朝の時間と昼の時間をずらす。
それだけで、祐貴は俊介と顔を合わせることが無くなった。もともと会いたいから時間を合わせていただけだ。
可南子は少し笑顔を見せるようになって、仕事も少しは進んでいるようだった。そのことに、少しだけ祐貴の心が軽くなる。自分がしたことは無駄だったわけ
じゃない、と思えた。
出張から帰ってきたら、可南子の両親に会いに行って、上司に報告して、自分の両親にも可南子を紹介しなければいけない。
小さな命は待ってはくれないから、早ければ早いほど良いだろう。
家庭を持つということを祐貴は考えたことは無かった。俊介と生きていくなら、必要がないものだった。
それが、今目の前にすとんと落ちてきた。
正直、祐貴に実感は無かった。ただ事務的にやらなければいけないことを考えていた。心の扉を開けてしまったら、俊介への思いが溢れてきそうで、その扉へ触
れることさえ怖かった。表面上は笑顔で可南子へ接していても、それを本当の自分は一歩離れたところから見ている気がした。
気持ちが伴っていない、と分かってはいてもどうすることもできなかった。
時間が忘れさせてくれる。一度はそんなことはないと分かったことに、また縋っている自分がいた。
海外出張は忙しさに深く考えることを避けることができ、仕事のためとは言え日常の世界から離れられたことに心は思ったほど締め付けられなかった。
オフィスに入った時可南子の席へ視線を向けるのは日課のようになっていたから、久しぶりに入ったオフィスでも自然と視線は可南子の席へ向いた。
昨日、出張から帰り可南子へメールを送ったのに今朝になっても返信は無かった。もう一度送ろうと思って打ち始めたけれど、それはやめた。会社へ行けば会え
る。携帯の文字よりも、顔を見た方が安心する。身体の調子がよくなくて、可南子は携帯を見ていないのかもしれない。そう思った。
可南子の席は、朝空いていることが多く。今日もそうだった。朝が一番辛いと言っていたから、仕方ないのだろう。個人差が大きいことらしいから、本人にしか
分からない。身体が辛いのだろう。それは、どうしようもできないことだ。
祐貴は自分の席へ行くと、パソコンを立ち上げた。メールが溜まっているはずだった。まず、その処理からしなければいけない。
「祐貴」
席についた途端、突然、肩をぽんと叩かれて祐貴が振り返ると、鹿島が後ろに立っていた。
「あ、おはよう」
祐貴が答えると、鹿島は怪訝そうな顔をした。
「お前、暢気だな。まさか、聞いてないの?」
「え、何?」
祐貴に何も心当たりは無かった。昨日帰ってきてから、何も連絡らしきものはもらっていない。
「橋本から何も連絡ないの?」
「え?」
可南子からは何も聞いていない。メールにも返信は無かった。
「何か、あったのか?」
祐貴はおそるおそる口にした。
もしかしたら、子供のことが知られたのかも知れない。それで、何かあった?
「ほんとに知らないのか?」
「昨日帰ってきたばかりで、橋本にはまだ会ってないよ」
可南子の席へ視線を向けても、まだ席にはいない。
「……流産だってさ」
――――え?
祐貴は身体が固まった。
流産?
「なんで、そんなコト……」
守ろうとした命だった。俊介と別れてまで。
「真っ先に、お前の所へ連絡があったかと思ったのに、違ったんだ」
「僕のところに? なぜ?」
可南子が自分の名前を出すとは思えなかった。近くにいたのならともかく、遠く離れた外国では帰ってくることさえ容易じゃない。
「お前の名前呼びながら、半狂乱っていうの? 祐貴、助けてって。いつもの勝気な橋本とは別人で、見てられなかったよ。絶対相手はお前だって、あの時いた
やつはみんな思ったと思うよ」
祐貴、そう呼ぶ可南子の声が脳裏に浮かんだ。呼んでも来れないとそう分かっていても、可南子には自分しかいなかったのだ、そう思うとやり切れなくなる。
「何かあったのか? それとも、突然?」
普通に生活していて、そんな簡単に子供が流れることはないだろう。仕事が負担になっていたのだろうか。そう思いながら、祐貴は自分の考えを否定した。可南
子が抱えていたものはほとんど自分がやった。見直しと修正ぐらいのはずだ。
「ああ。出会いがしらに台車とぶつかって、向こうは長い会議用のテーブル運んでいたから前がよく見えなかったみたいだし、橋本も部屋を飛び出していったみ
たいだからよく見てなかったんだろう。お互いよけようとしたみたいだけど、テーブルがバランス崩して橋本の上に倒れてきた、って感じだったよ」
鹿島の言葉に祐貴は思わず眉を顰めた。身重じゃなかったとしても、怪我のひとつやふたつはしただろう。
「それ、いつの話?」
「一昨日、かな」
「今、可南子は?」
思わず名前で呼んでしまってから、祐貴は息を呑んだ。鹿島は一瞬はっとした表情をしたけれど、それはすぐに消えた。
「救急車で運ばれて、駅裏の総合病院に入院したらしいよ。寺沢が付いていったんだよ。同期だし。でも、かける言葉がなかったって、言ってたよ。まあ、そう
なんだろうけどな」
祐貴は無言で視線を落とした。
昨日の携帯に返信はなかった。携帯の着信を確認している余裕はないのかもしれない。けれど、帰ってくる日は知っているのだから、メールで何か残してもいい
はずだ。来て欲しいの言葉さえなかった。それとも、そこまで考えられないほど、混乱しているのか。
「見舞い行くんだろ?」
少しの沈黙の後、鹿島は祐貴に問いかけた。
「あ、うん。そのつもりだよ」
「じゃあ、お大事に」
鹿島はもう一度肩をたたくと、片手をあげ自分の席に戻って行った。
一人になると、祐貴の脳裏に俊介の顔が過ぎった。
守ろうと思っていたものは無くなってしまった。自分の思いのまま生きることが許される? 祐貴がそう思ったときに、祐貴、と呼ぶ可南子の声が聞こえたよう
な気がした。
思わず辺りを見回しても、誰もいなかった。席に座り既に仕事初めている人は何人かいる。けれど、誰も自分の方を見ていない。
可南子が今どんな気持ちでいるか、祐貴には分からなかった。処置しなきゃいけないと言いながら踏み切れなかった可南子の気持ちを、全て理解しているわけ
じゃない。誰も望まないと本人が言っていた存在ではあった。
守りたかった。そのために俊介と別れた。なのに、知らない間に、勝手に、消えてしまった。
それも、予想することもできない、ほんのわずかの間に。何もすることができずに。
自分はどうすればいいのだろう。
今更、俊介ところへ戻れない、そう思っても俊介の影が頭から消えない。
――――俊介、僕はどうすればいいのだろう
可南子を放っておくことはできない。何かにつけ気になるのは確かだ。
けれど、俊介と別れることまで決心したのは、守りたい命があったからだ。
それが無くなった今、自分は俊介を振り切ることができるのか、不安になった。
俊介へ対する気持ちは少しも変わっていない。
昼休み、祐貴は箸を手に持ったまま食は進まなかった。俊介のところへ戻りたいと思う自分がいる。けれど、俊介は許してくれるのかは分からない。加えて、可
南子のこと
が気になった。望まないと言いながらも、可南子がお腹を気遣っていたことを祐貴は知っている。何回も携帯を確認したけれど、着信は無かった。何もない
ことに返って不安募った。
がたっと隣の椅子が動いて、視線を向けると、そのまま祐貴は固まった。
「ここいい? 」
訊かれて、祐貴は小さく頷き、視線を目の前のトレーに戻した。心臓の鼓動が少しづつ早くなっていく。息苦しくさえ感じた。今までは、傍にいれば誰よりも安
心できた人なのに、今は身体全体が緊張してくる。
「世界の不幸を全部集めてきたって顔してるな」
声を聞いただけで、胸が熱くなる。
「……そんなこと……ないよ」
不幸なのは自分じゃない。お腹の子を失った可南子や散々我が侭に付き合わされたあげく裏切られた俊介に比べれば、自分のことなどちっぽけに思える。
「そんなに子供がいなくなったのが辛いのか? 」
「知ってたんだ……」
社内でおきた事故なら、噂も広まるだろう。ただ、怪我をしただけじゃない。興味津々な人達もいるだろう。
「鹿島が俺に探りを入れに来たんだよ。お前の子かどうか」
「……そうなんだ」
その時いた連中はみんなそう思ったとは言っても、憶測にすぎない。より確かな情報が手に入るのなら、それを求めたとしても不思議じゃない。少なくとも、俊
介は一番仲が良いと思われてはいただろう。
「自分の子じゃなかったんだろ? 」
思いがけない言葉に、祐貴が俊介へ視線を向けると、俊介は目を細めた。
「やっぱり、そうだったのか」
俊介は言葉を繋げると、ため息をついた。
「なんで……それを」
誰の子供かなんて、可南子と自分しか知らない。しかも、鹿島の話だと、祐貴の子供だと、周りにいた人間はみんな思っただろう、と言っていた。
「もし、あの時、お前があいつと何かあったとしても、分かるのが早すぎるよ。まあ、お前が嵌められたのかとも思ったんだけど……」
俊介は言葉を切った。
そして、もうひとつため息をついた。
「あいつさ、俺の目を見ないんだよね。自分の勝ちだと、睨みつけてくるんじゃないかと思ったのに。見たくもないのに何回か会っちゃったことがあってさ。切
なそうな顔して、逃げるように踵を返していくんだ。絶対変だろ。そんなやつじゃないよな」
確かに勝気で、物怖じしない。だから誤解されることもあるけれど、何事にも真っ向からぶつかっていく。それだけの自信がいつも可南子にはあった。
「……人を嵌めるようなやつじゃないよ」
「結局、お前はあいつが気になるんだよな」
間髪を入れず言われて、祐貴は答えられなかった。
気にはなる。確かにそうだ。それを言葉にしてしまうことを祐貴は躊躇った。
今、ここで、そうだと答えたら、俊介との別れが決定的になるような気がした。もう別れたはずなのに、まだ気持ちはある。それを断ち切れるものが、今の祐貴
には無かった。
「そうなんだろ? 」
重ねて訊かれて、観念するように祐貴は頷いた。
「俺はさ、あいつの話聞いた時、祐貴が帰ってくるんじゃないかって、一瞬喜んだんだ。最低だよな。お前に見限られて当たり前だよ」
「そんなことないよ……」
祐貴はかぶりを振った。自分も思った。俊介のところへ帰れる。確かにそう思った一瞬がある。
「でも、気になるんだろ? 」
「……うん」
きっと、これからも気になるだろう。辛い思いをしていると思えば手を出したくなるだろう。
「この間、美樹に会ったんだ」
会ったんだ――――その言葉はすんなりと祐貴の胸に落ちてきた。毎週、美樹はこの近くまで来ていたのだから、会っても不思議じゃない。
「俺はさ、あいつはエスパーじゃないかって、その時ホントに思ったよ。俺が辛いとき、あいつはいつも傍にいてくれて。あいつには俺の不幸を察知するセン
サーでもあるんじゃないか、って」
雫がひとつ、トレーの上で弾けた。
「お前、今のは笑うところだぞ」
俊介が文句を言う。
「そっか」
言いながら、祐貴はきゅっと目蓋を閉じた。
「お前が泣くことないだろ。泣きたいのは俺の方だ」
「そうだね」
言いながら、涙がもう一粒落ちる。
辛い思いをさせているのは、自分だった。幸せになって欲しいと、いつも笑っていて欲しいと思うのに、辛い思いばかりをさせてしまう。
「……俺は、もう美樹を裏切れない」
「うん」
祐貴の心の中に雫がひとつ落ちてきて弾けた。
最初に望んだことだった。俊介は美樹と共にいる方が幸せだと思っていた。心の奥底をほじくりだせば、今もきっとそう思っている。
「俺たちはさ、だから結局男同士だったのかな」
「え?」
視線を向けた祐貴に、俊介が口元を緩めた。
「別れなんてない。そういう付き合い方があるだろ」
男同士だから、互いに恋人ができても、結婚しても付き合っていける。
「あ……」
最初はそうだった。
「ずっと、傍にいられるだろ?」
「でも、美樹さんや可南子が……」
既に関係を知ってる美樹や可南子がそれを許してくれるかは分からない。
「あいつは、許してくれそうな気がする。美樹はそれ、俺に惚れてるから」
「……大した自信だね」
でも、確かにそうなのだろう。美樹ならきっと許してくれる。恨まれても仕方ないのに、彼女はいつも優しかった。
「お前だって、俺から離れられないだろ?」
「うん」
躊躇いもなく言葉がでてきた。そして、言葉と共に、雫がひとつ弾ける。
「お前、俺の冗談って絶対に分かってくれないよな」
困ったような顔をして、俊介は指で涙を拭ってくれた。
「だって、冗談じゃないよ」
からかった口調で言っていても、心を揺さぶる。心の奥底をついてくる。
「話がついたところで、早く食えよ。俺もあんまりさぼれないから」
俊介がほとんど手をつけていないトレーを指差す。手ぶらということは、俊介はもう済ませたのだろう。
付き合ってくれなくてもいいよ、という言葉は心の奥にしまいこんだ。今は隣にいて欲しかった。
「ひとつ訊いていい? 」
俊介はぽつりと言った。
「うん」
もう何も隠すことは無かった。
「お前、あの時あいつ抱いたの? 」
祐貴は胸がきゅっと締め付けられた。
深く息を吐き顔をあげると、祐貴は俊介をまっすぐに見つめた。
「抱いてない」
これだけは信じて欲しかった。
「良かった」
俊介の緊張していた顔がふっと緩んだ。
「やっぱ、お前はお前だったんだな」
天を仰ぐように、俊介は視線を天井へ向けた。
良かった、そう祐貴も思った。あの時抱かなかったのは間違いじゃなかった。
半分も手をつけずに、祐貴は席を立った。胸が一杯でろくに喉を通らなかった。俊介が隣にいる。それだけで、満たされた。
食堂を出ると、俊介は祐貴の方を見もせず非常階段のドアを開け入っていった。閉まりかける扉に手をかけ、祐貴も俊介の後ろへ続いた。
静かに歩いても、足音が響く。
ここで可南子に見られたんだ、そう思ったところで俊介が止まった。そして、ゆっくりと振り返った。
「最後にお前を抱かせてくれる? 」
ここで?
疑問が祐貴の言葉を遅らせた。
ふっと笑うと俊介は祐貴の返事を待たずに、祐貴を腕の中に抱き込んだ。
「嫌だとは言わせない」
首筋に俊介の息を感じた。
「……言わないよ」
一番安心する腕の中を、誰が拒否できるだろう。厚くて硬い胸板に額をあわせると、それだけで温かいものが胸に溢れてくる。
祐貴も俊介の背中へ腕を回した。
恋人として触れ合うのは、これが最後。
初めて俊介と言葉を交わしたときが、ふと脳裏に浮かんだ。
『バカじゃねえ、お前』
そう言われた時は、こんな関係になるとは思っていなかった。呆れてる、そう思った。
それから走馬灯のように、時間が流れていく。その時その時は真剣だったのに、今に思えばなんてつまらないことを考えていたんだろう、と思った。でも、それ
は今だから言えることだ。
「お前、食べてすぐだから眠たくなっただろ」
ふいに、顎に手をかけられて、上を向かされた。
「な?」
俊介は確認するように続けた。
「俊介……」
言葉の意味を半分理解しながら、望む自分と戸惑う自分がいた。
「そうだろ? 寝ちゃえよ。目、閉じたらきっと気持ちよくなるぜ」
催促する言葉に、祐貴は小さく頷くと目を閉じた。
腕の中で目を閉じれば、その先は決まっていて、柔らかく包み込んでくる唇に、全てを預けた。胸を一杯に満たしてなお溢れてくるものは、零れて頬を伝った。
――――これが最後
恋人の時間はもうお終い。
だけど、新しい時間が始まる。
別れなんてない。
これからは、ずっと傍にいられる。