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一度だけ……


「離婚?」
新田が驚いて横を向くと、保科は顔を前に向けたまま、ゆっくり頷いた。保科の手に持っていたグラスがはずみで揺れたらしく、かちゃりと氷が擦り合う音がし た。

カウンター席が五,六にテーブルが二つという小さいバーは、クラシックが邪魔にならない程度流れている。乳白色の壁に派手な装飾もなく、天然 木のテーブルが暖かい感じがする。落ち着いていて、静かな雰囲気が好きで新田がよく来る店だった。
もうひとつ理由を上げるとすれば、保科の会社に近い事もあり、ふらっと来ても保科がいる時があるからだ。
仕事が早く終わった時、良い事があった時、落ち込んだ時、もしかしたらという気持ちで新田は店のドアを開けた。
必ずこの店に保科がいるとは限らない。保科にも仕事があれば家庭もある。それでも、時間があると思うと新田は来ずにはいられなかった。

今日は保科に話があると言われて待ち合わせた。
一昨日、都合が良い日に会いたいと電話をもらい、今日にしてもらった。早く会いたかったがどうせならゆっくりし たい。時間を気にしないですむ週末の方が良いと思った。
たぶん、保科もそのつもりで電話してきたのだろうとその時思った。


「なんでまた? うまくいっていたんだろ」
いわゆる家族ぐるみの付き合いをしている保科とは、年に数回夫婦で会う。花見だったり、もみじ狩りだったり、食事会だったり。その時の雰囲気からは、うま くいっているように見えた。
ただ、この一年は新田の妻が妊娠した事もあり行事にかこつけて会う事はしていなかった。三ヶ月前、生まれた子供の顔を見に来た時が最後だったか。それで も、仲が悪いようには見えなかった。
「うまくいってたら、離婚なんてしないだろ」
 保科がグラスを掲げて揺らす。
琥珀色をした液体が左右に揺れ氷が音をたてる。まるで、壊れものが欠けていくような音だった。
「そりゃ、そうだろうが……もう 届けは出したのか、まだなら――――」
「一昨日出した」
言葉を遮るように保科が言った。
「そうか……」
新田は相槌を打つことしかできなかった。
いくら親しい友人とはいえ、夫婦の話をどこまで立ち入って良いものか分からない。保科のところには子供はい ない。夫婦共稼ぎで、バリバリ働いている から、離婚しても困る事はないだろう。それがかえってすれ違いになったのかもしれない。
「理由も聞かないんだな」
呟くように保科が言う。
「訊いてもいいのか」
新田が保科の顔をうかがうと、保科は少しこちらを向き、ふっと笑った。そのまま、グラスをあおる。空になったグラスは氷の音を響かせた。
「気が済むまで付き合うよ」
今できるのはそんな事しかないだろう、と新田は思った。 大学で知り合った保科とは十年の付き合いになる。三年前、保科は大学のゼミで一緒だった澤祥子と結婚した。同じゼミだったから新田も澤の事は知っ ていた。才色兼備と言われた彼女は行動力もあり、ゼミの華だった。そんな彼女は傍目にはっきり分かるほど、保科を気に入っていた。何でも言う通りになりそ うだからじゃないか、と陰口をたたかれていたりもしたが、保科本人はあまり気にしていなかったようだった。
澤が積極的にアタックして落としたというのが近くで見 ていて感じた事だった。あまり感情を表に出すことのない保科には積極的な澤があうのだろうと思った。関係が危ういと感じたことがない保科の離婚は、 まさに、青天の霹靂だった。



「――――ああ、だから、近くのホテルにでも泊まるよ。戸締まり気をつけろよ」
店の隅で新田は家に連絡を入れた。
向こうが切った事を確認すると携帯通話を切り電源も切った。
ピッチの早さから、保科が潰れてしまうだろう事は予想できた。だからといって、やめろよと言う事はできなかった。今の状況は分からないが、誰も待っていな い家へ帰る事は辛いだろうと思う。
保科のピッチに押されて、新田はほとんど飲んでいなかった。まあ、二人で潰れてしまったら目も当てられない。
新田は カウンターに突っ伏している保科の肩を叩いた。
「ほら、でるぞ」
保科が聞き取れない声を発しながら、かぶりを振る。
「もう、店終わりだからさ。どっか、ホテルでも行ってルームサービスでも頼もう」
その方が気兼ねしないで済むし、潰れたまま寝る事もできる。一月も半ば過ぎれば新年会シーズンも終わった頃だろうからホテルも空いてるだろうと思った。
保科がくっと少し顔を上げ、新田を見た。
「今日は気がすむまで付き合うと言っただろ」
そう言いながら新田が軽く保科の肩を叩くと、保科が顔を歪ませた。そして、もう一度顔を伏せると肩を震わせた。
人と別れることが楽しいわけがない。
辛い気持ちを少しでも肩代わりしてやれたらいいのにと思ってもそれはできない。せめてできるのは傍にいてやる事しかないと思う。
「さあ」
身体を持ち上げるように支えると、保科は一度鼻をすすり上げ、テーブルに手を付き立ち上がった。
新田は俯き加減の保科を支えるように、店の出口へ促した。
店の外へ出るとタクシーが待っていた。歩くのは無理だろうと思い、店で呼んでもらったやつだった。いつもは贅沢だと思うタクシーだが、今日は仕方ない。保 科を先に乗せ、新田も座席に 滑り込むと、手を回して保科の頭を抱き寄せた。
今日くらいは、神様も許してくれるだろうと思う。
いつも抱きしめたいと思いながらも我慢していた。
髪が指に絡む。顔を頭に寄せると、アルコールに混じって、汗の匂いがした。


ホテルの部屋はすぐに取れた。
別に景色も良くなければ、内装がすごいわけでもない、普通のビジネスホテルのダブルだった。どこでも良いと思ったから一番近くのホテルまでタクシーに行っ てもらい、そこで部屋を取った。シングルとダブルしかないと言われ、ダブルを選んだ。どうせ、ぐっすりと寝るつもりはない。
ルームサービスがあるわけはないが、近くのコンビニで何か調達してくれば良いだろうと思った。
とにかく、早く保科を横にしてやりたかった。


部屋に入ると、カードキーをテーブルの上に置き、抱えていた保科の身体をベッドの上に降ろした。
靴を脱がせて、「楽にしてやるから」と新田は保科に声をかけた。
反応は無かったが、横を向いている身体を仰向けにすると、保科は抵抗しなかった。揺れている瞳は焦点があっていないように天井を見上げていた。
新田が上着を脱がせようとすると、手で腕を捕まえられた。強い力じゃない、ただ軽く縋っているような感じだった。
「何?」
顔を向けると、保科が合わせてきた。視線が合うと、顔を歪める。
「気持ち悪いのか?」
新田が訊くと、保科はゆっくりかぶりを振った。口元が薄く開くから、何か言いたいのかと、新田は保科の口元へ耳を寄せた。
熱い息が耳にかかる、それだけで新田は身体の奥が疼いた。
「すき、なん……だ」
風のように、保科の言葉が頭の中を抜けて行った。
好き? 
確かに保科はそう言ったように聞こえた。
けれど、この言葉をどう理解したら良いのか新田には分からなかった。
ゆっくりと、新田は保科に顔を向けた。
聞き間違えでなかったら、今の言葉は誰に言ったものなのだろう、そんな疑問で頭が埋め尽くされる。
とおる――――そう、保科の口が動いたように新田には見えた。
大学時代、名前で呼び合っていた。社会人になり、いつからか、名字で呼び合うようになったのは自然だったような気もする。
享(とおる)、学生時代保科はそう新田を呼んでいた。
「俺?」
そう聞きながら、新田の心臓が大きく鼓動を始めた。
保科が小さく頷く。
それなりのアルコールが入っているから保科の意識がどこまではっきりしているのか分からない。
だいたい、なぜ、今頃そんな事を言うのだろうと思う。
いつも一緒にいた学生時代も、お互い違う会社に通いながらも週末には顔を合わせていた独身時代にもそんな素振りは見せ なかった。
それに、先に結婚したのは保科の方だ。
「俺は……男だよ」
新田はそんな事を言うつもりではなかったのに、言葉が勝手にでていた。
けれど、だから、告白する事はできなかった。一般的な指向ではない、保科にそういう指 向があるという確証はない。もし告白して避けられるより、友達でいる道を選んだ。
「分かって……るよ――――だから、言えな……かったんだ」
まるで新田の気持ちを読みとったように、保科が答える。時々声は詰まり、瞳は揺れていた。

「一度だけでいいんだ」
言いながら保科の腕が伸びて首に回り、そのまま引き寄せられた。
そんなに強い力じゃない。解く事も抵抗する事もできたのに、新田はされるまま頭を寄せた。
「抱いて」
保科にそう耳元で囁かれて、身体は熱くなった。
それは酒のせいじゃない。それほど飲んではいない。
「一度でいいんだ。とおるの幸せを壊そうなんて……思っていない、できるとも、思っていない。ただ、一度だけ」
保科がうわごとのように呟く。
一度だけ――――それは甘い誘惑だった。
好きだった。いや、今でも好きだ。保科は顔が小さくその整った顔立ちは中性的で、年上に受けるタイプらしく、可愛いと評されて先輩達に可愛がられていた。 その分、嫌がらせもあったみたいだが、本人は何も言わない。保科が無視されているのを見て、文句を言おうとしたら、保科自身に止められた事があった。いい よ、急がないからとその時保科は言ったけれど、何かの出欠を集めていたような気がする。事を荒立てる事を嫌い、いつも自分の中に収めていた。そんな保科を 愛しく思うようになったのはいつの事だか忘れてしまった。
好きだという気持ちはあいつを見守ってやる事で果たそうとした。触れたい、抱きたい、そう思った事がないわけではないが、望むだけ虚しい事だと諦めてい た。
保科が自分を想っていたというのは思いがけない事だった。
既に家庭がある今、恋に溺れるわけにもいかない。
けれど、一度だけ、想いを形にするのはいけないことだろうか?
そう、一度だけ。
 「俺も、好きだよ」
新田がそう言うと、保科の腕が緩んだ。
顔を上げて保科を見ると、驚くというより眉間を寄せ切なげな表情を見せる。潤んだ瞳が揺れている、その顔を見ただけで、身 体の奥が疼いた。
 「享」
か細い声が自分の名を呼ぶから、新田は思わず保科の唇を塞いだ。初めて触れた唇は、熱くて柔らかかった。
溢れてくる愛しさに何度も啄むように触れた。
そのうち、保科が 誘うように口を開く。舌を差し入れると、まだアルコールが残っている舌を絡めてきた。舌から感じるほのかなアルコールに酔わされてしまいそうだ、と新田は 思った。

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