ホテルの部屋の入るまで、俊介はほとんど口をきかなかった。
いつもは向けてくれる笑顔も、手も、声も、なにもなく、食事の時にアルコールを入れることもなく、ただ空腹を満たすだけの食事をとると、そのままホテルへ
入った。
俊介が怒るだろうことを祐貴は予想していた。我が侭に付き合って待っていてくれたのに、その相手は女を相手にしてよろしくやっていたわけだから、怒るのは
当然だと思う。
だから、できれば、知られたくなかった。何も言わずに、心の中の罪悪感と戦わなくてはいけないのは自分の罪だ。それを俊介に知られちゃいけないとずっと
思っていた。
一年先に卒業した可南子は大学に残ると大学院へ入った。教授に可愛がられていたし、実力もある。大学三年の時、論文を学会に発表したこともあった。だか
ら、可
南子が、大学院を卒業して就職することは考えられなかったし、まさか、その就職先に自分と同じところを選ぶとは思っていなかった。
「はぁ……」
俊介は部屋へ入ると窓際の椅子に座り、天を仰ぐように背もたれにもたれ大きく息を吐いた。
俊介の後ろにある窓は四角い枠の中に、オレンジや緑の光の玉をぱらぱらと散りばめていた。上にはぼやけた満月には少し欠けた月が淡い光を放っている。
祐貴は俊介と向かいあうことができず、ベッドの縁に腰掛けた。
「ごめん」
言葉はそれしかでなかった。
俊介は待っていてくれたのに、自分は負けてしまった。
戻ったときに、まず言わなければいけなかったことかもしれない。でも、それはできなかった。ずっと黙っているつもりだった。昨日、少しでも時間をとっても
らって、俊介に話せばよかったのかもしれない。次の日に、二人の時間はとれるから、そのときに話そう。そう思ったのは既に逃
げだったのかもしれない。昨日話していれば、少なくとも自分の口から言えた。
「何が?」
上を見上げたまま、俊介が言う。
「僕は、付き合っていた人がいた」
「ほんとに、付き合ってたのか?」
俊介は視線を祐貴に向けた。
「付き合ってたよ。そういう関係も、あったよ」
たぶん、一番知りたいのは身体の関係があったのかどうかだと思う。もしも、自分がと思ったら、一番気になるのはそこだから。
誰かが俊介の腕の中に抱かれて
いたとしたら、そう思っただけで胸が苦しくなる。俊介が誰かの身体を突き上げたのかと思うと、足の先から身体の力が抜けていきそうになる。
自分だけのものであって欲しいと思う。自分は違うのに、我が侭なものだ。
俊介が目を細めた。
「どれくらい?」
「一年くらいかな」
サークルで誕生日会をやるから来て欲しいと可南子に言われた。可南子も親元は東京でアパートに住んでいて、サークル仲間で食料を持ち込んで盛り上がること
が度々あったから、疑いもせずに祐貴は行った。誕生日会なんていうのも、ただ飲むための理由だと思った。
可南子は手作りのケーキと料理を用意してくれていて、おかしいなとは思ったけれど、そのうちみんな来るだろうと思った。あまりに遅く感じて「みんな遅い
ね」と言った祐貴に「今日は二人だけ」と可南子は答えた。
好意を感じていなかったわけじゃない。けれど、祐貴は知らないふりをしていた。
『好き』
告白されて、答えなければいけなくなった。
『ごめん。僕は好きな人がいるから、応えられない』
祐貴は可南子にそう答えた。
どこにいるの? どんな人? 可南子に聞かれているうちに、祐貴は俊介のことを話していた。
その人には知り合う前から付き合っている人がいたこと、その人がすごく素敵で優しい人でお似合いで、自分はとても敵わないこと。なのに、好きだと言われて
どう
したらいいのか分からなくなってしまったこと。自分と付き合っても幸せには絶対なれない。その人にはとてもお似合いな人がいる。このままだと答えはでな
い、そう思ったから自分の気持ちを確かめるためにも、離れることを選んだこと。
祐貴が他人に俊介のことを話したのは初めてだった。最後は涙がこぼれて、ほとんど言葉にはならなかった。
それを可南子は辛抱強く聞いていてくれた。
『大丈夫』
そう可南子は言った。
『祐貴に淋しい思いなんかさせない』
そう言いながら可南子は祐貴の背中へ腕を回した。
俊介に会いたい、けれど俊介は待っていてくれるのだろうか、不安を初めて言葉で出せて、祐貴の心の奥にしまっていたはずの気持ちが溢れてきた。苦しいほど
の切な
さに捕らわれた身体は、受け止めてくれた可南子を抱いていた。頭の片隅で違うというのは分かっていたけれど、止めることはできなかった。
会いたい、そう心の中で叫んでいた。心と身体はばらばらで、それでも苦しくて吐き出さずにはいられなかった。
どちらも裏切っている。酷いやつだと自分で思いながら、抱いてしまった罪悪感から可南子との関係を続けていた。付き合っていると情もわいてき
て、もともと尊敬していた人で
はあるから、それなりの恋人関係だったときもあった。
けれど、一通の手紙で目が覚めた。
季節外れの年賀状にメールアドレスが書いてあった。
ただの年賀状だった。
でも、それは俊介が待っていてくれるということだったから。
自分は何をしていたんだろうと祐貴は思った。
自分はいったい何のためにここまで来たのか。
我が侭を受け入れて、待ってくれている人がいるのに。
自分は何をやっているんだろう。
心の中には後悔が渦巻いていた。
可南子に罵倒されるのを覚悟で、もう付き合えないと話した。
可南子の反応は案外あっさりしたもので、『そう、待っていてくれるんだ』とぽつんと言った。そして、『でも、卒業までまだあるよ、待っていてくれるとは限
らないんじゃないの?』と煽る。
『いいんだ。待っていてくれなくても』
そう祐貴は答えた。
負けてしまった自分が文句を言えることではない。今まで待っていてくれたと分かった。それだけで十分だった。
「彼女は未練たらたらだろ。なんで別れることになったんだ?」
俊介が問いかけてくる。
「俊介がメールアドレスを教えてくれたから」
「それだけ?」
俊介が意外そうな顔をして、身体を起こした。
「うん。俊介が待っていてくれるって分かったから」
言葉はなくても、待っていてくれると分かったから。
「ごめん」
そう言葉を繋ぐ。それしか言えなかった。裏切った事実は消えないから。
俊介はゆっくり、椅子から立ち上がった。
祐貴の前に立ち頬へ手を当てる。
「お前は帰ってきてくれた。それだけで十分だよ」
「俊介」
「一度別れた。その後で恋をした。それを誰も責められないよ」
「でも、俊介は――――」
「お前は帰ってきてくれた。それだけで十分だよ」
少し顔を歪めて、それでもまっすぐに祐貴を見て俊介が言う。頬にあてられた手は下へすべり、シャツの釦へかかる。
「そう思いたい。事実そうなんだ。だけど、お前が腕の中に抱いたやつがいると思うと、胸が苦しくなる」
俊介は更に顔をゆがめて言葉を繋げながら、祐貴のシャツの釦を外していく。祐貴はどうしたらいいのか分からなくて、釦を外す俊介の手を軽く掴んだ。
「ごめん、俊介」
自分の胸も痛いほど苦しくなる。確かに抱いた記憶があるから。いくら後悔しても消せない過去だから。
シャツをベッドに落とすと、俊介は祐貴の首筋に唇で触れた。
「シャワー浴びにいこう。俺が洗ってやるよ」
少し浮かせた唇はまた首筋に落とされる。そして、手はベルトにかけられた。
生暖かいお湯とともに、指が身体に入ってくる。
「痛いか?」
かけられた言葉に祐貴はかぶりを振った。
向かいあうように抱き込まれて膝をついた姿勢で、身体の奥を探られる。自分でやるから、そう祐貴は俊介に何度も言ったけれど、聞き入れてはくれなかった。
引け目があるから強くも言えない。俊介の肩口に額を預け、祐貴は俊介にされるがままでいた。
「今日は、優しくできないかもしれない」
俊介が呟くように言う。微かな吐息を耳に感じた。それだけで、身体はぴくっと震える。そんなことを言うくせに、探る指は優しい動きをしていた。まだ慣れて
いない身体に負担にならないように、ゆっくりとそっと撫でるように動く。
「ここは、俺だけだろ?」
今度は囁くように言う。
「うん」
俊介だから欲しいと思う。他の誰のものも欲しいとは思わない。俊介の手だから委ねられる。何をされてもいい、そう思える。
指を抜かれて、全身を軽く洗ったあとをお湯で流してバスルームを出た。タオルで軽く拭かれた後、そのままタオルで包み込むようにされて、ベッドへ押し倒さ
れる。
上から俊介に見下ろされて、祐貴は視線を逸らした。まっすぐに視線を合わせることが怖い。俊介の瞳の奥に軽蔑の色を見てしまったら、もう、俊介とは向かえ
あえなくなる。
裏切って、そして、裏切ったことを隠してきた。どんなに責められても、言い訳はできない。なのに、俊介は責める言葉をひとつも言わない。そのことに祐貴の
胸は苦しさを増した。
俊介は触れるだけのキスを落とすと起き上がり、ベッドを降りた。
「俊介?」
一人で置いてきぼりにされ、祐貴は途端に不安になった。視線で俊介を追うと、俊介は部屋の明かりを消し、入り口の明かりだけを残すと、祐貴の方へ歩いてく
る。肩口だけ明かりに照らされて、黒いシルエットになった俊介はさっきと同じく、祐貴の上に覆いかぶさった。
「これならいいだろ」
手が前髪をすくい上げる。
「うん」
避けた視線の意味をどう取ったのか。それでも、与えられた結果は祐貴が望むものだった。
そっと腕を俊介の首に回した。
――こんなに愛しいのに。
胸が重く潰されそうになる。
触れてくる唇に全てを預けた。啄ばむように触れた唇は耳たぶを甘噛みし、首筋をたどっていく。祐貴は俊介の頭を抱きこみ、髪をかき回すように撫でた。
――こんなに愛しいと、あの時も思っていたのに。
高ぶる気持ちはすぐ身体にも現れる。
「誰のコト考えてんの?」
俊介が意地悪げな声で言う。
「俊介に、決まってるだろ」
気持ちをどう表したらいいかわからなくて、俊介の背中へ手を伸ばした。離したくない。誰にも渡したくない。誰よりも近くにいたいと、そう願ってる。落とさ
れる唇を感じながら、感じる高ぶりに身体を任せた。
俊介の上で熱を放った後、祐貴はそのまま俊介の上に倒れこんだ。体重をかけてしまわないように、脇に肘をつく、そして、俊介の胸に額を預けた。
俊介の肌は少し汗ばんでいた。心臓の鼓動もいつもより少し早い。頭上からは身体の熱を抑えるような荒い息遣いが聞こえる。自分も全身で呼吸していた。汗が
幾筋も額から流れ落ちる。それが、俊介の肌を濡らす。
俊介の手が頭に回され、さするように撫でる。
「これからは、今までみたいに会わない方がいいと思う」
祐貴はぽつっと呟いた。
「なんで?」
「変に思われるよ、きっと」
俊介が祐貴の頭を抱きこむ。
「嫌だ、って言ったら?」
「少し時間を欲しい。彼女に分かってもらいたいから」
「あいつに言うの? 俺たちのこと」
「言わないですむ方法を考える」
「あるのか?」
「分からない」
祐貴は軽くかぶりを振った。昨日の今日であり、何か考えがあるわけでも何でもない。
「ほっとけば、って言ったら?」
「僕がけじめをつけなきゃいけないことだと思う。彼女に対して」
「俺はいやだな。お前があいつと関わりあうの」
頭を抱きこんでいた手が背中をたどる。
「俊介?」
「ミイラ取りがミイラにならないって保障はないだろ?」
「ならないよ」
「絶対?」
祐貴は頷いた。
「僕が好きなのは俊介だけだよ。先にも後にも」
「それでもやだな。お前分かってないよな。俺がどれだけ不安かなんて」
汗ばむ背中を俊介の手が撫でる。
「俊介が不安に思うことなんてないよ」
どれだけ好きなのか、示すことができればいいけれど、気持ちをそのまま表す方法なんてどこにも無い。
「でも、俺は嫌だし。不安が無くなるわけじゃない」
珍しく俊介の強い反対に、祐貴は言葉が返せなくなった。
東京へ帰ってきてから、俊介が祐貴に強く反対することは無かった。二言目には許してくれた。笑顔を見せてくれた。
「俺はもうお前を失うのは嫌なんだ」
俊介が頭を強く抱きこむ。
「でも、このままじゃ……」
存在しない祐貴の彼女を可南子は探そうとするだろう。いつまでも誤魔化せるものじゃない。
「俺は教えられない、で通すよ。お前もそうすれば良い」
「そんなわけにはいかないよ」
可南子の実家は東京だと聞いた。だから、実家に帰ってきたということなのだろう。けれど、望まれただろう大学講師を蹴って来たはずだ。きっと他にも条件も
待遇も良いところはあっただろう。けれど、祐貴との繋がりを作るために、可南子は祐貴と同じ職場を選んだ。
俊介は黙ったまま、祐貴の頭を撫でる。
「ごめん」
祐貴が呟いた言葉にも、俊介は反応を返さなかった。何も聞こえなかったかのように、手は優しく撫でる。
――――ごめん
今度は胸の中で呟く。
可南子を無視することはできない、そう祐貴は思った。