雄太の気の済むように――――そう言った保科の言葉を頭の中で繰り返し、新田は雄太には何も言わず好きにさせた。毎日、保科は食事の支度をしておいてくれ
た。そして、雄太も毎日コンビニの袋をダイニングテーブルの上に放ったままにしていた。どちらが先に音をあげるか。それを見守っているしかないと、そう新
田は思っていた。しかし、我慢できなくなったのは新田だった。
雄太が反抗し始めてから、一ヶ月が経っていた。その日、新田は定時に会社を出て家に帰った。
いいかげん、雄太の我が侭をやめさせる。そう思って新田は家の玄関を開けた。
雄太っ、そう叫ぼうとしたとき、ダイニングテーブルでうな垂れている雄太の姿が目に入った。
テーブルの上にはほとんど手をつけられていない、弁当が広げられている。そして、空のカレー皿があった。部屋の空気から今日保科が作っていったのはカレー
だと、わかる。週末便利なようにと思ったのだろう。
嗚咽らしい声が微かに聞こえ、それは雄太のものだろうと新田は思った。雄太が微かに身体を震わせていた。
雄太を怒鳴り散らしてやろうと思っていた意欲をそがれて、新田は部屋へあがると、雄太の横にしゃがみ雄太を見上げた。
声にならないような嗚咽と、身体を震わせて雄太は涙をこぼしていた。ぼろぼろと落ちてくる涙がズボンを濡らしている。新田が帰ってきたと分かっているだろ
うに、雄太はただ泣いていた。
「雄太?」
あの子なりに辛い思いをしているはずだ、と言った保科の言葉が浮かぶ。
呼びかけた新田に雄太の返事はなかった。啜り上げるような声をあげ、身体を振るわせる。落ちる涙は止まらない。
新田は腕を伸ばし雄太の頭をそっと抱きこんでやった。憎らしいことを言っても、やっても、つまるところ自分の子供だ。放っておくことはできない。
「どうかしたのか?」
抱かれたまま、雄太は涙をこぼしていた。ワイシャツに涙がしみて、しみは広がっていく。雄太の涙が冷たくなって肌に触れる。
今まで、雄太がこんなふうに泣いたことは無かった。保科の前ではどうかは分からないが、雄太が泣いたと話に聞いたことさえなかった。
すすりあげる雄太の声が新田の耳元で響く。
「どうしたんだ?何があったんだ。言ってくれなきゃわからないだろ」
怪我をしているようでも、どこかが痛いわけでもなさそうだった。雄太を抱きとめた腕から切なさが伝わってきて、それは理由もなく胸を締め付ける。
「とう……ちゃ」
啜り上げる声の中で、やっと言葉を口にすると、雄太は新田に抱きついてきた。新田は雄太を受け止めると、頭を優しくさすってやった。
今雄太が泣いているのが保科と関係あるかは分からない。けれど、何か辛いことを抱えているのは確かなのだろう。
演技だとも思えなければ、今日新田が早く帰ってくることなど雄太は知らない。
新田はしばらく雄太を抱いていた。時折、頭や背中をさすってやる。まだ小さな身体だ。こんな身体で何を抱えていたのかと思うと切なくなる。それを、見抜い
てやることもできなかった。
「とうちゃ……ん、祐兄にもう来ないでいい、って言ってよ」
まだ、啜り上げる声をあげながら、雄太が言葉にした。
「オレ、祐兄なんか……大きらいだよ。もう、来て欲しくない」
涙をこぼしながら、雄太が訴える。
「何があったんだ?」
新田は雄太の身体を揺らした。
何があったのだろうか。保科が雄太に危害を加えるとは思えない。それも、ついこの間まで雄太は保科に懐いていた。保科にも雄太に突然来るなと言われる心あ
たりはないようだった。顔色にも何かを隠しているようには思えなかった。
雄太は新田の問いには答えられないとうように口を噤む。その間も、涙は雄太の頬を流れる。
「来るなと言って欲しいなら理由を言えと言っただろう」
納得できる理由を。それがなければ、何も進まない。
「言ってくれたら――――祐兄にもう来ないでくれって父ちゃんが言ってくれたら……言う」
振り絞るように、最後はやっと聞こえるような小さい声で雄太が言った。
「絶対だぞ」
念を押した新田に雄太はしぶしぶ頷く。
新田は上着のポケットから携帯を取り出すと、保科の番号を押した。
雄太が耳を清ますようにうかがっている。誤魔化すなんてコトはできないだろう。
携帯の着信は直ぐに通じた。
「はい」と応える保科の声が流れてくる。
「俺」
「何かあったのか?」
間髪を入れずに訊いてきた保科の声に慌しさを感じた。これだけ思ってくれるやつの気持ちが、なんで分からないんだと思いながらも、新田は雄太との約束の言
葉を告げた。
「保科、もう、うちに来てくれなくていいから」
言いながら、本心ではなくても、胸がつぶれそうになる。
「何かあったのか?」
怪訝そうな保科の声が答えた。
「雄太と俺の話し合いの結果だよ。そういうわけだから、後で合鍵を返してもらいに行く」
「新田?」
保科の問いかけには答えずに、新田はラインを切った。
「これでいいか?」
新田は雄太に視線を向けた。
耳を清まして、保科の声を聞いていたのだろう、頬に涙の跡をつけたまま、雄太はほっとしたような顔で頷いた。
「じゃあ、理由を言えよ。約束だろ」
新田の言葉に雄太は「ん」と答えると、そのまま新田の腕の中で凭れるように目を閉じた。閉じた瞼が一度開いて、でも、耐えられないように、また閉じる。
「雄太?」
問いかける新田の声をよそに、雄太は寝息を立て始めた。
「反則だぞ。お前」
寝顔に向かって文句を言った。
理由を言うと言ったから、保科に伝えたんだ。
だからと言って、新田はすやすやと寝ている雄太を起こすこともできなかった。
着替えさせてベッドの中に雄太を入れると、新田は枕元で雄太の寝顔を見ていた。さっきまでぼろぼろ泣いていたのが嘘のように、穏やかな顔をして寝ていた。
何を考えているのか、子供とは言っても別の個体なのだから分かるはずもない。
二時間は経っただろうか。
「とう、ちゃん?」
雄太が薄く目をあけた。その声がいじらしくて新田は雄太の髪をくしゃっと撫でた。
「気は済んだか?」
雄太の顔を覗き込みながら、新田は声をかけた。
雄太はしばらくぼっとして視線を彷徨わせていたが、「うん」と答えて頷く。
「じゃあ、約束を守ってもらおうか」
そう言いながら新田はもう一度雄太の髪をくしゃと撫でた。
理由を言うと言ったから、辛い言葉も口にしたんだ。雄太も言いたくはないのかもしれないが、それを許すわけにはいかない。
「とうちゃん」
雄太が布団から抜けて、新田の身体に腕を回してきた。応えるように、新田は雄太の身体に腕を回した。
「何を言っても怒らないから」
雄太の背中を撫でながら、そう囁いた。
この間とは違う。今ならきっと感情的になって雄太をひっぱたくことはしないだろう。一人で肩を震わせて、泣いていた雄太を責めることはできない。
「祐兄には、お嫁さんが必要なんだ――――オレたちの世話してたら、祐兄はお嫁さんをもらえない」
雄太は小さな声で、呟くように言った。
どこからそんな話がでてくるのかと、新田は雄太の顔を覗き込んだ。
「なんでそんな話になるんだ」
「だって、そうだって由子先生が言ってた」
由子先生?
それは雄太が保育園で世話になった保育士の名前だった。
保育園を卒園して三年も経とうとしているのに、なぜ今頃でてくるのか分からない。
「いつ、由子先生が言ったんだ? 由子先生に会ったのか」
問いかける新田に、雄太が頷く。
「公園で弘樹たちと遊んでいたときに、由子先生が歩いてるのが見えたから、由子先生って呼んだんだ。そうしたら、由子先生が来てくれて」
「それで?」
「ブ
ランコに座りながら話してたら、雄太くんのお父さんは保科さんのことどう思ってるのかしらって言うんだ。とうちゃんが、いつも言うから、お友達だよって
言ったら、由子先生がそうじゃないって、便利に使ってるみたいだけど、あれじゃ保科さんが可哀想だって言うんだ。オレたちの世話ばっかりしてたら、お嫁
さんをもらえないって」
雄太がきゅっと新田にしがみつく。
「それで?」
新田は雄太の頭を撫でながら先を促した。
「お嫁さんって必要なの?って訊いたら、そうよって。仕事も持ってオレたちの世話するのは大変だって、それに、自分の子供でもないオレをとっても可愛がっ
てるからきっと子供も好きで、自分の子供が欲しいと思ってるって」
「雄太――」
新田は思わず口を挟んだ。それは違う、と言おうとした新田に雄太がかまわず言葉を続ける。
「由子先生が祐兄とスーパーで久しぶりに会ったとき、祐兄
は身体の具合が悪そうだったって、あんまり悪そうだったから、通り道だし、荷物持ってあげたんだって、それで、家に着いた途端、祐兄うずくまちゃって額に
手を当てたらすごく熱が高くて、大丈夫だからって言われたけど、帰れなかったって由子先生言ってた。薬買ってきて飲ませて、寝てなきゃだめだって言ったの
に、オレの食事の支度しなきゃいけないからって」
雄太が詰まったように口を閉じた。
「とうちゃんがいけないんだ。とうちゃんが祐兄ばっかりになんでもさせるから」
再び開いた口は、新田を責める言葉を告げる。
「そうだな」
新田に反論する言葉はなかった。
「最初からそう言ってくれれば良かったんだ。なにも、嫌いだなんていうこと無かっただろ」
そうすれば、保科を悲しませることも無かった。
「だって、父ちゃんに祐兄は結婚しないの?って訊いたら、そんな事気にしなくて良いって言ったじゃん。、祐兄だって心配しなくていいって言うに決まって
る。祐兄は優しいから。いつだって、優しくしてくれるから」
雄太の手が新田のシャツを掴んだ。小さな手がくしゃっと衣擦れの音をたてる。
「だから、もう保科に来なくていいって言ったのか?」
無言のまま雄太は小さく頷いた。
雄太の口から保科の結婚なんて話はでただろうか、と新田は思い起こしてみたが記憶すらない。
確かに雄太の言うとおりかもしれない。現に今も雄太の言葉を止めようとした。保科に女はいらない、それは新田と保科の認識ではあっても、世間では違う。雄
太には分からないことだと、取り合わなかったかもしれない。
新田は雄太を抱いていたわき腹に冷たいものを感じた。見ると、雄太の頬が濡れている。
「なんで、泣くんだ」
泣くのはお前じゃないだろう。泣きたいのはきっと保科の方だ。
「祐兄が――――」
「保科がどうかしたのか?」
「今日、学校から帰ってくるのが早かったんだ。家に帰ったら祐兄がいて、ごめん、すぐ帰るからって言うんだ。来るなって言っただろって言ったら、また、ご
めんって、何
作ってったって食べないよって言ったら、気がむいたら食べてくれればいいからって、外食は飽きるっていうからって言うんだ。余計なお世話だよって言った
ら、ごめんって、いつもの優しい顔で言うんだ、でも、なんかすごく淋しそうで」
「雄太、保科は――――」
言いかけた新田の言葉を遮るように、雄太がかぶりを振る。
「怒ればいいのに、怒ってもう来てやらないって言えばいいのに。祐兄が謝ることなんてないのに。祐兄が」
思う通りにならない雄太のじれったさが伝わってくる。
「保科はお前が可愛いんだよ」
それは嘘でも冗談でもなく、そうでなければ続けることはできないだろう。
雄太が睨むように新田を見上げた。
「オレ、祐兄の子じゃないもん。ホントに父ちゃんが祐兄だったらよかったのに。そうしたら、祐兄と一緒にいられるのに」
「じゃあ、俺はどうなるんだ」
雄太の物言いにお前の本当の親は俺だぞ、と言いたくなる。
「知らないよ。祐兄に面倒なこと全部押しつけて、楽ばっかしてる父ちゃんなんて、いらない」
そう言いながら、雄太は新田にしがみついてくる。言ってることとやってることが違うだろ、と思いながら新田は雄太の頭を撫でてやった。
「祐兄、幸せになれるかな」
ぽつりと雄太が言う。
「ん?」
「もう、うちに来なくていいんだから、好きなコトして幸せになれるよね」
好きなコトして幸せ?
「俺は、そうは思わないな」
保科が望んでいるのは、雄太が思うことじゃない。
「なんで?」
「保科はお前が可愛いから」
一番言葉にし易いことだ。雄太が可愛いから、雄太には世話をしてくれる人が必要だから。雄太が――――そう言っていれば世間では通用する。
「じゃあ、どうすればいいの?」
雄太が不安げな瞳で見上げる。
「ん」
どう言えば、雄太にはわかるのだろう。
「祐兄が好きだよ」
「ん」
「でも、オレは祐兄の邪魔にしか、ならないんだもん」
「なんで邪魔なんだ?」
保科はお前を可愛がってるだろ。
「だって、祐兄はオレがいるから、お嫁さんがもらえないんでしょ。熱があっても休めないんでしょ。仕事もできないんでしょ。だから、祐兄が好きなことでき
るように、って思ったのに。祐兄、淋しそうな顔してた。でも、ホントに淋しいのはオレなのに。祐兄がいたらなあって、祐兄が来なくなってからずっと思って
た。でも」
「でも?」
「でも、それじゃあ、祐兄が幸せになれないっていうから我慢してたのに。祐兄に会いたいって思っても我慢してたのに」
雄太がぼろぼろと涙をこぼしながら、訴える。
「お前が我慢することはないよ」
「じゃあ、どうすればいいの?どうすれば、祐兄は幸せになれるの?」
雄太が瞳を潤ませながら新田を見上げる。
その言葉に、新田は答えてやれなかった。
「とうちゃん、ずるいよ。祐兄がいなくなると自分が困るからそんなコト言うんだ」
それは図星だ。それは絶対に困る。
「保科の幸せはお前が決めることじゃないだろ。ちゃんと訊きもしないで――――雄太、お前に保科がもうお前なんか来るなって言ったら、どう思うんだよ」
少し収まっていた雄太の涙がまた、零れてくる。
「そんなこと、祐兄は言わないもん」
「お前は言ったんだろ」
新田の言葉に、雄太の顔がゆがんだ。
「明日、ちゃんと保科に謝れ。そして訊いてみたらいい。本当はどう思っているのか」
「だって、祐兄は優しいから、本当のこと言ってくれるとは限らないじゃんか」
「大丈夫だよ、雄太」
あいつは嘘なんていえるやつじゃない。
不服そうな顔をする雄太に、新田は「大丈夫だよ」と繰り返した。