保科の部屋のドアノブを回すと、何の抵抗もなくドアは開いた。部屋の中は暗く、保科がいるはずなのに人の気配がしない。
「保科?」
そう呼びかけても答える声も無かった。
内鍵を閉め、三和土から手を伸ばして明かりをつけると、新田は部屋にあがった。新田の部屋と同じ間取りではあっても、ほとんど家にいることはないからと必 要最小限のものしか置いて いない。ダイニングには、冷蔵庫とこたつ兼用のローテーブルを置いているだけだ。新田が寝室にしている部屋に机とベッドを入れている。そこで仕事で もしているのかと、新田はドアをノックしたが、それにも返事は無かった。
「開けるぞ」
そう声をかけてドアノブを回した。開いたドアの向こう、机に向かっていた保科は、今やっと気づいたという風情で後ろを振り返った。
「新田」
「仕事中か?」
保科の後ろまで行き、保科が今まで向かいあっていたパソコンの画面を覗こうとすると、保科はそのノートパソコンの蓋を閉じる。
「あ、うん」
答えとも思えない相槌を打つと、保科はそのまま、席を立ち部屋を出て行った。新田が保科の後に付いて行くと下駄箱の上のある蓋のついた箱から何かを取り出 し、新田の方へ向き直る。
「これ」
そう言って保科が差し出さしてきたものは合鍵だった。
合鍵を取りに行くと言ったのは新田だ。しかし、こうあっさりと渡されると気が抜ける。もしかすると、自分達は保科のお荷物だったのかという考えさえ浮かん でくる。
手を出さなかった新田に、保科は合鍵を下駄箱の上に置くと「ここに置いておくよ」と言い、新田をすり抜けて奥の部屋へ戻っていった。保科はまっすぐ机へ向 かうとパソコンの蓋をあける。
「保科」
新田は部屋の入り口から保科に声をかけた。
何か言う言葉さえないのだろうか、と思った。恨み言でも愚痴でも。
「雄太、一人なんだろ。早く帰ってやれよ。夜も遅いし」
後ろを向いたまま、保科が応えた。
そうやって、いつも雄太のことを気にかけている。

「仕事忙しいのか?」
続けて問いかける。このまま帰るつもりは無かった。合鍵を返してもらいに来たわけじゃない。
「二つあげたばかりだから今はそんなことはないよ。今やってるのは納期が来月末だからそんなに急ぐ必要ないし」
保科はパソコンに向かいながら答えた
「なら、コーヒーの一杯でも入れてくれないのか?恋人が来たっていうのに」
開いているドアから光の筋が通っているだけの薄暗い部屋の中で、保科の身体がぴくっと小さく動く。
「雄太、一人じゃ危ないだろ」
出る言葉は雄太――――だけだ。
「大丈夫だよ、鍵をかけてきたし」
「起きたときに、淋しがるんじゃないのか」
いつも気にかけるのは雄太のことだ。
「あいつはもう三歳児じゃないんだから、起きたとたん泣きながらお前を探すなんてことしないよ」
もう、あいつはそんなに気にかけてやらなくても良い歳のはずだ。
保科のため息が小さく聞こえた。
「――――そんなこともあったね」
言いながら、俯く。
怖い夢を見たと、泣きながら雄太が保科を呼んでいたのはついこの間のことのようにも感じる。
「大きくなったって喜ばなきゃいけないんだよね」
そう、保科は続けた。大きくはなっても基本的には変わりはしない。
「雄太の反抗の原因が分かったよ」
新田の言葉に保科が弾かれたように、振り返った。
「分かったのか?何だって?」
「知りたいか?」
言いながら、意地悪だな、と新田は思った。あっさり合鍵を返そうとした、そんな保科の態度に反抗してやりたかったのかもしれない。自分の感情を子供っぽい と思いながらも、抑えることができない。こいつは自分を思っていると常にそう感じていたい。
「知りたいけど……」
保科が視線を伏せる。拒絶される理由など、普通は好ましくないものだ。知ったところで辛いだけかもしれないと思うのだろう。

新田は部屋のドアを後ろ手で閉めると、ベッドの縁に腰掛けた。
「こっちへ来いよ。教えてやるから」
部屋の明かりはついていない。カーテンが引かれていない窓から入ってくる街頭の明かりがほのかに部屋の中を照らす。パソコン画面の明るさに保科の顔は逆光 になって、表情は分からなかった。
「ここで聞くよ」
沈んだ声で保科が言った。
「じゃあ、教えてやらない」
ここでは引けないと、新田は突っぱねるように言った。こっちへ来いよ、そう暗に誘いながら。
「なら、いいよ。早く帰ってやれよ」
保科が新田に背を向ける。こんなことは初めてだった。いつもは従順すぎるくらいに、新田に従うやつだ。
まるで、新田の存在を無視するかのように保科はキーボードを打ち始めた。
「お前、俺と別れる気?」
新田の言葉に保科の手が止まる。
「その方がいいだろ」
そう言葉にすると、保科はまたキーボードをたたき始めた。
「なんでだよ」
それは愚問だったかもしれない。もう来なくて良いと言ったのは新田だ。
「なんでかは分からないけど、雄太にすごく嫌われたみたいだ。僕は雄太の傍にいない方が良いだろ?それを亨も納得したんだろ?」
言葉は問いかけであるのに、保科の気持ちは決まっているのだろう。
直ぐにでも、ここを引き払うつもりかもしれない。それは、誰も望むことじゃない。
「待てよ。雄太がいつお前を嫌ったんだよ」
実の父親以上に懐いてるのに。
「亨は知らないから――――」
途中で言葉を止めた保科の言わんとするところは、今日の雄太の言動なのだろうか。
「雄太は泣いてたよ。自分のズボンも俺のシャツもぐちゃぐちゃにするぐらい、泣き疲れて寝てしまうくらい」
「何か、あったのか?」
振り返り、不安そうな声を出す。
「だから、教えてやるからこっちへ来いよ」
言葉で誘うことがじれったいと、新田は初めて思った。
強引に抱き込んで、ベッドへ押し倒すのは簡単なことだろう。保科が抵抗するとは思えなかった。けれど、来て欲しいと思う。きっと自分も不安なんだ。あいつ が本当に望んでいるのは何か、それが。

「大丈夫なのか?雄太一人にしておいて」
「ちゃんと飯食わせて、風呂入れて、寝かせてきたよ。だから遅くなったんだ――――雄太は、お前が作ってくれたカレーを食べたよ」
最初の一口は躊躇っていたけれど、食べ初めてしまえば直ぐに空にしてお替りまでした。
誤解が解けてしまえば、何も意地を張ることはない。きっと毎日、雄太は保科が作っていってくれたものを食べたかったのだろう。
保科は「え」と小さく声を上げた後、ゆっくりと息を吐いた。
「――――食べないって言ってたのに?」
「ああ、ちょっとした誤解があっただけだよ。だから教えてやるから、こっちへ来いよ」
早く、来てくれよ。そう心の中で付け加える。
「でも、亨がもう僕は来なくていいって言っただろ。雄太と話し合った結果だって」
まるで意地を張ってるように保科が言う。
言った言葉は返らない。そこに、どんな理由があろうと。
「そう言わないと、雄太が理由を教えないって言ったからだよ。俺がお前に本気でそんなこと言うわけないだろ」
雄太よりお前をとると、そう何度も新田は保科に言ってきた。それほど、失いたくないやつだ。
「嘘だったのか?」
「あれは、嘘なんかじゃないよ。でたらめだよ。お前が辛い気持ちになるかもしれないとは思ったけれど、雄太に本当のことを言わせるには仕方なかったんだ よ。ごめんな」
保科のことを気にはしても、あのときは雄太の方が先決だった。雄太の口を割らなければ、先は無かった。
「じゃあ」
「明日雄太にちゃんと謝らせるよ。ずいぶん酷いことも言ったみたいだな。許してやってくれ」
「雄太はなんて?」
「それ以上は、ここに来ないと言わない」
こんな離れたところからではなく、体温を感じる位置で向き合いたいと思う。
保科はパソコンの蓋を閉じると、ゆっくりと席を立った。躊躇いがちに歩いてきても、ベッドまでは三歩もない。隣にゆっくりと腰を下ろすと、新田を見上げ る。
「雄太は何だって?」
見上げる保科の頬を、新田は優しく撫でた。
「亨?」
保科の顔がゆがむ。
手 であごを捕らえると、新田は保科の唇を塞いだ。離れようとする保科の頭を抱えて唇を貪る。それでも、保科は腕で新田の身体を押し、顔を捩ろうとする。離さ ない、と強く抱きこんだ。それでも逃げようとする。そんな抵抗も、そのうち諦めて、大人しくなったところで、新田は保科をベッドへ押し倒した。
唇を離して、首筋に顔を埋めると、保科が文句を言った。
「理由を教えてくれると言っただろ」
それは、何かを諦めたような声に聞こえた。
「お前の幸せって何?」
そう訊いた新田に、保科は「え?」と返す。
「俺はお前を自分の腕の中に抱き込んでいる時が一番幸せなんだけど。お前は違う?」
「今更だよ。決まってるだろ」
不満げな声でも、それは、肯定としか聞こえなかった。
「でも、お前の優先順位の一番はいつも雄太だ」
いつでも、そう、いつでも。たとえ、身体を重ねていても、雄太に呼ばれたら、腕を抜け出していってしまうだろうと思えるほど。
「亨は、優先順位の範囲外だよ」
そう言った保科は新田の首に腕を回した。「亨に抱かれているときは、亨しか感じない」
「雄太に呼ばれたら?」
「聞こえてないから分からないよ」
「ホントか?」
ちょっと信じ難いけれど。
「本当だよ」
「じゃあ、今からお前を幸せにしてやる」
本当だと言うなら。
「雄太は?一人にしておいて大丈夫なのか?第一、理由を教えてくれるって言ったのはどうなったんだよ」
揺れる瞳が訴える。
結局は雄太だ。
「いいんだよ。雄太が言うんだ。お前に幸せになってもらいたいって」
「それって、どういうコトだよ」
「そういうことだよ」
「わかんないよ」
「お前にお嫁さんが来ることが、お前の幸せだと思ったみたいだ。お前、由子先生に口説かれてたんじゃないの?」
雄太の話はそうとしか取れなかった。
「そんなんじゃないよ。由子先生は、ただ、心配――――」
はっとしたように、保科が言いかけた言葉を止める。
「なんで身体の具合が悪いって言わないんだよ。おかげで俺は散々雄太に詰られたんだぞ」
「大げさなんだよ。ちょっと疲れが溜まってただけだよ」
「雄太はお前が幸せになるには自分が邪魔だと思ったみたいだ。祐兄が幸せになれるなら、淋しくても我慢するって雄太は言ってたぞ」
「雄太が――――」
「お前を幸せにできるのは、俺だけだろ?」
「亨」
「だから」
新田は保科のシャツのボタンを外しながら、首筋に唇で触れた。保科の身体から硬さが抜けていくのが伝わってくる。感じる鼓動がゆっくりしたものになってい く。
新田の首に回されていた保科の腕が、腕躊躇いがちに新田を抱きこんできた。
「いいのかな?」
「ん?」
「亨を好きでいて」
「それでなきゃ、俺が困るんだよ」
雄太も。そう付け加えて、肩口にキスを落とすと保科の身体がぴくっと小さく跳ねた。
「よかった」
呟くような小さな声聞きながら、新田の心からも不安が消えていく。
不安が消えてしまったからか、尚一層愛しく感じた。
自分にはこいつを抱いてやることしかできないから、手を唇を保科の身体に這わせる。そして、自らも溺れていく。
「あ……、あ、亨」
切れ切れにあげる保科の切なげな声と息に煽られる。突き上げて、突き上げて、これ以上ないくらいの愉悦を与えてやりたいと思う。
「ん……っ――――あぁ」
揺れながら堪えきれないように捩れる身体は愛しくて、絶対に手放したくはない。
だから――――誰にも渡さない。絶対守ってやる。


次の日。
「祐兄、ごめんなさい」
そう言った雄太に、保科は昔話をした。額が触れ合うほど近い距離で、雄太は保科の話を大人しく聞いていた。
学生時代から社会人を通じて、新田と保科がどういう付き合いをしていたか。
高校時代に友達とトラブルを起こして、それから人と付き合うことに臆病になったこと、それで、からかわれたり、嫌がらせがあったこと、その度に新田が庇っ たこと。辛い時には傍にいてくれたこと。けれど、それが雄太の母親を悲しませてしまったこと。
「新田は一番大切な人なんだ。傍に居て少しでも何か役にたてることが嬉しいんだよ」と言った保科に雄太は不服そうな顔をした。
「面倒なこと全部祐兄におしつけてるだけなのに?」
「違うよ」
保科はきっぱり言った。
「一番面倒なことを新田は受け持ってくれているんだよ」
そう続けた保科に雄太は口を尖らせる。
「父ちゃんは何にもしてないじゃん」
「日常はただこなせば過ぎていく。でも、何か起こった時に、何かを選ばなければいけなくなった時に、逃げてしまう人は多いんだ。でも、新田は、雄太の父 ちゃんは違う。逃げないで、裏切りもしないで、受け止めてくれる。傍に居て一番安心できる人なんだよ」
諭すようにいう保科の声に新田は少し恥ずかしさを感じた。自分はそんなに偉い人間じゃない。結局誰も幸せにはできていない。
「そんなことないよ」
納得できないと言った顔の雄太に、保科は笑いかけながら頭を撫でた。
「そのうち分かるよ」
言いながら笑いかける保科に誘われるように雄太の不満顔も薄れていく。
二人から少し離れたところで、新田はぼんやりと話を聞いていた。まるで、保科から自分への告白だととれるような内容に、やめておけよと口を挟みたくもなっ たが、やめておいた。保科の思うようにすればいい。それを受け止めるのが自分の役目だ。
「ホントにいいの? いいんだよ。ケッコンしても」
そう言った雄太の顔は真剣だった。
「する?雄太とならいいよ。しても」
保科が笑いながら答える。
「ケッコンって女の人とするんだよ」
「じゃあ、しなくていいよ。雄太とできないならいい」
「祐兄」
じれったそうに雄太が言う。
「それくらい雄太が可愛いんだよ。一番大切なのは新田だけど、一番可愛いのは雄太だ」
「でも」
「ねえ、雄太、新田のことを亨って呼んでいいかな?」
保科が雄太の顔を覗き込む。
「え、なんで、そんなコト訊くの?いいよ。オレだって友達はみんな名前で呼んでるよ」
「そうか、良かった」
「ねえ、そうじゃなくて」
いらいらが雄太の声から読み取れた。
「亨がいて、雄太が笑ってる。それが一番だよ」
保科が軽く微笑む。
思い通りの返事をくれない保科に、雄太は不服ながらも諦めたような顔をした。不服そうなのに、その顔はどこかほっとしたような顔にも見えた。
雄太が寝てしまった後で、ソファで肩を抱きながら、新田は保科に対して不満を口にした。
「俺は知らなかったよ。お前の高校時代に何があったのか」
「うん。言う必要も、機会も無かったから」
保科は新田の視線から逃げるように視線を伏せた。
「知りたいけどな。俺はお前のことなら何でも」
新田は保科の顔を窺うように覗きこんだ。
「――――噂がね」
保科は少しの沈黙の後、ぽつりと言った。
「友達とできてるって噂が流れて、からかわれただけかもしれないけど、僕はこんなだから、実際そうなんだけど、そういう指向だと見られていたのかもしれな い。それで、その友達からきれいに切られた。本当に、まるで今までのことが無かったみたいに」
保科が遠い過去を思い出すように、言葉にする。
穏やかな声なのに、切られたという言葉は、胸をきゅっと締めつけて、新田は肩を抱く手に力を加えた。
今でさえ、中性的な雰囲気を持つ保科は、高校時代は更に輪をかけるようだったのだろうと、想像はできる。
「でも、他に友達もいたし、酷いいじめとかあったわけじゃなくて、今、思えば、からかわれただけなんだと思う。あの時は自分でもそういう指向があると自 覚もなくて、でも、やっぱ突然友達に切られたのは辛かった」
「そんなことがあったのか」
何事も穏便に済ませようとするのは保科の本質だろう、とは思う。けれど、更に摩擦を起こしたくないと思ったのはそんな経験からなのかもしれない。
「亨は、受け止めてくれたから。亨はずっと受け止めていてくれる、そう思っていたから、もう来なくていいって言われたときは……ちょっと、きつかった」
保科の声が沈む。
「ごめん。雄太に理由を言わせるのはああするしか」
分かっていた。けれど、あの時は仕方なかった。
「ううん。いいんだ。僕は全部雄太に押し付けていた。雄太がいるから、そう言い訳していた。本当は、亨の傍に居たかったからなのに」
「裕紀」
「僕が悪いんだ。ごめん」
「お前が謝ることなんてないだろ」
新田は保科の頭を抱え込んだ。言葉なんかじゃもどかしい。傍に居たかったのは自分の方だ。
「ずっと、亨の傍にいたい。ダメかな?」
保科が不安そうな声をだす。
「良いに決まってるだろ」
保科の問いかけに新田は間髪を入れずに答えた。
何処にもやらないさ――――そう心の中で呟きながら新田は保科を更に強く抱きしめた。


「ご飯ができたぞ」
新田が声をあげると、雄太が大きな声で「うん」と返事をした。
「祐兄呼んでくる」
声をあげながら雄太は元気に玄関を飛び出して行く。
「また、カレー?」と不満声をあげていた雄太は、「文句があるのか?」と新田が訊くと「ううん」と口だけは否定した。
雄太が反乱を起こしてから生活は少し変わった。
土曜日の食事当番は新田で、日曜日は雄太がやると言った。ほとんど保科におまかせの状態はあまり変わらないが、それでも少しは違うだろう。その二日、保科 は仕事に専念できる。と言っても、雄太が一人で作れるはずはなく、今は保科が手を貸している。
平日は雄太が寝ると保科は家に帰り、新田が会社帰りに保科の家に寄るようになった。夜、新田のベッドは空であることが多くなったけれど、雄太はそれを知ら ない。


Fin


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