「兄貴が結婚するんだ」
並んでランチのしょうが焼きをつつきながら、俊介が祐貴に言った。
「あ、そうなんだ、おめでとう」
それが俊介にとっておめでたいのかは分からないけれど、結婚は喜ばしいことなのだろうと祐貴は思う。
俊介が家族の話をするのは珍しかった。二歳年上の兄は最初に就職した会社を肌が合わないとやめて、今はフリーターだと聞いたことがある。
「今流行りのできちゃった結婚でさ」
「多いみたいだね」
社内でも聞く話だった。
「それで、親と同居するって言うんだよ。経済的に苦しいから」
それも珍しくない話らしい。
「そうなんだ」
「で、俺は家を追い出されることになってさ」
「え?」
祐貴は箸を止めて俊介を見た。俊介も祐貴へ視線を向ける。
「一緒に住まないか?」
そう言った俊介の言葉は祐貴にはプロポーズに思えた。
「あ……」
答えを躊躇った祐貴に俊介が不服げに眉根を寄せる。
「別に変なことじゃないだろ。今さら寮には入れないから、経済的にも便利だって言えば立派な理由にはなるだろ?」
「でも……」
祐貴は箸を置いて、視線を伏せた。
「あいつのこと気にしてんの?」
俊介はそう言った後で、ホテルに行くよりずっと安全だろ、と祐貴の耳元で囁いた。
それはそうかもしれないと思う。
「でも、父さんの単身赴任が決まったんだ。十月から一年」
言い訳のように口から言葉が出た。それは事実ではあった。
「お前には関係ないじゃん」
「でも、貴史は最近彼女ができたみたいで帰りが遅いし、母さん一人になっちゃうから」
頭では何も考えていないのに、口からすらすらと言葉がでていく。
「嫌なのか?」
俊介の言葉に祐貴の胸がちくっと痛む。
「違うよ。でも、大学行くときに我が侭言ったから、せめて父さんが帰ってくるまでは家に居たいって思うだけだよ」
心臓がどくどく言っていた。今、そんなこと言わないでくれよ、と心の中では言っていた。
美樹のことを考えても、可南子のことを考えても、今、新しい生活を始める気持ちにはなれない。
黙り込んだ祐貴に俊介は大きく息を吐いた。
「じゃあ、仕方ないな。淋しく一人暮らしするか」
「ごめん、俊介」
祐貴がおそるおそるあげた視線に、俊介が目を細める。
「まあ、いいさ。部屋に遊びには来るだろ?」
「うん……」
頷いた祐貴に「そうでもしないと、いつまでお預けくわされるか分かんねえからな」と俊介は呟いた。
最後にホテルで過ごしたときから、一ヶ月近くが経っていた。拒む祐貴に不満顔をしながらも、俊介は無理にとは言わなかった。
「俺はできた人間じゃないから、目の前に好きなやつがいるのにいつまでも待ってるなんてことはできないよ」
独り言のように言うと、俊介は皿の肉をつまみあげた。
それでも待っていてくれる、と思う。いつも我が侭を言ってしまう。
「これ、旨いぜ」
食事が大方終わった後で、俊介が祐貴の手に握らせたものは、ミントガムだった。意図が分かって俊介を見ると自分の口にひとつ放り込み、祐貴にも食えと催促
する。拒むことはできずに、口に含んでかりっと噛むと、爽やかなミントの味が口に広がった。
時計を見ると昼休みが終わるまで、あと二十分も無い。何処へ行くこともできない。ならば、何もすることなんてできない。俊介の考えていることを分かったよ
うな気にはなったけれど、ただ、本気で口直しのつもりだったのかもしれない。
なんだ――――そう落胆した自分に祐貴は呆れた。
きっと無理やりにでもホテルへ連れていってほしいと心の片隅で思っている。俊介を拒むのはあくまでも建前に過ぎない。
食器を返し食堂から出て、エレベータホールへ行く途中で、前を歩いていた俊介が後ろを向いて、あるドアを指した。スチールのドアは非常階段へ通じている。
そのままドアをあけて階段室に入った俊介の後を祐貴は付いて行った。静かに閉めたはずなのに、かしゃんとドアは甲高い音をたてる。
「俊介?」
小さく呟いたはずの声は壁に反響するように響いた。
「待てない、って言っただろ」
俊介が階段を下りながら答える。
「どこへ行くつもりなんだ?」
小声のつもりでも、声は響いた。食堂から一階降りたら小さな会議室が並んでいるし、もう一階降りたらセミナールームが並んでいる。
「どこにも行かないよ」
階段の踊り場で俊介は止まり、振り返ると祐貴の手を取る。
「会議室で見つかったら、言い訳なんてできないだろ」
「そうだけど」
休憩時間だからと会議室に誰も来ないとは限らない。
「ここなら、ドアからは死角になってる。誰かがドアを開けたら音で分かるし、そうしたら話しをしてる振りをすれば良い。だいたい、めったに人なんて来ない
はずだ」
通常はエレベータを使う。部署や用途でブロックごとに区切られている数階の間では内階段もある。
非常階段を使うのは、文字通り非常事態があったときと、ブロックを越えて移動するときにエレベータを使わないときだ。
「そうだけど、でも」
社内で恋人として向かいあうことには抵抗がある。誰もここを通らないという保障があるわけじゃない。
「待てないって言ったろ」
俊介は祐貴の手を引くと、壁の前に立たせた。
「だけど」
「一週間会えなくなるんだ。その前に恋人らしいことの少しはさせてくれよ」
俊介の指が唇に触れる。その指にどくんと心臓が跳ねる。久しぶりに触れた手だった。優しく唇をなぞるように触れる指に祐貴は抵抗もできなければ、文句も言
えなかった。
「お前は平気なの?」
そう言って覗き込んできた俊介に、祐貴は目は閉じた。
平気なわけはない。欲しいと思う。それでも拒んでしまう。
触れてきた唇に全てを預けた。ずっと欲しいと思っていても、言葉にはできなかった。躊躇っていたのが嘘のように触れてきた唇を貪った。応えてくれた俊介が
差し入れてきた舌に舌を絡ませると、ミントの味が口に広がる。でもそれはわずかな時間で、懐かしい甘さが舌を捕らえた。
現実が遠くなっていくように感じる。壁に背を預けてやっと立っているような状態だった。角度を変え、深く唇を重ねる。何度も、何度も。
それだけでは物足りなくなって腕を俊介の腰に回すと、俊介が腰を密着させゆっくりと擦れあわせるように動く。俊介のものを感じて安心した自分がいた。一番
近いところに自分がいる。
意識が掠れていくような頭の中で、カシャンと小さい甲高い音が鳴った。
何の音?
意識を手繰り寄せるように、ゆっくりと祐貴の頭の中が回る。
さっきも聞いた音だ。ドアの音?
どこの?
――――え?!
ふっと鮮明になった意識は腰に回していた腕を解き、俊介の胸を押していた。
音に気が付かなかったらしい俊介が、驚いたように祐貴を見下ろす。
「どうかしたのか?」
怪訝そうな顔をして俊介が頬を撫でる。その手を取りながら、祐貴は視線を上げた。確か音は上から聞こえた。けれど、その後、何の音も聞こえなかった。だか
ら空耳だったのかもしれない。そうあって欲しい。そう思いながら、向けた視線の先には呆然としている可南子が立っていた。
声は出なかった。それは可南子も同じようで、ただ、驚いたように口を少しあけたまま、祐貴を見下ろしていた。
祐貴の視線を追うように、俊介も後ろを向いた。
「丁度良かった」
最初に声を出したのは俊介だった。
「説明する手間が省けたじゃん」
まるで、見せ付けるように俊介は祐貴の頬にキスを落とす。
「何してるの?」
そう言った可南子の声はわなわなと震えていた。
「見て、分かんないの?」
俊介が煽るような言葉を吐く。可南子は引きつった顔を更にゆがませた。
沈黙が続く中、祐貴はかぶりを振った。
「いいんだ。俊介」
らしくない俊介の、可南子を挑発するような言葉は自分を守るためだ、と祐貴は思った。
「祐貴?」
俊介が祐貴に心配そうな瞳を向ける。
「ちゃんと正面を向いて話さないとだめってことなんだ、きっと」
最後までごまかし通すことなんてできなかっただろう。けれど、事実を話すことはきっと躊躇われて、時間だけが過ぎていけば良い結果が生まれるとは思えな
い。
「お前はいいよ」
俊介が手を伸ばして祐貴を押し留めようとした。その手を祐貴はそっと掴んだ。
可南子に見られて自分がどうしたらいいのか分からなかったとき、俊介は真っ先に自分を守ろうとしてくれた。逃げることもごまかそうとすることもせずに。な
のに、自分が逃げてばかりじゃいけない。
「可南子は僕に会いに来たんだから、僕が向かい会わなくちゃいけないよ」
「でも、それじゃ」
俊介が顔を歪める。
「大丈夫だよ」
祐貴は俊介の手をゆっくり握り締めた。
「……可南子が会いたがっていた人だよ」
祐貴が可南子に向かって言うと、可南子は眉を顰めた。何か言いたげに一旦開きかけた口を閉じる。
「驚いたかもしれないけど、分かって欲しいんだ」
そう祐貴は続けた。
もう離れたくはない。失いたくはない。
「おかしいわよ! そんなのっ」
可南子が吐き捨てるように言う。その声は反響して戻ってくる。
「呆れていいよ。軽蔑してくれて構わない。もう、決めたことなんだ」
先が厳しいことは分かっている。世間では認めてくれないことだと分かっている。それでも、共にいたいと思った。
「だって、あなたは美樹さんが――――」
可南子がはっとするように言葉を途中で止めた。そして、視線を俊介へ向けた。
「彼女は関係ないよ。可南子が誤解したのなら、それでも良いって思ったのは事実だけど、彼女は関係ないんだ」
美樹を巻き込みたくはない。もう、関係ないはずだ。彼女も別れたとはっきり言っていた。
「前の彼女?」
そう言った可南子の言葉に祐貴は肯定も否定もできなかった。
「関係ないよ」
「美樹に会ったのか?」
祐貴の言葉に答えたのは俊介だった。
「偶然会っただけだよ。挨拶程度の話をして別れた。それだけだよ」
俊介には内緒ね、そう言った美樹の顔を祐貴は思い浮かべた。
「そっか」
俊介がほっとしたような顔をする。美樹と付き合っていたことを知られたくはないのだろう、と祐貴は思った。
大丈夫だよ、知っても気持ちは変わらない。そう言いたくなる。けれど、今時間はない。場所も悪い。
「もう時間もないし、俊介は戻っていいよ」
祐貴は俊介の肩に手をかけた。
「でも、まだ話は終わってないだろ」
俊介が心配そうに祐貴を見る。
「大丈夫だよ。後でメールする」
昼休みだけで終わる話だとも思えない。今は時間がない。出張のための準備があることは可南子も分かっているはずだから、話は帰ってからにして欲しいといえ
ば了解してくれるだろう。
「でも」
俊介は渋った。お前を一人で置いていけないと、俊介の瞳が言っていた。
「今、時間がないことは可南子も分かっているから、話は出張から帰ってからでいいよね?」
祐貴は可南子に問いかけた。それは可南子に分かってもらうしかない。
「いいわよ」
俊介を睨むように言うと、可南子は踵を返して階段を上がっていった。コツコツと床をヒールが蹴る音が響く。そして、重いドアが開く音がした。
「祐貴」
俊介が心配そうに覗き込む。職場に帰れば、どうしても顔をあわせることになる。それを俊介は心配しているのだと、祐貴は思った。
「大丈夫だよ」
笑いかけると、祐貴は俊介の口元へ軽く口付けた。
「ごめん。僕のせいでばれちゃったね」
もっと可南子を見ていれば良かったと思う。ヒールの音はしなかった。それは聞き逃したのかもしれない、けれど、小さな音でも響くこの場所で、ドアの音は拾
えたのだから、聞き逃してはいないだろう。可南子は意思をもって、ここに入ってきたんだ、たぶん。入ったところを見ていたのだろう。周りをよく見ていれば
良かったのに、そこまで考えられなかった。
「誘ったのは俺なんだから、悪いのは俺だよ。ほんとに、大丈夫か?」
俊介の手が前髪をかきあげる。
「大丈夫だよ。可南子も分かってくれるよ」
意味のない言葉だと分かっていても口にした。それに俊介はそうだといいなという顔をして頷く。
「気をつけて行ってこいよ」
優しく見てくる瞳に切なくなる。
「ああ」
祐貴は小さく頷いた。
待っていてくれる人がいるから、ちゃんと帰ってくるよ。
問題が待っていたとしても、大切な人がいる。