「面会時間は七時までですので、よろしくお願いします」
祐貴が面会簿に名前を書いていると、受付の人がバッチを祐貴の目の前に置きながら、口にした。
「分かりました」
規則に反する理由はないから大人しく返事をするしかない。時間はあと三十分足らずだった。
会社の帰りに病院に寄れば、どうしても似たような時間になる。かといって出直して週末という気にもなれなかった。何も連絡をしてこない可南子のことが祐貴
は心配だった。
駅前の花屋で小さなアレンジメントを買ってきた。可南子の好きなガーベラを中心に優しい色でまとめてもらった。
少しでも、気持ちが休まれば良い、片手に抱えた花を見て、祐貴はそう思った。
初めての病院はよく分からなくて、案内板をたよりに目的の病室まで行くしかない。エレベータに乗って三階の東棟。それは可南子の同期である寺島から聞いて
きた。心配では
あっても、会うことが少し怖い気もする。昨日も病院へ行ったという寺島は、可南子はもう落ち着いているようだ、と言っていた。
それならば、なぜ連絡をくれないのだろう。メールの返信もくれなかったのだろう。
ひとつづつ、病室を確かめながらいくと、可南子の名前を見つけた。二人分のプレートがあるその部屋には、可南子の名前しか入っていなかった。
一瞬ためらって、ゆっくり息を吐くと、祐貴はドアをノックした。
「どうぞ」
可南子の声がドアの向こうから聞こえた。まだ、疑っていた部分はあった。鹿島に聞いて、俊介にも聞いて、寺島にも聞いて。それでも自分の目で見ていないこ
とに現実感はなかった。けれど、病室の中から聞こえた可南子の声に、可南子のお腹の子は本当にいなくなってしまったのだと、今まで信じきれずにいたものが
突然現実に変わった。胸の中のもやもやしたものが、黒いおもりになって、身体の奥へ沈んでいく。
ゆっくりドアを開けると、可南子が身体を起こしたところだった。
穏やかだった表情は突然驚きに変わって、顔を歪ませた。
「びっくりしたよ。知らせてくれれば良かったのに」
祐貴は身体をすべりこませると、ドアを閉めた。脇にあるテーブルが目に入って、買ってきたアレンジを上に置いた。
「気に入ってくれると、良いけど」
言いながら祐貴が可南子へ視線を向けると、可南子は眉根をよせ切なそうな瞳を見せる。
「何しに来たの? 」
声は今まで聞いたこともないような冷たさを持っていた。
「何って、可南子が心配で……」
「もう、心配なんかしてもらうことはないわ。だから、帰ってよ」
祐貴を睨みつけ、包帯を巻かれている可南子の手は上掛けを握りしめていた。
「可南子? 」
冷たい声も厳しい表情も、その理由が祐貴には分からなかった。事故の、その場にいなかったといっても、それは仕方ないことだと分かっているだろう。今まで
来られなかった理由も知っているはずだ。
「もう、いなくなっちゃったんだから。あなたが私のことなんて心配することなんてない、だから帰ってよ」
冷たく突き放すように可南子が言う。その言葉は拒絶としかとれなかった。
どうしたらいいのか分からないまま、祐貴は立ち尽くしていた。帰れ、といわれてすごすご帰る気にもなれなかった。落ち着いているようだ、と寺沢は言ってい
た
けれど、まだ感情に波があるのかもしれない。自分の名前を呼んでいたという可南子をこのままにして帰れなかった。
「……早く、帰ってってば」
歪んだ顔の瞳は潤んできて、あふれたものが頬を伝い、上掛けの上に落ちる。それは、広がってしみを作った。
分かってはいても、許せないこともあるかもしれない。そう祐貴は思った。
可南子が頼れるのは自分しかいなかったはずだ。なにもこんな時にと思っても、マイナスの感情を向ける先が、その場にいなかった祐貴へ向いても仕方がないこ
とかもしれない。
祐貴は可南子に近付くと、腕を伸ばして可南子の頭を抱きこんだ。
「可南子」
「だから、帰ってって……帰ってって言ってるのに……」
可南子は祐貴の上着を掴んで握り締めた。
「ごめん。辛いときにいてやれなくて」
祐貴は可南子の頭をそっと撫でた。辛くなかったわけはない。その場に自分はいてやれなかった。
「馬鹿よ。ほんとに馬鹿なんだから、祐貴は。会いに行く相手を間違ってるじゃない」
祐貴の上着を握り締めながら、上掛けのしみは広がっていく。
可南子の拒絶の意味が祐貴は少し分かりかけた気がした。
「僕は……誰に会いにいけばいい?」
それは愚問だったかもしれない。けれど、自分の推測があっているかどうか自信は無かった。
「祐貴よりもっと大馬鹿なやつがいるじゃない。恋人取られても、何にもできないで、茫然自失になっちゃって、ぼんやりして味噌汁に醤油なんかかけてたわ
よ。乗るエレベータ間違えてたり、入り口の段差でこけてたり、間違えて女子用トイレに入ろうとしたり……」
「俊介が? 」
意外だった。
「よく知ってるね」
階が違うから、それほど情報が入ってくるわけじゃないだろう。それに、可南子は席に座っているのさえ辛そうだったから、噂話に加わっているとは思えなかっ
た。
「あいつ有名人だから、ロッカー室にいると、嫌でも話が聞こえてくるのよ」
横になっていれば少しは楽だと可南子は言っていた。女子用のロッカーは畳敷きになっているというから、休むのには良かったのかもしれない。
「何があったんだろうって、誰かに振られたんじゃないかって、今が狙い目かも、って騒がれていたわ」
俊介がもてるという話は鹿島たちからも聞いた。だいたい、今に始まったことじゃない。
「早くしないと、誰かに取られちゃうかもしれない、よ」
可南子の最後の言葉は力が無かった。
「……もう、遅かったみたいだよ」
弾けるように可南子が顔を上げた。潤んだ瞳は涙を溜め込んでいた。
「うそ……」
零れそうになった涙を祐貴は指ですくいあげた。
「俊介とは、お互い納得して別れてきた。前に約束したよね。俊介と別れるときは可南子のところに帰ってくるって」
「でも、だって、そんなのうそよ。あいつがそんなに簡単に祐貴から離れるわけないじゃない」
可南子は何度もかぶりを振った。
「美樹とよりを戻したんだよ俊介は。それなら、信じられる? 」
「だって、あいつはっ」
可南子は言葉を投げ捨てるように言った。
「僕達は友達でいることを選んだ。そうすれば、もう別れることなんてないだろ」
「……でも、それじゃ」
緩んだ声音とともに、可南子の上着を握り締めていた手も緩んだ。
「可南子は俊介と僕が友達でいることを許せない? 」
え、と小さく声をもらすと、瞳をまっすぐ祐貴へ向け、少しの間可南子は固まったように動かなかった。潤んだ瞳だけが小さく揺れていた。
「私には何も言う権利なんてない。祐貴がそれでいいなら、私は何も言えないよ。でも、祐貴はそれでいいの? 」
それでいいの? 潤んだ瞳も問いかけてくる。
「僕は、やっぱり、可南子が心配だから」
それは事実だ。順番をつければ一番ではないかもしれない。それでも、心配する気持ちはある。
眉根をよせ信じられない、という顔で可南子は少しの間祐貴を見つめていた。そして、その表情がふっと緩んだ。
「祐貴……ごめんね」
今度は悲しそうに視線を背けた。
「なんで、可南子が謝るの? 可南子の小さな命がなくなってしまったのは残念だけど、僕達の関係はこれが一番良かったんだよ」
自分とではないことが少し淋しいけれど、美樹となら俊介はきっと幸せなれる。
「それとも、僕なんかもう相手にできない? 僕が戻ってきたら可南子は思いっきり振ってやるって言ってたよね」
それは、ほんの少し前のことなのに、昔のように感じた。
「そんなこと言わないわ。祐貴の聞き間違いよ」
「え……じゃあ、なんて言った? 」
可南子は腕を祐貴の背中へ回した。
「もう離さない、って言ったのよ」
「良かった……」
祐貴は呟いた。
「心の中を全部可南子にあげることはできないけど、それでも良い? 」
心は自分の思い通りにはならない。俊介への思いを消すことはできない。
すぐに可南子の返事は返ってこなかった。返事を催促することも、うやむやにすることも祐貴はしなくなかった。目の前の華奢な身体は迷っているように見えた
から、祐貴は可南子の身体をそっと包むように腕を回すと、可南子が答えてくれるのをただ待っていた。
「……私といる時は私のことだけ考えてくれる? 」
それは最低限の可南子の譲歩だったのだろう、と思う。
「うん……可南子が思っているより僕は可南子のことを大切に思っているよ、きっと」
俊介と別れる決心までできたのは、可南子だったからだろう。結局、可南子も自分の中から消すことのできない存在だったのだと思う。
祐貴の胸へ額を押しつけると、可南子は小さく頷いた。
「ん……」
ふと見た時間は七時を過ぎていた。
「少し休むといいよ」
祐貴がそう言うと、可南子は頷き布団の中へ身体を滑り込ませた。
「もう、帰るの? 」
可南子は淋しそうな表情を浮かべた。
祐貴はかぶりを振って、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。そっと可南子の手が伸びてきて、祐貴の手を取ると両手で包み込み、ほっとしたような表情を見せた。
「身体は大丈夫?」
「ん。明日か明後日には退院できるみたい。今週いっぱい休んで、来週には出社できる」
「無理することないよ」
「ううん。みんなに迷惑かけちゃって、申し訳なくて。祐貴にも。仕事だけじゃなくて……何か言われた? ごめんね。会社行ったらすぐ訂正するから」
「何を?」
「何を……って」
可南子が戸惑った顔をする。
「もういいよ。済んだことだし」
俊介は分かってくれた。だから祐貴はもうそれで良かった。所詮人の噂など消すことはできないし、時間が解決してくれるだろう。
「でも」
「どうせ、結婚するんだから、いいよ。それより、可南子の身体の方が大切だよ」
「……身体はね、きれいに流れちゃった、から……大丈夫だって……」
可南子の瞳から収まっていたはずの涙が、滲んできた。溢れてくる涙を零れ落ちる前に可南子は指で拭った。涙を含んだ手に巻かれた包帯の白さを祐貴は痛々し
く感じた。
「望んでなんかいない、って言っちゃったから、罰があたったのかな。ううん。祐貴を自分のものにする道具みたに使っっちゃったから、きっとあの子は怒っ
ちゃったのかもしれない」
片方の手で祐貴の手を握りながら、可南子は遠くを見るように呟く。
「……望んでいないと言いながらも、可南子は大事にしてたよね? 」
望まないなら、流れてしまっても良かっただろう。気遣う必要はないはずだ。
「この子がいれば祐貴が自分のものになると思ったから」
それもあるのかもしれない。けれど。
「でも、大事にしてたよね。ヒールを低くしたのも、靴下をはいていたのもその子の為だよね。気持ち悪いって言いながら、口に入れられるときは何か食べるよ
うにしていたし、身体だって辛いのに、ずっと我慢していたよね」
仕事に支障をきたすほど体調は悪かったのだから、気持ちがなければ直ぐに処置してしまっただろう。それが可南子にはできなかった。
可南子は祐貴から視線を伏せると、涙を拭った手を自分下腹部へ持っていき、そっと触れた。
「不思議なの。外から見たら全然変わらないのに、あの子がいなくなった途端、苦しいくらいもやもやした気持ちがなくなって、それまで辛かったのが嘘みたい
で……あの子はちゃんとここにいて、育っていたんだな、ってそう思ったら、すごく悲しくなって……」
可南子は祐貴の手を離すと、両手を握り締め口元へあてた。
涙とともに、小さな嗚咽を可南子がもらす。
「泣けばいいよ」
祐貴は可南子の頭にそっと触れた。
身体を丸めるようにして、可南子は身体を震わせた。
「僕達は覚えていよう」
祐貴が声をかけると、可南子は小さく頷いた。
小さくて、まだ男の子か女の子かも分からなかった。それでも、確かに息づいていたのだから。
エレベータのドアが開くと、ちょうどその前を俊介が歩いていた。祐貴が声をかけたわけでもないのに、俊介は祐貴の方を向き、少し驚いた顔をすると、そのま
ま祐貴を待つように立ち止まった。
「珍しいな」
「ほんとだね」
時間も合わせず会社の帰りに会ったことは今まで無かった。
朝、時間を合わせなくなった。週末も会わなくなった。たまに飲みに行っても、そのまま家へ帰った。それでも、昼は毎日のように顔を合わせていた。それが自
然にできた友達のラインだった。
「あいつ、どう? 」
俊介は可南子を絶対名前では呼ばなかった。
「うん。もう身体は大丈夫。ばりばり働いてるよ。みんなに迷惑かけちゃったからって」
「そうか」
気にかけてくれているのは感じる。可南子が退院して職場へ戻ってきたのは一週間ほど前だった。
もうすぐクリスマスがやってくるから、冷たい風が巻く街はネオンに彩られていた。
俊介と並んで歩きながら、祐貴はビルの合間にきれいに浮かぶ三日月が目に入った。
祐貴の足が止まった。それに気づいた俊介も足を止める。
「祐貴? 」
「ねえ、俊介。月のカタチは変わっていくように見えるけど、本当のカタチは変わらないんだよ。知ってた? 」
まるで子供のなぞなぞのようなことだけれど、祐貴にとってそれは今の自分に重なった。
溢れるほどの思いを全て見せることはできない。少しだけ、許されたところだけ光をあてることができる。
見せることができなくて隠された部分にも、ぎゅっと同じ思いは詰まっている。
それは、きっと、これからも変わらない。存在する限り、ずっと。
俊介は月を見上げ、しばらく眺めていた。
話し声が横を通りすぎていく。それは現実なのに、別の世界のように感じた。雑踏に取り残されて、月と俊介と自分が浮かんでいるに祐貴は感じた。
ゆっくりと俊介が祐貴へ振り返った。口元が緩み、優しい瞳を祐貴へ向ける。
「そんなこと、分かってたよ」
分かってるさ。祐貴、お前の気持ちは――――祐貴はそう言われた気がした。
はっきりと言葉で自分の気持ちを伝えることはもうできない。けれど、言葉ですら伝えきれないと思ったことを、今、伝えられたような気がした。
「良かった」
一番分かって欲しいことを、分かってもらいたい人に分かってもらえた。だから。
ずっと心だけは繋がっていける。これからも、ずっと。
――――そうだよね、俊介
Fin.
最後までお付き合いありがとうございました。
純粋なハッピィエンドではないのですが、こういうのもいいんじゃないかと思ったりします。
思いがけずボーイズらしい終わり方になって良かった、と思いました。
最初は、結婚、妊娠、出産まで書こうと思っていたので(笑 それじゃ、ボーイズじゃないって)、やっぱ、それはないよなあ、と。
その先は。
俊介のところに男の子で祐貴のところに女の子、家族ぐるみの幼馴染で、とーぜん、そのままゴールインなんて、親の夢を子供で、なんてベタな展開を思った
り。
両方男の子だったら、俊介jrは祐貴に、祐貴jrは俊介に、懐いて憧れて、それなりの歳になったら、子供の方からモーションかけたりして。
中学くらいなら許容範囲かな。積極的な俊介jrが祐貴jrをそそのかして(?)、家を交換したりして「今日一日この家の子になります」なんて。
俊介は祐貴jrを猫かわいがり、祐貴は俊介jrに圧倒されながらも、可愛くてしょうがないってな感じかな。
遺伝子はあなどれないと、両母親が複雑な心境で眺めてる、なんてのはギャグになりそう。
ドシリアスだったのに、最後の最後でギャグにしてどうする。
子供同士は親友でいて欲しい。なんとなく。
もし、気に入っていただけましたら嬉しいです。