横を見ると、圭は顔を伏せ、唇を噛んでいた。
「一旦、部屋へ戻ろうか。後で連絡くれるかもしれないし」
達也は圭に声をかけた。
その可能性は低いだろうと思う。けれど、今、何もできることはない。
「でも」
圭が顔を背けた。そのことに、胸がちくっと痛んだ。
「嫌かもしれないけど、今はそれしかないみたいだから。ごめん。寛樹はいいかげんなやつじゃないんだけど」
嘘は透けて見える。この状況は作られたものだとはっきり分かる。
圭と二人にして、何がしたいのか。
顔を伏せたまま動く気配のない圭の背中に手を触れた。
「な?」
促す言葉にぴくっと震えた圭の体は、達也の手を掃うように体を捻った。
宙を滑るように落ちた手を達也はきゅと握りこんだ。そんなに嫌われているんだ、と思った。
圭は小さく息を吐くと、旅館の入り口へ歩きだした。分かってもらえた、と達也は少しほっとした。
「ここでしたっけ?」
部屋の前で圭が確認する。
「あ、うん、そうだよ」
くもりガラスになっている引き戸のドアを開けると、上がりがあって、襖がある。部屋は続きで二間あって、手前の部屋に大きなテーブルと座椅子がおいてあ
る。飲みかけの湯のみを置いていったままだったのに、それは片付けられていた。部屋に上がると、圭は部屋の隅に並べられた鞄のうちひとつを取って、中を開
けると確かめた。
寛樹のものだと思うものは違っていたらしい。
圭はその鞄を肩にかけると、立ち上がった。
「僕、帰ります」
「え? どうやって?」
財布も携帯もない、と言っていた。
「小銭はあるし、陸続きなんだから、どうにでもなりますよ」
圭は視線を伏せたまま達也を見ようとはしない。
達也は圭の前に体を滑りこませると、後ろ手で襖をしめた。
「小柴さん、どいてください」
達也を見て圭が目を細める。
達也はかぶりを振った。
「もう遅いし、今晩だけでも、泊まっていけばいいだろ。金なら貸すから、明日帰ればいいだろ」
「いいですよ。あなたには借りを作りたくないし……」
圭が顔を背ける。
冷たい横顔にどこですれ違ってしまったのだろうと思った。
「俺といるのが嫌だって言うなら、俺が出ていくから、だから、お前はここにいろよ」
素直だった祐太郎が変わってしまったというのなら、それは全て自分の所為であるように思えた。受け止めることも拒むこともせず、逃げたと言った慎一郎は正
しかったのだと思う。
「あなたが出ていくことはないでしょう。最初にいたのはあなたなんだから」
「じゃあ、圭が行くっていうなら、俺も行くよ」
「どこへ?」
圭は達也へ視線を向けると怪訝そうに眉根を寄せた。
「圭を一人にはできないよ」
寛樹も一枚噛んでることだ。知らないでは済ませない。
圭は顔をあげ、宙を見上げると、大きく息を吐いた。
「そういう人でしたね、あなたは」
達也を一瞥すると、圭は鞄を隅へ放り、背中を見せた。窓際まで行き、しばらく窓の外を見ていた。
「帰るのは、明日にします」
窓に向かって圭は言った。
ほっとした達也に、引き戸が開く音がして、「失礼します」という声が襖の向こうから聞こえた。
「風呂に入りに行かないか?」
窓際の椅子に座りぼんやりと外を眺める圭に達也は言った。日は落ちて、窓の外は闇しか見えなかった。
食事が終わり、奥の間にはすでに布団が敷かれていた。
テーブル一杯に広げられた夕食は、品数を数えることが面倒だと思えるほどのもので、きっと味も良いのだろうと思う。ただ、会話もなく、ただ箸を運ぶだけの
食事は楽しいものではなかった。それでも、圭の目の前にいることを嬉しいと思ってしまう自分をバカだと達也は思う。
忘れなければいけない。それを寛樹も分かっていたはずだ。なのに――――。
「暢気ですね」
圭がぼそっと言った。
「え?」
「一緒に来た相手が誰かとどこかへ行ってしまったのに、気にならないんですか?」
あくまで、窓の外を眺めながら圭が言う。
「気にしても仕方ないだろ。あいつだって子供じゃないんだし、好きにすると言っていたから、好きにやってるんだろ」
気にならないはずはなく、ちょくちょく携帯をかけてはみるけれど、電源が入っていないというアナウンスは変わらない。
どうして? その疑問は堂堂巡りだ。
あからさまに分かるほど、嫌われているのに、どうしろと言うのだろう。それでも、手の届くところに圭がいることを喜んでいる自分がいた。はっきり拒絶され
たのに、今も、触れても拒まれるのに、口から出るのはきつい言葉ばかりなのに、それでも、愛しさは変わらない。
「……村瀬さんとは体だけの関係だって言うのは本当ですか?」
圭がぼそっと言った。
「誰がそんなこと」
誰にも知られてはいないはずだった。
「誰でもいいでしょう」
声は冷たい。
「……本当だよ」
知られたくはなかった。その先にあるのは軽蔑しかないように思えた。圭は何も言わなかった。ただ、真っ暗な窓の外を眺めていた。
「風呂、行きましょうか」
突然、圭が立ち上がった。
大浴場には白い湯煙が上がる中、数人しかいなかった。
ふと見た圭の右肩にほくろを見つけて、懐かしく思った。月日は流れ、体も大きくなっても変わらないものがある。
風呂の中で、圭が視線を合わせてくることは無かった。
湯上りに、脱衣室に置いてあった冷たい麦茶を一杯飲み、部屋へ帰ってきた。何か、とっかかりを掴みたかったのに、圭に隙はなかった。かける言葉が見つから
ない。
部屋へ帰り、窓際の椅子に座りながら、携帯を眺めていた。寛樹へラインをつなげても電源が入っていないというアナウンスは変わらない。
「寝ないんですか?」
圭が問い掛けてくる。
「あ、ん、もう少し」
特に理由があるわけじゃなかった。寝る気になれないだけだ。
「じゃあ、先に寝させてもらいますね」
圭は小さな明かりを一つだけ残し、後は消すと、布団の中に入った。
このまま、朝になって、そうしたら、圭を引き止める理由はなくて、日常に帰っていくだけだ。
好きなやつがすぐ傍にいて、でも、何もできない。
襲ってしまえ、って言うのか?
達也は携帯に向かって問い掛け、喉をごくりと鳴らした。
けれど、そんなことをして拒絶されたら。そう考えると、体は強張った。
「圭」
膨らむ布団に向かって声をかけた。もうこんなことは最後だろう。どうせ、嫌われているなら、もうどう思われても同じだろうと思った。
返ってくる声は無かった。
「もう、寝たのか?」
膨らむ布団はぴくりとも動かない。
「じゃあ、夢の中で聞いてくれよ」
達也は宙を見上げた。言うことができなかった自分の気持ちを全て洗いざらい言ってしまおうと思った。
「ずっと好きだった。圭はなんであの時答えてくれなかったんだって言ったけど、慎のことを考えるとできなかった。慎は大切な友達で、圭の兄貴で、圭に答え
るってことは慎を拒むっていうことで、どっちも大切だったから、結論を出したくなくて、逃げたんだ。エゴだよな。そんな嫌なやつなんだよ、俺は。そのく
せ、俺は、ずっと圭が自分のことを思ってくれると勝手に思ってた。どこにそんな根拠があったんだろう、と今なら思うよ。俺の中で、圭の時間は止まってたん
だな」
遠い記憶はきれいなままずっと心の奥に沈んでいた。
「そんな圭の時間を動かしたのは、圭、お前だった。お前と別れてから、かわいいと思った子もいた。いいやつだと思ったやつもいる。でも、好きだとは思えな
かった。どこか違う
と思った。それは、圭のことが忘れられないからだったんだ、と月日を越えたお前に会って分かったんだ」
それは、遅すぎたのだろう。傷ついたままの圭を放っておいて、今更好きだったもないものだ。
「好きだよ、圭」
これほど好きだったのだと、なぜあの時気づかなかったのだろう。
「今でも?」
圭の声が返ってきた。
「ん、今でも」
忘れなければいけないと思いながらも、忘れられない。
「僕は酷いこともしたし、酷い言葉も言ったよ」
空気は圭の声だけを伝える。
「圭がしたことや言ったことが酷かったかどうかは別にして、酷いことをされたり酷い言葉を言われてたからって嫌いになれたら、世の中はもっと平和だろう
ね」
嫌いになることもあるだろう。けれど、嫌いになれなくて、尚思いを募らせることもあると思う。そう簡単に割り切れるものじゃない。少なくても、自分にとっ
ては。
「ずるいよ……」
圭の声は震えていた。
達也は携帯をテーブルにおき、立ち上がると圭の横へ膝をつき、伏せがちの頭にそっと触れた。
「圭、ごめん。忘れることなんてできない」
きっと、できない。今、そんなことは考えられない。たとえ、好きだと思う人が現れたとしても、心の奥にずっと気持ちを持ちつづけているだろうと思う。
すっと降ろした手で頬を撫でると、その手は圭に捕まえられた。
そっと捕まえる、その手は嫌だからと振り払おうとしてようには思えなかった。
「圭、好きなんだ」
言い訳はしない。ただ、気持ちだけは分かって欲しい。
「本当に?」
「本当だよ」
「絶対?」
「絶対」
影になって表情はよく分からなかったけれど、何かが光ったような気がした。
「兄さんのことが好きだったんじゃないの?」
圭の声は震えていた。
「慎のことは……好きだよ、友達として。圭に対する気持ちとは違う」
達也は圭の頬の手を添えると、くいと自分の方へ向けた。圭は抵抗をしなかったから、達也はそのまま唇に触れた。
「そんなことすると、僕、何するか分からないですよ」
唇が触れたまま圭が呟く。
「いいよ。圭なら」
ちゅっと唇を啄ばんだ。圭になら、何をされても良い。それは嘘じゃない。
「また……酷い目に合いますよ」
ああ、そうか。そう達也は思った。触れることを拒むことも、視線を合わせないのも。それは全てそこに繋がるのだと思った。初めて圭の部屋へ行った時の震え
ていた背中は演技なんかであるはずはなかった。
「それは嫌だな」
圭の頭を抱きこんだ。愛しくて、胸が熱くなった。
「じゃあ――――」
圭が体を捻ろうとするのを、達也は背中へ腕を回して押さえた。
「だから、もう離したくないんだ」
体を布団の中へ滑り込ませて、圭の体を抱きこんだ。本当は、あの時もこうしたかった。
「自分で言ってること、分かってますか?」
圭の声も体も小さく震えていた。
「分かってるよ。あの時だって、こうやって一晩中でも抱きしめていたかった。でも、そんなことはできなくて、それは全部俺が悪いんだ。俺がお前のこと好き
だってはっきり言えばいいだけだったのに、それができなかったから」
「……本気で、そんなこと言ってるんですか?」
「本気だよ。謝るのは俺の方だよ。圭、ごめん。今更なのは分かってる。でも、許してくれるなら、俺は――――」
胸が一杯でその先は言葉にならなかった。
「俺は?」
圭が掠れた声で催促する。
「俺は、お前の一番近い存在でいたい」
誰も入る隙間のないくらい、いつも圭を感じていたい。それは、体も心も。
「あ……」
ため息のような声を漏らすと、圭は達也にしがみついてきた。
「圭、許して――――」
くれるか? そう訊きたかったのに、言葉を遮るように、圭に唇を塞がれた。