ひき肉と卵と玉ねぎとパン粉と、必要なものをかごに入れながら、祐貴はため息をついた。
上司には次の出張から帰ってきてたら言うと可南子には言った。けれど、俊介には早く言った方が良いだろうと思っていた。
どうやって切り出そうか。可南子のことをどう説明しようか。そう考えながら、祐貴の頭の中は答えがでずに空回りしていた。
俊介の顔を見たら話すことができるだろうか、そんな不安さえ感じる。
別れを切り出すことは初めてじゃない。けれど、あの時は先があった。だから、躊躇いながらも口にできた。
けれど、今度は――――終わりにしなきゃいけない。もう、会えない。もう、身体をかさねることもできない。
――――後悔してる?
自分に問いかけた。
後悔してるよ。そう躊躇いもなく答える自分がいる。
けれど。
何を選んでも後悔する。
命が無くなってしまうことも。
生まれてくる命を見て見ぬふりをすることも。
選ぶことができなければ、どうすれば良い?
一番弱いのはまだ見ぬ命で、一番甘えられるのは俊介だから。一番弱いものを守ることを、一番甘えられる人に甘えることを選ぶことが、一番後悔しないんじゃ
ないかと思った。それしか考えられなかった。
俊介に早く会いたい、でも、このまま会わずにいれば別れなくても済む。
スーパーの中を歩く祐貴の歩調は自然と遅くなった。時間がこのまま止まってしまえばいいと思う。
トマトを手に取っていると、ポケットの携帯が震えた。トマトを棚に戻し、携帯に手をかけながら相手は俊介だろう、と祐貴は思った。
『今、どこにいる?』
何でもない言葉なのに、それだけで胸が締め付けられる。
もう、こんな風にメールをくれることもなくなる。
『今、店だよ。何か欲しいものある?』
今日が最後だから、だから、心残りは無いようにしたい。
『買い物なんていいから、早く来い。』
読んでいる時間も打っている時間も感じない速さで返事が返ってくる。
『分かった』
最後くらい、俊介に従おうと、一度置いたトマトをかごに入れると、祐貴はレジへ向かった。
流しの蛇口を捻ると、水が勢いよく飛び出してきて、皿に弾けた。皿を汚していたソースが水に洗い流されていく。
ほんと草鞋みたいだな、と俊介は笑いながら、あっと言う間に大きなハンバーグを口の中へ収めていった。
初め、これ昼メシなの? と少し不満げに俊介は言った。きっと、昼は別なものでも買ってくると思ったのだろう。
早く来いって言われたから、これしか買ってこなかったと祐貴が言うと、じゃあ久しぶりに夜は外へ食べに行こうと俊介は笑った。
俊介が笑った。だから、祐貴も笑顔を返した。俊介が楽しいのなら、嬉しいのなら、自分も楽しいし、嬉しい。
俊介が悲しむことをしたくはない。それは正直な気持ちだった。
「何してんの?」
俊介が後ろから覗きこむ。
「え、後片付け」
「残念ながら、うちのは自動食器洗い機じゃないんだよ」
俊介が蛇口を捻って水を止めた。
途端に水は勢いを失って、最後に雫がひとつ、ふたつ落ちる。
「ごめん、ぼっとしてた」
食事が終わって、片付けが終わったら、言いたくないことを口に出さなくちゃいけない。祐貴はそれを頭のどこかで嫌がっていた。
「いいよ。後で俺がやるから。お前、疲れてるんだろ?」
肩を抱きながらベッドまで連れていってくれて、ベッドの縁に座らせてくれると俊介は自分も隣に腰掛けた。
「本気で、寝ていいよ」
前髪をかきあげるように俊介は頭に触れた。
徹夜明けで休みもせず出社していたのを知っているから、疲れていると思ってくれているのだろう。
本当は違う。
身体も疲れているのかもしれない。ろくに休んでいないのは確かだ。
けれど、心を占めるのは別のことだった。
「俊介」
目の前にある肩へ頭を乗せた。少しでも触れていたかった。
「ん?」
頭上から声が聞こえる。
「別れよう」
言いながら、ずきっと胸が痛む。その痛みは全身へ広がっていき、ぎゅっと、内臓が全部絞られていく感じがした。
俊介の肩はぴくっと震え、一瞬の沈黙があった。
「……何言ってんの? またあいつが何か言ってきたのか?」
問いかけてくる俊介の声はいつもと変わらなかった。
祐貴はかぶりを振った。言ったのは自分だ。
「じゃあ、何があったんだよ」
怪訝そうな声からは少し苛立ちを感じた。
理由も聞かず、俊介が納得してくれるとは思わなかった。そして、祐貴は自分も俊介に嘘をつけないのは分かっていた。
「可南子と結婚しようと思う」
自分で言葉に出しながら、祐貴は身体の血がすっと抜けていく感じがした。
弾けるように俊介の身体が離れると、突然両肩を掴まれ、祐貴は俊介の方を向かされた。
「お前、本気で言ってんの?」
俊介が怪訝そうな顔をして祐貴の顔を覗き込む。
「……本気だよ」
冗談でそんなことは言えない。
「なんでだよ。あいつとは決着ついたって言っただろ。また、ばらすっていうなら、ばらせばいい」
俊介のきれいな鳶色の瞳に自分が写っていた。
「可南子、妊娠してるんだ」
どうせ分かってしまうことだ。それなら、自分の口から言った方が良い。
俊介の瞳がみるみるうちに大きく見開かれて、信じられないものを見るように祐貴を見る。
「お前、あいつ抱いたの?」
ちが……、と口の中で呟きながら、祐貴は声に出せなかった。
父親になると言ったのは自分なのに、今、ここで俊介の言葉を否定してしまったら、全てを否定しまうように思えた。俊介に裏切ったと思って欲しくはない。け
れど、結局裏切ったことに変わりはない。自分が選んだのは可南子だ。
「……お前が傷ついたって顔するなよ」
俊介が眉根を寄せ、顔を歪めた。
返す言葉がなくて、祐貴は視線を伏せた。俊介の視線に向かいあうことが辛かった。
「お前、仙台行くとき、もう我が侭は言わないって言ったんじゃないのか? もうどこにも行かない。傍に置いてくれって言ったのはついこの間だっただろ?
」
続けた俊介の言葉にも祐貴は答えられなかった。その時は確かにそう思っていた。
「なのに、お前はあいつ抱いてたの? 」
「ごめん、俊介……」
いい訳はできない。いい訳をしちゃいけない。自分はそういう道を選んだ。
「ちゃんと。俺の目を見ろよっ」
俊介に顎を捕らえられて、顔を上げられた。いつもは優しい瞳が冷たい色をしていて、顎を捉える俊介の手は小刻みに震えていた。
「ごめん……俊介」
俊介の瞳に向かい合って、祐貴が言えることは他には無かった。
嘘だろ? そう俊介の顔は言っていた。
ほんの少しの時間、無言で見詰め合っていた。俊介は小さく瞳を揺らせながら、言葉が出てこないのか、口が微かに動いていた。
「好きに……好きにすればいいだろっ」
いきなり突き放すように俊介は両手を離すと、前へ向き直り、拳を作った手をもうひとつの手で握り込んだ。俯きかげんの横顔は唇をかみ締めていた。噛みしめ
る唇は小さく震えていた。
何か言わなきゃいけない。自分の気持ちを分かってもらわなきゃいけない。
そう思っても、祐貴は俊介に声をかけられなかった。かける言葉は思いつかなかった。
周りの空気が凍ったように冷たく感じて、俊介の怒りが伝わってくるような気がした。心臓の鼓動が次第に早くなっていく。けれど、身体は動かせずに固まって
いた。心臓だけがばくばくと鼓動を身体の中に響かせていた。そしてその鼓動に煽られるように気持ちだけが焦る。
いつだって俊介は分かってくれた――――そう、いつだって。
俊介と別れようと、俊介に呆れてもらおうと、女の子と遊びまわっていたときでさえ、俊介
は抱きしめてくれた。
だから、今回も、俊介に辛い顔をさせてしまう、また、切ない顔をさせてしまう。けれど、分かってくれると思っていた。それは甘かったのだと、祐貴は初めて
分かった。
「出ていってくれよ。もう、お前の顔なんて見たくない」
低い、静かな、けれど掠れた声で俊介が言った。
祐貴に返す言葉は無かった。いい訳も言い逃れもできない。
無言でゆっくり立ち上がると、祐貴は俊介へ視線を向けた。俯いたまま、俊介の握りこんだ手は震えていた。今にも飛んできそうに感じたその手に、俊介は我慢
してくれているのだと祐貴は思った。それならば、自分は早く消えた方が良い。これ以上、俊介に辛い思いをさせたくはない。
一歩、二歩、俊介から遠ざかる。それでも、足は言うことを聞かなくて、まるで錘をつけられているようだった。
「祐貴」
俊介がかけてくれた言葉に、祐貴は思わず振り向いた。
「冗談だろ? 今なら許してやるから、そう言えよ」
俊介の眉根をよせ見開かれた瞳は、命令しているようにも感じた。そう言えよ、そう言った俊介の言葉が祐貴の頭を中を回る。
「……ごめん」
一言言うと、祐貴は俊介を振り切るように足早に部屋を後にした。階段を駆け下り、ただ前へ進んでいく。どうやって歩いたのか分からなかった。けれど、通い
なれた道はまるで一本道にように、いつもの終着点へ続いていた。
駅の看板が見えて、定期を通して改札の中へ入ると、祐貴は階段を駆け上がった。そして、ホームの中央にあるベンチまでくると、全ての力を失って座り込ん
だ。
冗談だよ、と俊介に言ってしまいそうだった。言いたかった。でも、それを言ってしまえば、もっと可南子を傷つける。きっと後悔する。
可南子の子供は、自分には関係ない。そう言ってしまえばそうだ。でも、それを見て見ぬ振りはできなかった。抑えきれずに、声をかけてしまったのは自分だ。
コトの始まりは自分だ。最初に可南子を抱いたのは自分だ。もし、あの時可南子を抱いていなかったら、という仮定はしても仕方ない。相手が違っていただけか
もしれない。あの時、と言えるのは今だからだ。俊介が待っていてくれたかどうかさえ、過去が変われば変わっていたかもしれない。
――――俊介
心の中で名前を呼んだ。呼んでももう来てもらえない。笑顔を返してくれることももうないだろう、と思う。
でも、好きだよ。ずっと、これからも。
それを伝えたかったのに、伝えられなかった。
けれど、たとえ、思いを返してもらえなくても、自分は思い続ける。心の奥底にしまいこんでおく。消すことなんて絶対にできないから。
ふっと身体を包んだ風が冷たく感じて、祐貴が顔を上げると空は暗くなっていた。明かりの照らされたホームは、そこだけ明るさを昼間と同じに保っている。
電車がホームへ入ってくるアナウンスが聞こえて、祐貴は立ち上がった。
もう、このホームに下りることはない。
――――さよなら
俊介の顔を思い浮かべながら、祐貴は心の中で呟いた。