雄太の反乱


子供の成長は早い。
雄太が順調に育ってくれれば良い、それは保科の願いであり、もちろん新田の願いでもある。
気がかりな事は母親の不在だった。父親である新田がいないときは保科が雄太の世話をするとは言っても、母親ではない。
ただ、最近離婚家庭が増え、母親がいない家庭も多くなった。保育園でも例外ではなく、母親がいないことで雄太が苛められることはなかった。それは、なによ りも救われることだった。
保育園を卒園し、小学校に入学し、まだ幼い顔立ちと素直な言動に反抗期は当分先のことだろう、そう新田は思っていた。
けれど、それは突然やってきた。

土曜日、三人で夕食を囲み、保科が家を出ていったのを見計らったように、雄太が口にした。
「ねえ、もう祐兄、来てくれなくていいよ」
ダイニングテーブルで頬杖をつきながら、新田を見上げる。
それは自分の息子が言った言葉なのだろうかと新田は自分の耳を疑った。
「何を言っているんだ」
驚きで口調がきつくなる。
「もう、祐兄に来てもらわなくていい、って言ったんだよ」
「お前、自分の言っていることがわかっているのか?」
何故、雄太がそんなことを言い出したか新田にはわからなかった。授業参観に保科が来てくれたと喜んでいたのは、ついこの間のことだ。
「だから、もういいって。だって、おかしいよ。自分の家でもないのに、料理したり、アイロンかけたり、なんで世話してもらわなきゃいけないんだよ」
学校でからかわれることでもあったのだろうか。雄太の言葉を聞きながら新田はそう思った。他に心当たりはない。
「誰かにからかわれたのか?何かあったのか?」
学校で、もし雄太が苛められたりした、というのなら今の形を考えなければいけないのかもしれない。
「別に、何もそんなことないよ。ただ、そう自分で思っただけだよ」
「お前は、あいつのおかげで大きくなったんだろ」
つい本音が口から出てしまった。まだ一人で歩けなかった頃から、世話をしてきたのは保科だ。懐いていたはずだ。
「そんなの――――オレが頼んだわけじゃないし。勝手に来て、勝手にやってただけじゃん」
雄太が不服そうに口を尖らせる。
その言葉に驚きというより怒りに近いものが背筋を駆け上がってきて、新田は浮かせてしまった手を留めて拳に握りこんだ。
「そんなことは、絶対あいつの前では言うなよ」
じりじりと這い上がってくる怒りに頭が沸騰しそうになる。保科がこの十年一番気にかけてきたのは雄太のことであるのに、それが雄太に通じていなかったこと が新田には情けなかった。普通じゃない、それは自覚している。けれど、普通であるよりも大事な事はあるはずだ。
「――――オレが言う前に、父ちゃんからもう来なくていいって言ってよ」
雄太がふてくされたように言った。
「お前は、何もわかってないっ」
新田は思わず叫んでいた。
「分かってないのは、父ちゃんの方だよっ」
言い捨てると、雄太は新田を睨み乱暴に席を立ち、自分の部屋へ飛び込んだ。新田は雄太を目では追いながら、実際に追うことができなかった。身体が動かな い。雄太が口にするとは思っていなかった言葉が突然でてきた事に身体も頭もついてこない。
世間からずれている認識はある。新田と保科の関係は世間では認められないことだ。だから、住まいを別にして、表だっては友達だという関係になっている。そ う、保科が望んだ。そして、それは、雄太がいる以上、正しい選択だと思える。
雄太に自分達の罪を被らせるわけにはいかない。
けれど、雄太が自分を責めることはあれ、保科を拒絶することはないと新田は思っていた。
幼 い頃から、雄太は保科には素直だった。新田の言うことは聞かなくても、保科に言われると、不満そうな顔をしながらも従ったものだ。だから、何かがあったと きに、雄太は保科につくと思っていた。まだ先だと思っていた反抗期でも、保科の言うことなら聞くのではないか、とさえ思っていた。そんな雄太が口にした 言葉を、新田は信じられなかった。

「もう、来なくていい? なんでそんなこと言うんだよ」
新田は呟きながら、頭を抱えた。保科には聞かせちゃいけないと思う。どれだけ保科が傷つくか、そんなことは計り知れない。何よりも一番に、傍から見ていて そう思ってくれているのが分かるほど、保科は雄太に愛情を注いでくれた。母親がいない雄太を淋しがらせることがないように、保科は雄太を一人にすることは なかった。
毎年来るクリスマスに、保育園ではイベントがあった。サンタクロースが持ってくるプレゼントを作るのは親だ。仕事もあり、子供に見つからないように作らな ければいけないプレゼントをあいつはいつ作っていたのか。そんなのは親の事情だと言われても、あいつが自分を犠牲にしてやってくれたことは大きい。なの に、それが全て無駄だったようなことをなぜ言うのか。
「分かってないのは、俺だって?」
分かってはいる。分かってはいても、できないことはある。そんな自分にいらいらすることはよくある。保科を楽にしてやりたい。あいつを失わずに楽にしてや れることはないのだろうか、心も身体も。それができない自分が、歯がゆい。

次の日、新田は起きてきた雄太に釘をさした。
「昨日の話は、絶対に保科に言うな。絶対だぞ。あいつは、お前のことを一番に考えてるんだぞ。なのに、お前がそんなことを言ったら、あいつがどう思うと思 うんだ」
絶対に言うなよ、そう繰り返した新田に、
「余計なお世話だよ」
雄太はそうポツリと言うと、ダイニングテーブルについた。
トーストとハムエッグの朝食は味気なかった。大した料理じゃないが、味はいつもと同じであるとは思う。なのに、妙にパンはぱさぱさしか感じがしたし、卵も ぼそぼそしているように感じた。原因は目の前でふてくされている雄太の顔だろう、と新田には分かっていた。
保科が来なくなれば、どうなのるか、こいつは分かっているのか。ついでだからという保科に買い物は全部任せている。今食べているパンも卵もハムも保科が揃 えてくれているものだ。それだけじゃない、ティッシュもトイレットペーパーも、石鹸もきらさないように補充してくれている。今、保科がやっていることを全 部まかされたら、新田にはやれる自信はない。それは時間という問題だけではなく。
保科に甘えている自覚はある。けれど、どうすればいいのか、新田には分からない。それを非難する雄太のことも。

食事が終わると、雄太はぷいっと外へ出ていってしまった。
近所の公園にでも行ったのか、友達のところでも行ったのか。思い通りにならないことに、八つ当たりでもしにいったのか。
新田はお湯を沸かしコーヒーを入れると、深いため息をついた。
きっと、これからどんどん雄太は難しくなってくるのだろう。自分達の関係をいつまで隠しておけるのか。知られた時、雄太はどうするのか。
「もしかすると」
雄太に二人の関係を知られたのだろうか、と新田は思った。
狭い家だ。保科があえぎを押し殺しているのは感じる。とはいっても、自分とて夢中になっている時に、どこまで抑えられているのかなんて分からない。自分が 思う以上の声が出ているとしたら、雄太に気づかれているかもしれない。
雄太は寝ていると思い、居間のソファで戯れているのを見られていた可能性もある。
雄太を一人にすることを嫌う保科は新田が保科の部屋へ来ることを好まない。必然的に、肌を重ねるのは新田の部屋になる。
それも、もう限界なのかもしれない。雄太に自分達の関係が知られること、それを保科は一番恐れている。

雄太が出ていってから、ものの五分も経たないうちに、玄関のドアが開いた。もう帰ってきたのか、と視線を上げた新田に保科の声が聞こえた。
「どういうことなんだ、雄太」
「だから、もういいって、それだけ」
「それだけじゃ、分からないよ」
雄太が内側のドアノブに手をかけたとき、保科がドアを手で押さえた。
「だから、もう明日から来てくれなくていいからっ」
雄太は言い捨てると、靴を放り出すように脱いで、自分の部屋へ駆け込んだ。
「雄太」
そう呼びかけた保科に、雄太は応えなかった。
――――あのバカっ
新田はそう頭の中で叫びながら身体は動かなかった。保科が今どう思っているのか、そう考えるだけで身体が強張る。
雄太の部屋のドアをしばらく見つめていた保科が、新田に視線を向けた。
「新田……」
顔を歪ませ、どうしたんだと目で問いかける。
「まあ、あがれよ」
そう言って、新田はテーブルに手をかけ席を立った。
保科は部屋にあがると、ダイニングテーブルの定位置に座った。いつも、雄太が座る席の隣。
「コーヒーでいいいよな」
保科に声をかけると、新田はやかんの湯の量を確かめ、コンロに火をつけた。
「いいよ、何もいらない」
保科はうな垂れると、そう呟いた。

新田がコーヒーの入ったマグカップを保科の前に置くと、保科がぴくっと顔をあげた。
「どうしたんだろう」
まるで、独り言のように呟く。
「いいんだよ、ほっときゃ。何もわからず、駄々をこねてるだけだ」
保科が来なくなったらどうなるか、そんなことを何もわからず。
「最近、ちょっと元気ないなと思っていたんだ。訊いても何も言ってくれなかったし」
「そうなのか?」
知らなかった。
「あ、でも、ほんのここニ、三日で。友達と何かあったようでもなかったんだ。それに、ちょっとぼっとしてるくらいで、ご飯もちゃんと食べていたし……で も、何かあったのだろうか、それとも」
それともの先は聞かなくてもわかる――――知られてしまったのだろうか。
可能性がないわけじゃない。肌を重ねないまでも、居間のソファで唇を重ねるのはいつのも事だ。いくら九歳の子供でも、キスがどういうことかは分かっている だろう。
「そんなことはないさ」
自分も感じている疑問であっても、新田は強く否定した。

「どうしたらいいんだろう」
呟く保科に
「いいんだよ、今まで通りで」
新田は軽く流すように言った。
深刻な問題だと、保科に受け止めて欲しくなかった。今以上、保科の気持ちを苦しめたくはなかった。
「ごめんな、我が侭でしょうがないやつで」
新田は手を伸ばして抱きしめたくなるのを、抑えながら言葉にした。雄太のことで、保科が傷つくことなんてないんだ、と思う。十二分に、してくれている。
「そんなことないよ。素直で優しい子だよ。我が侭なんて思ったことはないよ。仕事が忙しくて遊んでやれないときだって、文句ひとつだって言ったことない し、手伝いはいつもしてくれるし……何か言われたのかな、友達に」
その保科の言葉を新田は否定できなかった。
「後で、雄太に訊いてみるよ。そんな深刻ぶることじゃないって。雄太が言いだした事だ。お前も、しばらく雄太を放っておいて休めばいい。いつも、よくやっ てくれていると思うよ。ほんと、お前のおかげだよ」
一度視線を上げて新田を見た保科は再び視線を落とすと、かぶりを振った。
「そんなことないよ――――でも、しばらく会わない方がいいのかな」
「ああ、その方がいいかもな。直ぐに音をあげるさ」
一度懲りれば、分かるだろう。保科がどれだけ自分のことを思ってくれているか。どれだけ必要か。
「でも、心配だから、食事の支度だけはしておくよ」
「――――悪いな」
少し考えて、そう新田は答えた。
いいよ、と言ったところで、却って気になるのだろう。好きにすればいい、自分の思うように。そんな保科を新田は見守るしかできない。それはいつもの事だ。

せっかく入れたコーヒーを保科は口も付けずに帰っていった。
「気にすることないぞ」
そう最後にも声をかけたが「ああ」と答えた保科の耳には届いていないだろう。
今まで素直だっただけに、どうしたものかとため息しかでない。
ただ、取りあえず、雄太に真意は確かめなければいけない。なぜ、突然、保科に来なくていいと言ったのか。

新田が雄太の部屋をノックすると、反応は無かった。
「入るぞ」そう声をかけて部屋へ入る。まだ、カーテンが引かれた部屋は薄暗かった。雄太の姿はなく、ベッドの布団がこんもりと膨らんでいることで、その存 在を示している。
新田はベッドの縁へ腰掛けると、雄太に声をかけた。
「雄太」
布団の中で気配を押し殺しているのだろう、雄太は微動だにしない。
「保科はしばらくお前とは会わないって言っていたぞ」
布団の中からは何も反応が無かった。
「でも、食事の用意だけはしておくと言っていた」
食事の支度だけ、と言いながら保科は掃除やその他、雄太がいない時にやっていくつもりなのだろうと思った。それでは、今とあまり変わらない。新田を待つ必 要が無くなかっ た分、仕事に集中できるだろうが、きっと、そんなことはなくて、ただ、雄太の傍に居られないことが心配になるのだろう。それは、あまり良いことだ とは思えない。早く解決するにこしたことはない。
「いいよ」
くぐもった声が布団の中で答えた。
「じゃあ、どうするつもりだ。お前が自分で作るのか?」
簡単な手伝いをしていたみたいだが、一人で作れるとは思えない。
「父ちゃんが作ってくれればいいじゃん」
――え
痛いところを突かれた。そうできれば、確かにいいのかもしれない。
「できないから、頼んでるんだろ」
「やんなかったら、いつまでたってもできないじゃんか。父ちゃん、いつまで祐兄にやってもらうんだよ。変だよ、そんなの」
布団の中にくるまったまま、雄太が文句を言ってくる。
雄太の言うことは正論といえば、正論だから、新田は否定はできなかった。けれど、問題はそこじゃない。
「なんで、突然そんなこと言いだしたんだよ。保科が作ったほうが旨いっていって、俺がせっかく、何か作ろうかと言っても反対してたのはお前だろ」
休みの日に、ごくごくたまに出した提案は却下された。
「だって、ホントのことだもん。でも――――」
「でも?」
「変だよ。母ちゃんがいないとこは、みんな父ちゃんが作ってるか、どっかで弁当とか買ったりしてるよ。誰かが来て作ってくれるとこなんてないよ」
「いいじゃないか。お前は作ってくれる人が居て、ヨカッタだろ。それを誰かに言われたのか?」
誰かに何かを言われた。それしか、雄太が突然変化したことを説明できない。
「言われるよ。お前は父ちゃんが家に居ていいなあって」
「はあ?」
なんでそうなるんだと思った。
「弘樹も光輝も誠也も祐兄のこと父ちゃんだと思ってるもん。説明すんの面倒だから、いいだろって言っておいた」
は?
雄太の意外な答えに、新田は言葉がでなかった。それでは、友達からからかわれることもないだろう。確かに雄太の友達の前で自分の露出は少ない。せいぜい運 動会ぐらいか。雄太の友達が保科を父親だと思うのは自然なのかもしれない。

ならば、なぜ?
ただ、本当に雄太が思っただけなのだろうか。

雄太が起き上がると、被っていた布団を下ろして顔を出した。まっすぐな瞳を新田に向ける。
「父ちゃんから言ってよ。もう、うちには来なくていいって」
まっすぐな、思いつめたような瞳が見てくる。
「そう言って欲しければ、理由を言え。理由もなく言えるわけないだろ。お前がどうしてそう思ったのか、ちゃんと理由を言えば考えてやる」
もし、一番考えたくないことを雄太に言われたとしても、ごまかすことはできるはずだ。記憶は薄れていくだろう。違うと、強く言えば納得させることはできる だろう。
雄太は少し迷っていたようだった。まっすぐ見ていた瞳がぼけたようになる。鋭い光が消えて、虚ろになる。
「雄太、はっきり言っていいんだ」
口を開かない雄太を誘導するように新田は言った。うやむやにするわけにはいかない。平日の朝や夜にゆっくり話をする時間なんてあるわけはなくて、今を逃し たら来週になってしまう。その一週間が惜しい。
「――――祐兄、嫌いだもん。オトコのくせに料理が上手いなんてキモイじゃん」
雄太が視線を伏せるようにして呟いた。
新田がはっとしたした時には、雄太の頬が乾いた音をたてていた。
雄太が瞳を潤ませ、新田を見上げる。
「はっきり言っていいって言ったじゃんか。うそつきっ」
雄太は新田を睨みつけると、布団を被るようにしてベッドの上に丸まった。空気が一瞬にして硬くなったのを新田は感じた。
新田は熱を持っていた掌を握りこんだ。今まで、雄太に手を上げたことは無かった。初めて、それも感情的に手をあげてしまったことが自分のことでありなが ら、ショックだった。
「そんなのは理由にはならない。いままで通りだ。今、言ったことは保科には絶対言うなよ」
新田は自分の感情を押さえつけるように、それだけ言うと立ち上がって、部屋を出た。
胸の奥からドクドクと怒りが溢れてくる。言うに事欠いて嫌いだのキモイだの、なんでそんな言葉が並べられるんだ、と怒りしかでてこない。その上、うそつき だと? そんな言葉を理由だと認められるわけはない。
――――甘やかしすぎたのだろうか、母親がいないからと。
怒りの後には、情けなさが胸を締め付けた。
今までが順調すぎたのだろうか。これから――――これからどうすればいいと言うのか。

雄太は部屋に閉じこもったままだった。食事だと呼ぶと、ふてくされながらも部屋から出てはくる。しぶしぶといった感じでいつもの半分ほど手につけると、 「ご馳走さま」と言って、すぐ部屋へこもる。
今まで経験したことがない嫌な空気が家の中に流れていた。

夜、保科から携帯に着信が入った。
「どう?」と訊いてくる保科に「単なる反抗期だよ。ただ反抗したいんだろ」と伝えた。
友達から何か言われたわけじゃない、関係を知られたわけでもない、と新田は保科に告げた。
見られていたら、二人の関係を知られていたら、きっと違う言葉がでてくるはずだ。自分も非難されるはずだ。
少し様子を見ようということで結論を出した。
今まで保科に頼りきっりだった。それが嫌というほど分かるはずだった。

次の日の朝も、余分な言葉は一言もなく、「おはよう」と「いただきます」と「ごちそうさま」と「いってきます」をただのロボットのように口にして雄太は家 を出て行った。
新田が会社から家に戻ると、家の中は暗かった。当たり前だった、保科がいないのだから。雄太はいつも寝ている時間だ。
明かりをつけると、ふとダイニングテーブルの上に視線が向いた。コンビニの袋とおにぎりの包装パックがダイニングテーブルの上に散らかっていた。ご飯は炊 かれていたし、テー ブルの上には雄太の大好きなマーボなすがラップにをかけられていたし、コンロの上のなべにはたぶん味噌汁があるのだろう。見ただけで、分かるそれに手をつ けてはいないようだった。あきら かに当てつけだろう。
新田は散らかっているビニール類をまとめてゴミ箱に捨てると、椅子に座り、ため息をついた。
箸たてから自分の箸を取ると、ラップをはずす。
「これ、旨いのに」
呟きながら、なすをつまむと口へ放り込んだ。口の中にほんのり甘い汁があふれる。まろやかな甘さは保科のようだ。
「食べ物ではつられないってコトか」
大好きな、それこそ何を食べたいか訊けば一番最初に答えが返ってくるものを食べないということは、先が思いやられるな、と新田はもう一度ため息をこぼし た。
次の朝、保科が前日作っていったものをそのまま朝食でだすと、雄太は手をつけずに席を立った。
そして、ゴミ箱から昨日新田が捨てたビニール類を引っ張り出して、ダイニングテーブルに放り投げると、そのままランドセルを背負い家を飛び出して行った。 今日は「いってきます」も言わずに。
「雄太っ」そう叫んだ新田の声も無視して。

雄太が出ていったすぐ後で、玄関のドアが開く音がした。新田は雄太が戻ってきたのかと視線を向けると、そこには保科が立っていた。
「どうかしたのか?」
不思議そうな顔をしている保科に声をかけた。
しばらく保科は顔を見せないと思っていた。いつもなら、まだ雄太がいる時間だ。
「ごみを捨てに行こうとドアを開けたら、雄太が走っていく姿が見えて、ずいぶん早いから何かあったのかと――――」
言葉を止めた保科の視線はダイニングテーブルの上にあった。
自分が夕食にと作ったものが並び、コンビニの袋が無造作に置かれている。周りには、ビニールのくずが散らかっていて、どういう状況だったのかは、保科にも 分かっただろう。
新田はビニールの類を集めて、ごみ箱に捨てると保科に声をかけた。
「コーヒーでも飲むか。それくらいの時間はある」
保科は淋しそうな目をすると、かぶりを振った。部屋を出て行こうと後ろを向く保科に「待てよ」と新田は声をかけた。
立ち上がり、まだ三和土の上にいた保科を後ろから腕を伸ばして抱きとめる。
「祐紀」
抱きしめながら、名前を呼んだ。
ついこの間まで幸せだと思っていた。壊れてしまうのは、ほんのわずかな時間の間だ。
「雄太が戻ってきたら……」
保科が小さな声で呟いた。
「いいよ。雄太にお前より保科の方が大事だって言ってやるよ」
それは、きっと本音だ。雄太が可愛くないわけはない。自分の子供なのだから。けれど、それ以上に、保科は守ってやりたいと思ってしまう。
「だめだよ。冗談でもそんなこと言うなよ――――雄太の気の済むようにさせてやってよ。あの子なりに辛い思いだってしてるはずなんだから」
保科の言葉に、抱き込む腕に力を加えた。片手で顔をこちらへ向けると、唇を塞ぐ。こんなことでしか、気持ちを表せない自分が嫌になってくる。それでも、そ うすることしかできない。
唇を離した新田に保科は呟いた。
「僕なら大丈夫だから、亨は雄太をもっと気遣ってやって」
そして、笑顔を見せると新田の身体を押す。
「仕事遅れないようにね」
そう続けると、保科はドアを開けて出ていった。新田はしばらくその場から離れられずにいた。


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