月のカタチ


「じゃあな、昼に」
エレベータの前で、俊介は立ち止まると祐貴に向かって言った。
「ああ」
祐貴は軽く右手を上げ、俊介の後ろを通り過ぎる。
同じ高校で過ごし大学に入る時別れた友達は、今恋人になっていた。同じ会社に就職して、一年以上が過ぎた。最初の五ヶ月は研修で共に過ごしたけれど、配属 になって部署は分かれた。
三十階建ての社屋は行く階に応じて、エレベータが変わる。六階に部署がある祐貴と十二階に部署がある俊介では、乗るエレベータが違っていた。
フレックスタイムが採用されているためか、エレベータの前に人だかりはできない。向かいあう八基あるエレベータの中二基を間に挟んでも、お互いの姿は確認 できた。

表向きでは高校時代の友達、そんな二人が人前で見つめあうことができるわけもなく、互いの気配を感じながら自分の乗るエレベータを待つ。そうやって、一年 を過ごしてきた。
朝はなるべく時間を合わせる。昼もなるべく時間を合わせる。週末は急な仕事が入らない限りは、飲みに行って、そのままホテルに泊まることが多い。
『話していたら、終電には間に合わなかった』
それは定番の言い訳だった。
『祐貴がつぶれちゃって』
たまには、そんな言い訳も使った。携帯でそう話す俊介の言葉を隣でグラスを手で遊ばせながら祐貴は聞いていた。あまり嘘はつきたくない。けれど、二人の関 係を続けて いくためには仕方ないこともある。誰にも迷惑をかけているわけじゃない、祐貴はそう心の中で自分に対して言い訳をしていた。
自分の気持ちに素直になることは、社会に背くことかもしれない。
それでも、別れたくはなかった。自分の思いを確かめ、また、俊介の思いも確かめたい。多くを望むわけじゃやない。ただ、ひと時の安らぎを望んだ。

八月は社員が交代で休みを取る。新人に優先権があるわけはなく、それでも、休みが重なった二日間で、祐貴は俊介と旅行へ行った。たった一泊を山の中の寂れ た温泉 宿で過ごした。寝るのが勿体なくて、一晩中窓辺で身体を寄せ合った。旅館の後ろを流れる、細く、川とも呼べないような水の流れる音と、時に聞こえる鳥の鳴 き 声が、都会のコンクリートを蹴る音や雑踏とまったく違い、別の世界に来てしまったような気がした。時期的にも外れていたからか、客も少なくて、廊下で出 会ったのは、別の一組のカップルくらいだった。なのに、朝になったら、どこから湧いてきたのかと思えるほどの人がロビーに溢れていて、瞬時に現実に戻され た。
一夜の夢だったのかとも思う。お互いの身体に触れながら、煩わしい現実を全て忘れることができた。

今日から九月に入り、夏休み気分は払拭されるのだろう。新入社員も研修を終え、配属されるはずだった。
祐貴は自分の職場に男性が一名と女性が二名配属されると聞いていた。俊介の部署に増員はないと聞いた。技術部門は社員を取らず、外注で済ませる傾向にある と いう。管理は大変だ、と時々俊介は祐貴にぼやいた。

「新人を紹介するから」
部長の声に、祐貴はメールチェックをしていた画面から顔を上げた。
部長の傍に新人らしい三人が立っている。ゆっくり立ち上がりながら、祐貴はそのうちの一人から視線を外すことができなかった。祐貴に気が付いたらしいその 人物は、口元を緩め軽い笑顔を見せる。
――――可南子
なぜ、ここに?
祐貴の頭の中は疑問が渦巻いて、部長の話も、新人の名前さえ、耳から耳へと素通りしていった。


「……貴」
かけられた声にふっと見上げると、俊介がトレーを持って立っていた。
「どうしたんだよ」
隣の席にトレーを置きながら、俊介が怪訝そうな顔をする。
「え、なんで?」
「なんか、ぼんやりしてたみたいだからさ」
「え、そんなことないよ」
祐貴は顔を伏せた。何かあったとばればれじゃないかと思いながらも、俊介の顔を見ることができなかった。
「この時間にいるってことは、早番だろ。それにしちゃ、まだ半分も手つけてないじゃないか」
俊介が心配そうに言う。
「うん、あんまり食欲なくて。食べる?」
トレーを俊介の方へ寄せた。
「じゃあ、これもらうよ」
食べかけの白身魚のフライを口元へ持っていき、一口かじる。そして、また祐貴の皿の戻した。
「え、いいよ」
何も戻すことはないのに、と思った。何も食べかけの方にしなくても、手をつけていないフライがもう一切れある。
「間接キスだろ」
俊介が耳元で囁く。
そして。
お前も、そう小さく続けた。
ためらっていると、「嫌なわけ?」と不満げに言う。
声に促されて、祐貴は俊介がかじったその先を一口かじった。
「そう、それでいいんだよ」
俊介の満足げな声が言う。
こうやって、少しでも食べさせようとしているんだ、と祐貴は思った。大切に思ってくれていると、手にとるように分かる。
「ホントに、何もないのか?」
少しの沈黙の後、俊介が祐貴に問いかけた。
「明日、話すよ」
できることなら話たくはないし、話すつもりは無かった。けれど、そんなことは言っていられなくなった。人から伝わるよりは自分の口から言った方が良いだ ろうと思う。
「ここでは言えないコトか?」
俊介の声が不安を帯びる。
「うん」
頷くと祐貴は立ち上がった。
「ごめん、俊介」
「ああ、いいよ、別に。時間だろ」
気にするなというように軽く手を振る俊介に、祐貴は笑いかけると、背中を向けた。
謝罪の意味は席を先に立つことじゃない。
――――ごめん
いくら後悔しても、過去は変えられなくて。人は自分が思うようには動いてはくれない。自分でさえ、思いとは違うことをする。

次の日の朝、俊介は前日の話に触れてはこなかった。下手に小出しにするより、一気に聞いた方が良いと思ったからか、それとも、人には聞かれたくない自分達 のことだと思ったのか。たわいもない雑談をしながら、会社へ来ると、いつもどおりエレベータの前で別れた。
「じゃあな、昼に」
「ああ」
まるで、テープで流してもいいような、言わなくても分かっている言葉を、毎回繰り返す。
そこにある言葉は何でも良かった。ただ声が聞ければ良い。人の目のある中で、欲しい言葉を言いたい言葉を出せるはずはなかった。

「祐貴、久しぶりね」
祐貴が部屋に入った途端、まるで待っていたかのように声をかけられた。
「久しぶり、だね」
最後に会ったのは、去年の三月だった。東京へ帰る新幹線のホームに可南子は見送りに来た。
『彼女は待っていてくれるとは限らないんでしょ?』
何度も可南子が繰り返してきた言葉だった。
『それでも、いいんだ』
祐貴はきっぱり、答えた。
可南子は祐貴の好きな人を女だと信じていたし、祐貴にそれを否定する気もなかった。自分には好きな人がいて、可南子の気持ちには応えられない。そのこと に、祐貴の好きな人が男であるか女であるかは関係ない。
『ごめん』
色々な気持ちを込めて祐貴は可南子に言った。
『彼女が待っていてくれなかったのなら、別れる必要はないでしょう?』
『待っていてくれなかったとしても、それで僕の気持ちが変わるわけじゃないから。だから、ごめん』
もう会うことはないね、という気持ちでその時は言った。
『元気で』
四年間過ごした土地はそれなりに、思うこともあって、淋しさもあった。
『祐貴もね』
新幹線がホームに滑り込んできたときに、小さく笑いあって別れた。もう会うこともないだろうと思ったその人が一年後に自分の前に立っていた。

「なんで? って顔ね」
しっかり読まれている。
「驚いた。か……先輩は大学に残るのだと思っていたから」
まだ時間は早いから、広いフロアーには二、三人しかいなかった。祐貴は可南子と話しながら自分の席へ足を向けた。
一年先輩の橋本可南子とはサークルで知り合った。知り合ったというより、構内を歩いていた祐貴にサークルの勧誘で声をかけてきたのが可南子だった。特にや りたいこともなく、断る理由もなく、流されるように入ったサークルだった。
それなりに楽しかったとは思う。楽しむこともモットーに、色々なことをやった。桜が咲けば花見に、蛍の季節になれば蛍狩りに、流行っているとなれば卓球を やり、冬になればスノボーをやり、強制もされなければ、上下関係も厳しくなくて、過ごしやすかったのは確かだし、誘ってくれた可南子に感謝もしている。
「誰も聞いてるわけじゃないんだから、可南子でいいのに」
少し不満げな声を出す。
「そんなわけにはいかないよ」
もう、そんな関係じゃないんだから。
「相変わらず真面目なんだから。まあ、いいわ」
一旦言葉を止めて、
「来ちゃった」
まるで遊びに来たような軽い雰囲気で可南子は言った。
「来ちゃったって……」
「祐貴に会いたかったから」
可南子の言葉に祐貴は言葉を失った。
「まずはさあ、今晩、久しぶりにデートでもしない?」
「今日はだめだよ。先約がある」
可南子とちゃんと話をする機会は作らないといけないだろう。けれど、今日は俊介との約束がある。
「例の彼女?」
可南子はうかがうような声を出した。
「高校時代の友達だよ」
嘘じゃない。
「男?」
「ああ」
「そう」
気が抜けたような声を出す。
「どこで待ち合わせ?」
「会社のロビー」
嘘を言っても仕方がない。後でばれた方がやっかいだ。
「この会社の人なんだ」
可南子は意外そうな声を出した。
「そうだよ」
「紹介して」
「え?」
「祐貴の友達でしょ?」
「ああ、うん。でも……」
「彼女いるの? その人」
「今はいないけど」
「じゃあ、いいでしょう?」
「――――ああ、うん」
祐貴は頷いた。
可南子の意図は分からなかった。けれど、同じ会社の中だ。いつかは知れてしまうことなら、早い方が良いだろう。全てを知った後で、俊介がどう言うか、それ を聞くのは怖い。けれど、黙っていて、いつ分かってしまうかと不安に思っている方が嫌だと思った。


就業後のロビーで、考え事をするように顔を伏せていた俊介が、突然顔を上げた。そして、笑いかけてくる。そして、次の瞬間怪訝な表情に変わった。
「ごめん、待った?」
祐貴が先に声をかけた。
「いや、俺もさっき来たところ」
ちらちらと俊介の視線が祐貴の後ろへ向けられる。
「僕の先輩なんだ」
祐貴が言うと、俊介は意外そうな顔をした。
「へえ」
俊介が可南子へ視線を向ける。
「はじめまして。祐貴のモトカノの、橋本可南子です。よろしく」
後ろから聞こえた言葉に祐貴は身体が固まった。俊介も驚きのまま顔が固まっていた。
祐貴は自分が紹介するから黙っていて欲しいと可南子に言った。不服そうな顔をしながらも、可南子は了解したはずだった。なのに。
「――――そう、なんだ。よろしく。祐貴に彼女がいたなんて知らなかったから、驚いたよ」
少しの沈黙の後、そう言って俊介は口元を緩めた。
「ごめん」
祐貴は俊介に謝ると、顔を伏せた。
「今年の新入社員で、僕と同じ部署の配属なんだ」
そう付け加える。高校時代の友達、というスタンスを俊介はとっているから、それに従う。それ以外に人前でとる道もない。
「へえ、偶然?」
俊介のその言葉に祐貴は少し棘を感じた。
「偶然、ではないですね。入社の条件として希望は伝えましたから」
可南子がきっぱり答える。
わざわざ、モトカノだと名乗り、祐貴と同じ部署に入ることを指名する。そこにはひとつの意図しか見えない。
「でも、祐貴にはもう決まったやつがいるだろ?」
俊介は確認するように祐貴に向かって言った。
「知ってますよ。その人に会いたくて来たんですから」
祐貴への質問を取るように答えたのは可南子だった。
「会いたくてって?」
俊介が可南子を見た。
「でも、ちょっとショック。ただの言い訳かもしれないと思っていたのに、本当にいたんだ、そんな人が」
「言い訳?」
「好きな人がいるっていうのは、断るのは便利な言い訳だもの。初めは信じてたけど、段々現実味がなくなってきて、もしかしたらって思っていたのになあ」
可南子が遠くを見るように、視線を上げた。
「でも、諦めないから。吉沢さん今度その彼女のこと教えてくださいね。じゃあ、祐貴、また月曜日に」
言いたいことを言ってひらひらと手を振ると、可南子はエレベータホールへ戻っていった。
可南子を視線だけで見送ると、祐貴は俊介に視線を向けた。自分から言おうと思っていたことを先に他人から言われてしまった。それも直接的に。
少しづつ順を追って説明しようと思っていた祐貴の考えは、まったく意味の無いものになってしまった。
しばらく可南子の後ろ姿を睨んでいた俊介が不意に祐貴を見た。
「祐貴、行くぞ」
険しい顔をしてがたんと椅子を鳴らし、俊介は立ち上がった。

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