるんだから」
大輔は俊介に近付くと、腕を持ち上げて立たせようとした。
「なんだよ。お前」
俊介は怪訝な表情を大輔に向けると、大輔は早く帰れとばかりに睨みつけてくる。
「でも、今日もお父さん帰ってこないよ」
史也が大輔に向かって言った。
――――は?
史也の言葉の意味が俊介には分からなかった。
「そんなの分かってるよ。いない間こそちゃんと守ってやんなきゃ。祐貴が帰ってきたら、いっぱいご褒美もらうからいいんだ」
――――祐貴? ご褒美?
「お前、何言ってんの? なんだよご褒美って」
「ひ・み・つー」
一言づつ区切って、いやみったらしげに言うと、大輔は顔を背けた。
「何? 史也知ってるか? 」
憎らしい自分の子は置いておいて、俊介は正面にいる史也へ顔を向けた。
「え……あ」
「史也、言うんじゃないぞ」
「あ……大輔がそう言ってる」
「俺は、祐貴から直々、史也を守ってやってくれって言われているんだからな。父ちゃんはさっさと帰れよ」
あくまでも、引かない様子で大輔は睨みつけてくる。
「なんで、お前が祐貴って呼び捨てにするんだよ」
俊介はため息がでた。
史也が言うように、史也パパとかおじさんとか祐貴に対する相応しい呼び名はいくらでもあるだろう。
「いいんだよ、俺たちは」
たち、ってなんだ?なんで同列に並べられるんだ。
「大輔、来てくれて嬉しいけど、今日は大丈夫だよ。大輔パパもいてくれるし。お父さんには、毎日大輔が来てくれたって言っとくから」
史也の言葉に大輔の表情はふっと緩んで史也の方の方へ視線を向けた。
「ね」
史也が念を押すように大輔へ声をかける。
「ほんとに、大丈夫か? 」
「うん」
「でも、おばさんにばれるじゃん」
「帰ってきたら、ついさっきまで居てくれたって言う。大輔パパにお前は早く帰れって怒られて仕方なく帰ったって」
「そっか……その方がお前もうれしいんだよな」
「うん」
頷いた史也に大輔も満足そうに笑いながら頷いた。
「じゃあ、父ちゃん、後は頼んだ。史也は慣れてないんだから、優しくしてやってくれよ」
はあ? 慣れてない? 優しくって何のことだ?
疑問が頭に浮かんでも、何をどう聞いていいのか断片すぎてよく分からない。訊いたところで答えてくれるかも疑問だった。
「史也も、なんかあったら電話して来いよ。直ぐに来てやるから」
「うん」
「じゃあな。また明日」
「うん」
最後は子供らしい言葉を残して大輔はまたばたばたと帰って行った。
「なんだ、あれ?」
もう見えない背中を見送りながら、俊介は呟いた。
「大輔はお父さんが好きなんだ」
内緒だよ、と史也は人差し指を口にあてる。
――――好き?
思考がどこかへ飛んでいってしまったように、俊介はしばらく声さえ出せなかった。
「……じゃあ、なんだよ。ご褒美って」
聞くのが怖いと思いながらも、このまま放っておくことも怖い気がする。
「大輔、お父さんにぎゅってしてもらうのが好きなんだ」
史也が手を前で合わせて抱き込むようにする。
なんだ、まだまだ子供だと俊介は胸を撫で下ろした。
「キスは18になるまでダメだって言われたってぼやいてた」
事も無げに言う史也に、今度は脱力して椅子から落ちそうになった。
「あいつ、毎日ここに来てそんなことしてんの? 」
史也が生まれてから、祐貴が早く帰るようになったのは知っていた。自宅へ持ち込める仕事は持って帰っているらしい。
ただ、大輔がここに入り浸りなのは知らなかった。
「うん。うちの父ちゃんはけとばしはしても抱きしめてくれないって、同情をさそってたりしてる」
――――あいつ!
ぶん殴ってやりたくても、当の本人はもういない。
「でも、大輔はお父さんのことだけじゃなくて、本当に僕のことも気にしてくれているんだ。だから、内緒にしてね」
言いながら史也がにこっと笑う。その笑顔に俊介はどきっとした。
どうしても重ねてしまう笑顔がある。
「ああ、分かった」
ふっと俊介の頭に大輔が残していった言葉の断片が浮かんだ。
お前もうれしい? 慣れてない? 優しくしてやってくれ? 考えれば恐ろしい言葉だ。
史也も? と思いながら俊介は詮索することは止めた。
「お前の父ちゃんが帰ってきたら、みんなでどこかへ遊びに行こうか」
どうせなら楽しいことを考えた方がいい。
「うんっ」
「どこがいい? 」
「動物園。立つパンダが見たい」
「じゃあ、そうしよう」
その前に、うちに帰ったら、生意気なガキを懲らしめてやる。
大輔の顔が俊介の頭を過ぎっていった。
Fin.
あとがきそのまま妄想にしてしまいました。
それなりに幸せなんじゃないか、と思ったりします。