「なぜ?」
可南子が怪訝そうな瞳を祐貴に向ける。
「会いたくないって、それだけだよ」
「それだけで、納得できるわけないじゃない」
もっともだと思いながらも、実体を明かすこともできなければ、嘘をつくことは更にためらう。
週の半ば、就業後に祐貴は可南子と駅前のカフェで向かいあっていた。
祐貴の前に置かれている紅茶も、可南子の前に置かれているカフェオレも、冷房が良く効いた店内では手をつけられていないまま冷えていた。
「会ったところで何も変わらないよ」
「分からないじゃない」
話は平行線だ。
祐貴の恋人に一度会いたいという可南子の言い分が分からないわけじゃない。けれど、もう一度会ってるよとは言えない。そして、これから先、会わせるわけに
はいかない。社内の人間に関係をばらすわけにはいかない。
「そんなに難しいことを言ってるわけじゃないでしょう? 遠くから見るだけでも良いって言ってるのに」
口を告ぐんだ祐貴の顔を覗き込むように、可南子が言う。
「それで、どうするの?」
祐貴は可南子へ視線を返した。
「別に、今はそれだけ。後のことは考えてない。だって、どんな人かも分からないのに」
可南子の言うことはいちいち納得できる。正論だと思う。それだけに、返す言葉は選ばなきゃいけない。不用意な言葉を告げたら、そこを突いてくるだろう。嘘
はつきたくない。きっと、つけない。
祐貴は心の中でため息をついた。
からん、と高い音が店内に響く。思考を遮られて、祐貴の視線は音をたてたドアへ向けられた。
店内はほぼ席が埋まっていて、高校らしき制服姿や、学生らしいラフな格好の服装が多い。その中に少し背広姿の社会人もいる。祐貴の勤務先は制服があること
もあって、行き帰りの服装は軽いものを着ている人が多い。
祐貴が視線を向けた先、ドアが開いて入ってきた人物に、祐貴の身体が強張った。けれど、何でもないかのように、そのまま視線を伏せ、唾液をごくりと飲み込
んだ。
「誰?」
祐貴の少しの表情の変化を可南子には見られたようだった。
「友達だよ」
祐貴はティカップの取ってに手をかけた。そして、口元を持っていき、一口飲み込む。冷たくなった紅茶は苦味を口の中に広げた。
「嘘」
可南子が尖ったような声で言う。
足音が近づいてきて、かたっと椅子を引く音が聞こえた。
大きな窓に並ぶように、小さなテーブルと向かいあった椅子が並んでいる。いかにも二人用という席の中で、祐貴と可南子からテーブルを一つあけて可南子と並
ぶようにその人物は腰を下ろした。
「アイスココア」
メニューも見ずに、来た店員へオーダーを告げる。
「祐貴?」
可南子が責めるような声を出す。正直に言いなさい、と声が言っていた。
「祐貴?」
ひとつ挟んだテーブルの向こうから懐かしい声が聞こえた。
祐貴は小さくため息をこぼすと、その声へ視線を向けた。
「久しぶりだね」
最後に会ったのはいつだったか、そんなことはもう忘れた。会わなかった月日を感じさせるような大人びた顔立ちになっていたけれど、一目見て美樹だと分かっ
た。
俊介の付き合っていた人。俊介に一番似合う人だと思っていたけれど、間を壊したのは自分だった。
「ほんと、ね」
少し戸惑うように美樹は答えた。そして、一瞬可南子へ視線を向ける。また祐貴へ戻された視線は、誰? と聞いていた。
「同じ職場で働いてる。橋本可南子、さん」
祐貴は美樹の視線に答えた。
「高校時代の友達で、坂下美樹さん」
続けて祐貴は可南子に向かって言った。
説明不足は承知の上で、どちらにもそれ以上踏み込んで欲しくない。
そして、美樹へまた視線を戻すと、祐貴は美樹に声をかけた。
「元気そうだね」
どうしているだろうかと気にならないわけでもない。
祐貴は一度だけ俊介に美樹のことを訊いた。『さぁ、俺も会ってないから』と答えた俊介は一瞬の沈黙の
後、他の話題を出した。その時の雰囲気で、美樹のことには触れて欲しくはないのだろうと思った。同じ駅を使っているのだから、会っても不思議はない。なの
に、一年半以上会うことはなかった。それが、こんなところで出会うことになろうとは思いもしなかった。
「まあ、ね」
祐貴に答えた後、美樹は視線を落とした。
「こんなところで会うとは思わなかった」
祐貴はとりあえずの言葉をかけた。何か言葉をかけないといけない気がした。
「毎週水曜日に、フラワーアレンジの教室があるの」
あそこで、と付け加えながら美樹は窓から見える道路を挟んで向かいのビルを指さした。
「あ、そうなんだ」
意外な気がした。毎週、美樹はここに座ってアイスココアを飲んでいたのだろうか。
「元気?」
そう訊いてきた美樹の言葉は自分に向けてではないのだろう、と祐貴は思った。
「うん、元気だよ」
俊介は、と心の中で付け加える。
「そう」
短い返事を返すと、美樹はまた視線を伏せた。
髪を以前より短くしていて、首筋に緩いウェーブの髪がかかっている。大人びて色っぽくなったと祐貴は思った。
可南子がいる前で迂闊なことを言えるはずがなく、話題も浮かばない。沈黙が流れる中で、美樹が注文したアイスココアがテーブルの上に置かれた。
ふっと祐貴が可南子を見ると、可南子は怪訝そうな視線を美樹に向けていた。
一口飲み物に口をつけた美樹が顔を上げて窓外を見る。
もしかしたら、と祐貴は思った。
――――俊介を待ってる?
祐貴は今日規定時間が終わると直ぐに会社を出てきた。こんな早い時間に帰ることは少ない。俊介も同じだ。
けれど、それを美樹は知らないだろう。分かっていて、それでも会えるかもしれないと思っているのだろうか。聞くことはできない。訊いたところでどうもでき
ない。
ふと祐貴の可南子に向けた視線がぶつかった。可南子が首を傾げる。それは二人の間をいぶかしんでいるようにも見えた。
確かにただの友達ではない。ひとつの言葉で言うのなら、恋敵になるのだろうか。
もう、譲れはしない。もう、離したくない。一度は諦めようとした。それが良いのだと思った。あの時から六年の月日が流れた。
「もう、時間だから」
そう言って美樹は店を出ていった。
「あ、うん」
結局言葉を交わしたのは、数えるほどで最後に美樹は笑顔を見せてくれた。その胸の奥を探りたくはない。
「ただの友達じゃないでしょ」
美樹が店を出ていった後、可南子が言った。
「なぜ?」
祐貴は疑問を返した。可南子がどう思ったのか、それは知りたい。
「なんか、ひとつ気になるのよね」
可南子が人差し指を口元へあてる。
「え?」
「祐貴の友達、俊介って言ったっけ、彼は、祐貴には決まったやつがいるだろって言った。わざわざ彼女とか付き合ってるやつとかっていう言葉を使わなかっ
た」
「そうだっけ」
正直、俊介がどう言ったのか祐貴は、はっきり覚えていない。
「もしかしたら、彼女待っててくれなかったんじゃないの? でも、あなたは忘れられなくて、待ってる」
祐貴は返す言葉がなかった。
「それが、あの美樹さん」
可南子が続けた言葉に、祐貴はゆっくりと息を吐いた。
そう思ってくれても構わない、と祐貴はその時思った。
「当たり?」
可南子が祐貴の顔を覗き込もうとする。
祐貴はかわすように、顔を背けると上を見上げた。
「俊介が言ったとおり、もう僕の気持ちは決まってる。僕が言えることはそれだけ」
ゆっくりと可南子へ向いた。
「ごめん。可南子」
事実を告げることはできない。それを誠実ではないと罵られても仕方ない。聞くだけでなく見なければ、現実として捉えられないというのはよく分かる。自分も
かつてそうだった。だからといって、できることとできないことがある。
たとえ、可南子が社外の人間であっても、告げることはできないだろう。
俊介との関係を知られてしまえば、可南子は愛想をつかすだろう。けれど、それはできない。社会の中で生きていくためには、俊介と自分の関係は他人に知られ
てはいけないことだ、そう祐貴は思う。
可南子は大きくため息をついた。
「まあ、別に急ぐこともないから」
不満ながらも諦めたような顔をする。
美樹には近づかないで欲しい、と口にしようとして祐貴はやめた。名前を出してしまえば、何か意味があるものとして捉えるかもしれない。可南子を四六時中監
視することも無理なら、何かを強制することも無理だ。触れなければ、そのうち忘れてし
まうだろう。その方が良い。
「可南子が打ち込める何かを見つけることを願ってるよ」
誰か他の人でも良い、やりがいのある仕事でも良い。自分に関わるのは、彼女にとって良いことだとは思えない。
「そうね」
可南子は口元を緩めた。