「じゃあな」
「ああ」
朝、俊介といつもの会話を交わし、祐貴はいつもと同じように、エレベータの前で俊介と別れた。
六階までエレベータで上がり、ロッカー室によって着替えて、オフィスに入る。それはいつものことだった。
ロッカー室を出て、ふと給湯室に目がいった。電気もつけず薄暗い中にいる人影が見えた。
――――可南子?
そのまま給湯室の前を通り過ぎたのに、どうしても気になって、祐貴は給湯室の前まで戻った。
可南子は祐貴が通り過ぎたときと同じように、流しの前で、俯きかげんに立っていた。
「可南子?」
祐貴は入り口から声をかけた。一畳ほどの広さをもつ小さな部屋は中に入らなくても十分話ができる。
祐貴の呼びかけに可南子の返事は無かった。
「可南子?」
一歩入ると、祐貴はもう一度声をかけた。
「具合でも悪いの?」
そう見えたから、一度は通り過ぎたのに戻ってきた。
「……何でも、ない」
小さな声で答えた可南子は、言葉通り何でもないようには見えなかった。
何でもない、そう本人が言うのだから、関わらない方が良いのかもしれない。小さな子供じゃない。保健室へ行けば看護師がいて、必要に応じて薬も出してくれ
る。立っていられるのだから、同じ社屋にある保健室へ行くことはできるだろう。
既に別れた相手なのだから関わらない方がいいはずだ。それは分かっている。
けれど。
可南子を一人で置いていくことを祐貴は躊躇った。
可南子が深い息をもらすようにして、口元へ手をあてた。
「可南子?」
「……大、丈夫……」
「具合悪いなら、保健室で休んでるといいよ。課長には、僕から言っておくから」
可南子の返事を待って、祐貴は給湯室を出ようと思っていた。同じ部署の人間として、それくらいはやってもいいだろう、と思った。
けれど、可南子の返事はなくて、
「可南子?」
祐貴はもう一度可南子へ声をかけた。
それに、可南子はゆっくりとかぶりを振った。
「可南子?」
何でもないとも、大丈夫だとも思えなくて、もう一歩祐貴は可南子に近付いた。あまり関わりあうのはよくないことだと分かっている。
可南子の気持ちには応えられない。薄っぺらい優しさはお互いにために良くない。分かっているけれど、明らかに普通の状態じゃないやつを放ってくことは祐貴
にはできなかった。
「具合が、悪いわけ……じゃないの」
可南子が苦しそうな声をだす。
祐貴がどうしたらいいのか思いあぐねていると、可南子は手を自分の下腹部にあててさするようにした。
――――え?
頭に浮かんだ言葉を、祐貴はすぐにうち消した。そんなはずはない。
「病気……とかじゃ、ない」
「それって――――」
子供がお腹にいるってこと? とは訊けなかった。祐貴が可南子と決着をつけたのが一ヶ月ほど前だ。それから、新しく付き合った人がいたとしても、早すぎ
る。
「分かってるの。誰にも望まれない子なんだから、早く処置しなきゃいけないってことは」
「ちょっと、待って可南子――――」
「あなたの子だったら、祐貴の子なら、迷わない、一人で育てる。でも」
可南子は言葉を止めて、一回大きく息を吐いた。
「祐貴に似てる、って思った。笑顔が祐貴に……全然違うのに。祐貴はあんないやらしい笑い方しないのに……」
可南子の言葉は誰かをさしていて、それは、新しく付き合っていたやつだとしか思えなかった。
「それって、会社のやつ?」
祐貴の問いに可南子は小さくかぶりを振った。
「飲み屋で隣に座った名前も知らない……聞いたかもしれないけど、忘れた……」
淡々と可南子は話す。その可南子の言葉を祐貴は信じられなかった。
「なぜ? そんなやつと……」
祐貴には可南子が行きずりのやつと肌を合わせるとは考えられなかった。
「祐貴があいつとできてるなんて信じられなかった。信じたくなかった……でも、見ちゃったんだもの。自分で見てしまったことを否定はできなかった。忘れた
くて、飲みすぎたのは認める……そんなつもりは無かったのに、飲みなおそうって言われて、連れていかれたのがホテルの一室だって分かった時には……」
可南子は何かを振り切るように、何度も小さくかぶりを振った。
「あ……」
何か言おうとしたのに祐貴は言葉が出なかった。
可南子をそこまで追い詰めていたんだ、と、今更になってその時の自分の行動を悔やんだ。仕事を理由に可南子から逃げた。あの時気にしなければいけなかった
のは俊介ではなくて、可南子だったんだ。
もう過ぎた過去を言っても仕方ないことと、何度思ったことだろう。なのに、過ちは繰り返してしまう。
「あの時、あなたが抱いてくれたら……違うと分かってはいても、祐貴の子だと思えたかもしれない。でも――――」
ホテルで可南子と二人で過ごした夜があった。抱いて、と泣きじゃくる可南子をずっと腕の中に抱いていた。今、それが正しかったのかどうかは分からない。け
れ
ど、あの時は、抱いてしまえば、それこそ過ちになる気がした。ずっと泣きじゃくる可南子の背を頭を祐貴はずっと撫でていた。それしかできなかった。ホテル
の部屋から見える空は漆黒から紫に色を変えていった。空が明るさを取り戻した頃、可南子の瞳から零れ落ちるものは無くなっていた。
『あいつと別れるときは私のところへ戻ってきてくれる?』
祐貴の胸に額を寄せながら、ぽつっと可南子が言葉にした。
『俊介とは別れないよ。だから、そんな約束はできない』
待たせている、と思うことは嫌だった。自分とは関係のないところで、可南子には可南子の幸せを見つけて欲しいと祐貴は思った。
『だめよ……その時、私は祐貴よりずっとかっこいい彼氏見つけていて、祐貴をおもいきり振ってやるんだから』
可南子の勝気な言葉を切なく感じて、祐貴は可南子を強く抱きこんだ。愛しいとは思う。けれど、それ以上に愛しい存在がいる。
『分かった。約束するよ。俊介と別れたら、可南子のところへ戻る』
俊介と別れることはきっとないけれど、その時は可南子の幸せを見届ける。
あの時は、そう思った。可南子は吹っ切って自分の幸せを考えてくれる、と思っていた。
けれど、あの時、既に、可南子には小さな命が宿っていた。可南子の話からすれば、そうなるのだろう。
返す言葉も、どうしたらよいのかも分からず、苦しそうに顔をゆがめる可南子を祐貴は見ていることしかできなかった。
「どうかしたのか?」
鹿島が給湯室を覗きこんできた。
「何でもないわ」
可南子は手に持っていたハンカチで口元を押さえると、足早に給湯室を出ていった。オフィスとは反対方向へ歩いていった可南子はロッカールームへ行ったのか
もしれない。祐貴は思うだけで追うことはしなかった。自分は何もできない。
「最近具合悪いみたいだな、橋本」
可南子の後姿に視線を向けながら、鹿島が言った。
「そうなんだ」
気が付かなかった。いや、わざと見ることを避けていた。
「お前、席遠いからな。少し前は仇のようにキーボード打ってたかと思ったら、最近は画面見ながらぼんやりしてたり、席立つことも多いんだよ。課長にも何か
言われてたみたいだし、具合悪いなら、休むなり医者行けばいいのにな」
まさか妊娠しているとは誰も思わないのだろう。本人から聞いた祐貴でさえ半信半疑だった。
「そうだな」
当たり障りのない返事しか祐貴にはできなかった。処置しなければいけない、と本人が言っていた。そのつもりなら事を公にすることはない。ただ見守ってやる
ことしかできない。
今までは見ることを意識的に避けていたのに、祐貴は自然と可南子に目がいくようになっていた。
鹿島の言う通り、席を立つことが多かったし、後ろを通りすぎると、ぼんやりしているように見えた。伏せた顔はパソコン画面を見ているようには見えなかった
し、キーボードにおかれた手も動いていなかった。時々肩を上下させて大きな息をつく。可南子の姿を見ると、伸ばしたくなる手をぎゅっと握りこんだ。かける
言葉さえ見つからない。
早く処置した方がいいよ、とは言えない。それは可南子も分かっていることだ。だからと言って、生めば良いよとは言えない。生まれてくる命に責任は取れな
い。そんな無責任なことは言えない。
夜遅くまで可南子はオフィスに残っていた。祐貴が帰るとき、いつも可南子はまだ席にいた。体調に関係なく仕事はある。妊娠を公にできるのなら、周りも考え
てもくれるだろう。けれど、何の理由もなく、負担を減らすことなど誰もしてくれない。
何もできない自分を祐貴は情けないと思った。
けれど、何ができるのだろう。自分と可南子は別の道を行くことに決めた。
もう、関わってはいけないやつだ。
なのに、俊介の腕の中にいる時でさえ、祐貴の頭の片隅には可南子が浮かんだ。
ネガティブな感情は尚俊介を求め、更に深い愉悦の底へ落とされた。
「俊介、俊介、あ……しゅん……」
声も言葉も俊介を呼んでいるのに、祐貴の頭の中では可南子の残像が渦巻いていた。振り切ろうとしても、消そうとしても、ふっと消えて、また現れる。
俊介に心配だけはかけたくなくて、俊介の前では笑顔を作った。俊介の傍にいることが自分の幸せだと祐貴には分かっていた。そして、俊介も同じことを望んで
いることも分かっていた。二人の気持ちは重なっていて、誰も入る隙間はないはずだった。
祐貴が仕事を終えて、可南子へ視線を向けたとき、可南子はまだ席にいた。
オフィス内に他に人はいなかった。
夜の十時すぎ、それはお腹に子供がいるやつが働く時間だと祐貴には思えなかった。
祐貴は席を立つと、可南子のところへ行った。可南子はたどたどしく思えるほどゆっくりキーボードを打っていた。
祐貴が机に手を置くと、可南子は力なく、ゆっくりと祐貴へ顔を向けた。
「具合悪いの?」
祐貴が訊くと、可南子はゆっくりかぶりを振った。
「今、何やってるの?」
「資料の整理……データ打ち込んでまとめて、週明けの会議までに資料作らないと……」
可南子の手の下にあった資料を祐貴は取り上げると、ぱらぱらとめくった。画面に表示されているシートを見比べると、データは半分程度しか入力されていな
い。それから、グラフ作って、考察入れて、体裁を整えて――――。
体調が悪くなければ、可南子にとって大したことではないだろう、と思う。
「他にも、ある?」
祐貴がさぐりを入れると、可南子は視線を伏せた。
「何?」
「それは、来週末までで、時間もあるし……」
「でも、できなかったら、困るのは可南子だけじゃないだろ」
体調不良を公に訴えられるならばともかく、隠したいのならば、仕事で他の人間に迷惑をかけるわけにはいかないはずだ。
可南子は諦めたように一番下の引き出しを開けると、ファイルをひとつ取り出した。
「これも同じ?」
祐貴の問いかけに可南子は頷いた。
「他には?」
「ないわ」
諦めたように言う。
「本当に?」
まだ、抱えているものがあっても良いと思った。
「本当は、今やってるのは先週中にあげなきゃいけなかったの……でも、できなくて、これをまず仕上げろって抱えていたやつは課長が持っていった」
結果は信用になっていく。それを可南子も分かってはいると思うけれど、頼る人がいなかったのだろう。
「……まだ、決心つかないの?」
可南子の妊娠を聞いてから一週間が過ぎていた。周りの状況に関係なく子供は育っていくだろう。
どちらも選べないような今の状態が良いとは思えない。誰にとっても。
「分かってはいるの……でも、この子は何も悪くないのに、この子を闇の葬る権利なんて私にないような気がして……でも、育てていく覚悟もできない。愛せる
のかなって、自分だけ父親がいないって知ったとき、この子はどう思うのかな、ってそう思うと怖くて」
可南子は言葉を止めて一度深く息を吐いた。
「自業自得だっていうのは分かってる」
可南子は小さく付け加えた。
小さな命は確実に育っていて、それは自分と同じ命なのに、闇に葬られてしまうかもしれない。
何も知ることもできず、誰にも出会うことができず――――。
誰も望まないって、誰が言えるのだろう。
親に捨てられた子であっても、幼い頃の自分には誰よりも大切だった人がいたと祐貴は思った。
いつも傍にいて、笑いかけてくれた、その彼が、もし親の都合で無いものにされていたら、そう思うと身体が冷たくなって凍っていくような気がする。望んでい
るとは言えるけれど、望まないなんて誰も言えない。
「生みなよ」
祐貴の言葉に可南子は驚いたように目を見開いた。
「でも……」
「僕が父親になるよ。可南子が嫌でなかったら」
消してしまうことは簡単な命。けれど、消してしまったらもう戻りはしない。
「でも、この子は」
「分かってるよ。分かっていて、言ってるんだ」
小さな命が育っていることを知ってしまった以上、その命を無かったことにはできない。記憶にはきっと残る。それが、闇に葬られてしまったなら、悲しい記憶
になって、きっと後悔するだろう。知っていて、ただ見ていただけなら、自分が葬ったのも同じだ。
「でも、祐貴、自分の言ってること分かってるの。あいつが許すはずないじゃない」
可南子は顔を歪ませた。
「許してくれないかもしれない。でも、分かってはくれるよ」
いつも、我が侭を言ってしまう。そして、それをいつも受け入れてくれた。
また、我が侭がひとつ増えてしまう。
「祐貴は、それでいいの?」
可南子の声には不安が混じっていた。
「いいよ……その小さな命を見守っていきたいから……だから、早く帰って可南子は休みなよ」
祐貴はマウスに手をかけると、可南子が開いていたシートを保存し、自分のメールアドレスへ送った。
「明日までに作って、メールで送り返しておくから、チェックして気に入らないところは直して……それくらいはできるよね」
言いながら祐貴が可南子を見ると、可南子の瞳は潤んでいた。
「でも、祐貴」
「次の出張まであまり日がないから、帰ってきてから課長には言うよ。そうしたら、仕事も軽くしてもらえるだろ。辛いときは休めば良いよ。今、可南子が持っ
ているのは、僕がたたき台を作っておくから」
隔月に行われる国際会議の日程が今回に限り主催者の都合で一ヶ月前倒しになった。そのせいで、自分のスケジュールはタイトにもなっていた。可南子の仕事を
手伝って、それ以上に何かに時間を割く余裕は無かった。雑務は思わぬ時間を消費する。
「祐貴、私は――――」
「早く帰って、身体休めて、それくらい、一人でできるよね」
「祐貴……」
零れそうになった可南子の涙を祐貴は指で拭い、そして、額に唇で触れた。
「ごめんね」
そう言った可南子の声は掠れていた。
「そう思うなら、早く帰って、明日も元気な姿見せて」
祐貴は可南子の肩を抱きながら言った。一人で不安な気持ちをずっと抱えていたのだろう。そう思うと切なくなる。
可南子は小さく頷くと席を立った。
振り返りながら部屋を出ていく可南子に、祐貴は笑いかけながら手を振った。不安な顔を可南子に見せちゃいけない。そう頭が命令する。
可南子の姿が見えなくなると、祐貴は可南子のパソコンの電源を切り、ため息をひとつついた。
見ていられなかった。助けてやれるのは自分だけだと思った。けれど、それが正しかったのかは分からない。
祐貴は窓辺まで行くと下を見下ろした。
車の赤いテールランプが赤い河のように流れていく。誰もいない広い部屋は空気が冷たく感じた。
ポケットから携帯を出すと、履歴の一番上をダイアルする。三回呼び出し音が鳴った後、ぴっと高い通話を取る音がした。
「祐貴? 」
携帯から聞こえる声はフィルタがかかっていて、直に聞く声とは違う。でも、決して聞き間違えたりはしない声だった。
「うん」
「何? どうかしたのか?」
声が胸に響く。
「俊介……」
「ん?」
「なんでもない。ただ声が聞きたくなっただけだよ」
「どうしたんだよ。お前、今どこ?」
俊介は笑っていた。
「会社」
「忙しいの? いいのか携帯なんかかけてきて」
「ちょっと、休憩。もう、誰もいないんだ。だから、少し元気もらおうと思って」
「……そっちへ行ってやろうか?」
俊介の言葉が嬉しくて目頭が熱くなった。
「俊介が来てくれたら、仕事にならないよ」
「徹夜? 」
「に、なるかもしれない」
「じゃあ、淋しくなったらいつでもかけてこいよ。相手してやるから」
俊介は、期待をうらぎらない。いつでも優しい言葉が返ってくる。
「ううん、もう大丈夫。声聞いたら元気になった」
でも、もう、頼っちゃいけない。
「遠慮なんかするなよ」
「してない。本当だよ。週末、会える?」
「当たり前だろ。俺の週末は全部お前の予約で一杯だよ」
「良かった」
祐貴が笑うと、俊介が「だろ」と相槌を打った。
「何が食べたい?」
きっと、俊介と二人で過ごす時間はこれが最後になる。
「えっと、ハンバーグがいいな。今、テレビでやってんのが、おいしそうなんだ」
「分かった。楽しみにしてる」
「楽しみにするのは、俺の方だろ」
「うん。楽しみにして」
「……何かあったのか?」
怪訝そうな声が返ってきた。
「ううん。もう切るね。徹夜じゃ済まなくなるかもしれないから」
「無理すんなよ」
「うん。じゃあ」
携帯を耳から離すと、通話を切った。途端に部屋が沈黙に支配される。
「俊介……」
小さく呟いたつもりの声は響いて聞こえた。