空を見上げて、その青さに達也はほっとした。出かけるとき、天気が良いに越したことはない。
「早く乗れよ」
助手席の窓を開けて、運転席に座っている寛樹が急かす。
「ああ」
答えるとすぐ、達也はドアを開けてシートに滑りこんだ。
「じゃあ、行くぞ」
シートベルトを締めたことを確認するように見ると、寛樹が言った。
「いいよ」
達也が頷くと、車はすっと発進した。
夏休みに旅行へ行こう、そう寛樹は言った。
どこへ行くのかを達也は知らない。車で行くことも今日初めて知った。車は会社のやつに借りたと寛樹は言った。
寛樹が決めたことに逆らう気持ちはなかったから、一度何処へ行くのか訊いた時に、着くまで楽しみにしておけと言われて、その後訊いていない。どこでも良
かった。
「道、大丈夫なのか?」
目的地は知らない。地図を渡されてもいない。
「一応頭には入れてきたけどな。まあ、いざとなったら、ナビ使うさ」
前につけられている小さなモニターを指差す。
「使い方分かるのか?」
達也に自信はなかった。
「まあ、なんとかなるだろ。急ぐ旅じゃなし、迷っても、それが楽しいかもしれないだろ」
「そうだね」
寛樹へ返すと、達也は窓外へ視線を向けた。寛樹が操作したのだろう、ラジオの放送が流れ出し、軽快な曲が流れてきた。
今晩、そう思うと熱くなる体がある。
景色は流れて、車は高速へ入った。
「寝ててもいいよ」
寛樹が声をかけてくる。
「ん」
相槌を返し、甘えてばかりだと思った。
「今晩は寝かさないから」
お決まりの台詞に笑いが零れた。
「運転で疲れるだろ。いいよ、無理しないで」
どかへ行くのかはわからないけれど、寛樹も運転は久しぶりのはずだった。持っていた車を入社してすぐ車検を機会に処分した。
「バカ言え。疲れてられるかよ」
「期待してるよ」
達也がそう言うと、寛樹はふっと笑った。
宿に着いたのは午後四時を過ぎていた。途中、湖と滝に寄った。少し、道にも迷った。車外に出ると、空気の色が違う気がした。匂いも、味も違った。
宿は旅館で、それはちょっと意外だった。ホテルの方が隔離される感がある。
部屋は和室で、内風呂とトイレがついていた。窓を開けると、奥深い林の中にいるような気がした。むっとした空気は感じなくて、ひやっとする清涼感があっ
た。緑の木々に光が差し込み、小鳥のさえずる音が聞こえ
た。
「夕食の時間はどうなさいますか?」
部屋係の人の声が聞こえて、振り向くとテーブルの上にはお茶が入れられていた。
「六時でいいよな」
テーブルについていた寛樹が達也に視線を送る。
「あ、うん」
別にいつでも良かった。
達也がテーブルへ戻ると、部屋係の人は頭を下げて部屋を出ていった。
「いいところだね」
せっかく入れてもらったお茶を熱いうちに飲もうと、達也は湯のみに手をかけた。
「そうだろ」
寛樹が得意そうに言う。
「ホテルかと思っていたよ」
三日間ずっと抱いていたい、そう寛樹は言った。
「まあ、あれだ。どうせなら、気分を変えたいと思ったからな」
「うん。来て良かった」
達也は湯のみに口をつけて、一口すすった。場所が変わったからと言って、全てが変わるわけじゃない。けれど、開放感はあった。ここに知っている人間は寛樹
しかいない。
「あ……」
突然、声をあげると、寛樹は立ち上がった。
「ちょっと、携帯が入ったから」
ズボンのポケットから携帯を取り出すと、寛樹は部屋を出て行った。
携帯?
電波状態が悪いのか、と思って達也は自分の携帯を出してみたけれど、アンテナは三本立っていた。
話を聞かれたくない?
今まではそんなことは無かった。一緒にいるときに、携帯の着信があった時もある。大概はそのままにしていた。しばらくすると、呼び出し音は止まる。留守番
電話サービスに回されたのだと思った。
寛樹が部屋を出て行くと、突然部屋が静かになった。
一人で部屋に残されて、少しの不安が胸に起こる。開けたままの窓から鳥のさえずりが聞こえてきて、ふっと心が和んだ。
寛樹を疑う理由はない。
外からの空気も気持ち良いとは思ったけれど、部屋には空調が流れていたから、窓を閉めようと達也はテーブルを立った。窓の外に顔を出して、空気を深く吸い
込ん
だ。それは緑に匂いがした。窓を閉めると、達也はそのまま外を見ていた。
木立は動かないのに、見ていて飽きるとは思わなかった。木々の息遣いが聞こえるような気がした。
ドアの開く音がして、寛樹が帰ってきたんだ、と思い振り向くと、達也はそのまま固まった。
入ってきたやつも、入り口を上がったところで、立ち尽くしていた。
「圭……」
まさか、こんなところで会うとは思わなかった。
「なんで……あなたが」
「それは……こっちの台詞だよ」
知っている人に会うと思っていなかった。それが、圭で、おまけに、自分の部屋に入ってくるなんていうのは、夢でさえ考えられない。
「あ……」
圭ははっとしたような顔をすると、部屋を飛び出して行った。
圭の後を追いたい気持ちはあった。けれど、強張った体は動くことを拒否したする。
「なんでだよ」
誰も答えてくれないと分かっても、口から出た。立っていることがやっとだった。
こんなことがあるはずは無かった。偶然でも、百パーセントありはずはなかった。寛樹も出て行ったまま帰ってこない。
達也は携帯から寛樹の番号を呼び出した。呼び出し音が鳴り、その後聞こえたのは留守番電話サービスへつなげるアナウンスだった。
不安が胸におこる。
もう一度鳴らした携帯も同じ結果だった。
いてもたってもいられなくなって、達也も部屋を出た。どこへ行けばいいのか分からない。けれど、待っていることはできなかった。
周りを見ながら、ロービーまで行くと、ガラスのドアの向こうに、圭の姿が見えた。車の横に立って、何かを言っているようだった。その車は、寛樹が会社のや
つから借りたと言っていた車に見えた。
自分の靴を出すのがまどろここしくて、達也は入り口に置いてあるサンダルを引っ掛けて、外へ出た。達也に気づいたのか、圭が達也を見た。かが
めていた体を
起こした圭の横を通り抜けて、車は道路へ出ていった。
はっとしたように後ろを向き車を見送ると、圭は呆然としたように立っていた。
達也はゆっくり圭に近づいた。
「圭、今の車は?」
寛樹が借りたという車と種類は同じだったと思う。けれど、車に詳しいわけじゃないから断言はできなかった。
「村瀬さんと松浦が――――」
圭の口から寛樹と圭の同期のやつの名前がでてきた。新入社員が配属されたその日、食堂で会ったやつだ。職場は寛樹と同じ階にあったはずだと思う。面識は
あっただろう
が、どれほど親しいかは知らなかった。少なくとも、寛樹の口から名前を聞いたことは無かった。
「なぜ?」
圭がここにいることもそうなら、寛樹はなぜ何も言わずに松浦とどこへ行ったのだろう、と思った。
「あっ」
突然、圭が大声をあげた。
「あいつ、僕の財布も携帯も……」
圭が唇を噛む。
携帯はともかく、財布まで?
「なんで、財布を……」
達也は口から疑問が零れた。
「あいつがフロントに預けに行くって、その方が安心だって言うから……」
圭が顔を伏せた。
「そうか……」
会社の同僚でもあるし、疑うこともできなかったのだろうと思えた。
達也は携帯を出すと、寛樹へラインを繋いだ。今度は出て欲しいと思った。車はもう、すでに見えない。
けれど、また、留守番メッセージサービスへのアナウンスが流れて、一旦切ると、またかけなおした。すぐに帰ってくるにしても、何かを考えているのか知りた
かった。
「はい?」
寛樹の声が聞こえて、達也はほっとした。
「どうなってるんだよ。何してるんだよ。どこへ行ったんだよ」
疑問が次次に口を出る。
「俺、今運転してるからさ。切っていい?」
「まてよっ。帰ってこいよ、すぐ」
傍にいてくれるはずだった。そう言ったはずだ。
「それは、できないな」
「なんでだよ!」
「今隣にいるやつと偶然ばったり出くわしちゃって、意気投合しちゃって。俺達は俺達で好きにやるから、そっちはそっちで好きにやってよ」
「何言ってんだよ。圭の財布や携帯も持ってんだろ。返しにこいよ」
帰ってきて欲しい、そう思った。ずっと傍にいてくれる、そう思っていた。
「え? お前、圭の財布とか携帯持ってんの?」
次に聞こえた声は携帯に向こうでの会話だと思った。確かに、誰かが一緒に乗っているのだろう。
「……帰ったら返すって言ってるから、必要だったら、お前が貸してやってよ」
「寛樹!」
呼んだ声に返ってきたのは、甲高い機械音だった。
通話を切って、もう一度ダイヤルすると、返ってきたのは電源を切っているというアナウンスだった。
アドレス帳を開くと、圭の携帯をダイヤルした。それも、電源が切られていることを告げた。
全て繋がるものを切られてしまった。
***
車の中でシートを倒し、横になっていたら、窓をこつっと叩くやつがいた。親指を上げて口元を緩めるやつを見て、寛樹はシートを戻した。そいつは反対に回っ
て助手席に乗り込んできた。
「送り届けてきましたよ」
シートベルトをしながら言う。
「じゃあ、行こうか」
寛樹はキーを回して車のエンジンをかけた。
そのまま、車を出したかったのに、前から車の進路を阻むように走ってくるやつがいた。
「うわっ、なんだよ。はやっ」
隣のやつが叫ぶ。圭と同期で松浦といった。職場の階が同じで給湯室で何度か顔を合わせた。それが話をするようになったきっかけだった。
寛樹はため息をつきながら、窓を開けた。このまま大人しく行かせてはくれないだろうと思った。
「なんだよ。松浦っ」
車まで走ってくると、圭は間髪をいれず運転席の窓から助手席へ向かって叫ぶ。
「って言ってますけど」
松浦が寛樹へ目線を送った。
「まあ、いいじゃん。俺こいつが気に入ったから、この先はこいつと行くから、お前はあいつと続きを楽しめば」
寛樹は圭を宥めるように言った。本音は半分。けれど、それがいいだろうと結論を出した。
「なんで、あなたまで。そんなことできないのは、あなたが一番分かっているはずだ」
圭が険しい顔をして突っかかってくる。そんなやつが大人しくなる呪文は知っていても、それは使いたくなかった。
「正直言って、もううんざりなんだよね。俺は楽しければいいの。昔のいざこざを持ってこられて重いのは勘弁だよ。あいつはお前の好きにすればいいじゃ
ん。協力してやるよ」
圭の険しい顔が解けて、呆然となった。
「どうせ、俺たちは体だけの関係だけだったんだ。お前がもらい受けてくれれば、後腐れなくて俺は助かるよ」
「そんな……」
圭は今度は困惑を顔に表した。
「村瀬さん」
松浦が腕を引っ張った。目線を追うと、旅館から達也がでてくる。これ以上面倒なことになるのは困るな、と寛樹は思った。
ちょうど、圭も気づいたらしい。圭も達也に気を取られていた。
今だな、そう思って寛樹はアクセルを踏んだ。ちょうど道路は空いていて、すんなり入れたことに感謝した。
「本当にいいんですか?」
達也へのラインを切って直ぐ、松浦が言った。
「自業自得ってやつだよ」
寛樹は呟いた。
余計なことを言った罰だと思っていた。さっさと諦めてくれと思う気持ちから出た言葉だった。その時はあいつに達也を取られたくはないと思った。
「俺にとっちゃあ、ラッキーですけど」
松浦は携帯を手の中で転がしていた。
なんか心配ごとでもあるんですか? そう声をかけてきたのは松浦の方だった。慰めてあげますよ。と言われて、こいつも同じ指向を持っているのだと感じた。
初めての時に酷い目にあった、と言ったのは達也だった。それをそのまま言っただけだ。そう思っても、後ろめたさがつきまとう。その言葉は必要以上の効果が
あった。
しばらくして、圭が部屋を訪ねてきた。
部屋に入れた途端、圭は膝をつき頭を落とした。
そして。
「ごめんなさい」
そう圭は言った。好きなようにしていい、とも言った。言う相手を間違ってるんじゃないの、と返したら、あの人は謝らせてもくれない、と圭は答えた。
謝ったら、きっとあの人はそれを全部自分の所為にして苦しむから。そう言いながら、圭は遠くにあるものを見るような目をしていた。
圭の言うことは当たっているのだろうと思う。
謝る必要なんてなくて、お前達はお互いに思いあっていると、そう知っていたのに、言ってやることはできなかった。
あれから気がとがめる。時々ぼんやりしている達也にも本人はその気はないと分かっていながら、責められているような気もした。このまま達也を手に入れて
も、素直に喜ぶことはできないと寛樹は思った。
「どうする? これから。車の運転代わるか? 自分の車は自分で運転した方がいいだろ?」
計画は松浦がいなければ成功しなかっただろう。
「いや、俺は助手席好きですから。ラブホ行きましょうよ。俺普通のホテルより、ラブホの方が好きなんですよね。気回さなくていいし。でも安いところは勘弁
ですよ。値段なりですから」
「ふん、ずいぶん慣れてるんだな」
「慣れてるのはホテルだけですから安心してください。相手はちゃんと安全な人に決めてましたから」
「まあ、信じておくよ」
気楽かもしれないと思う。気持ちがなければ、快楽だけ追えるだろう。
今は少し疲れたと思う。何も考えなくてすめばそれが楽だ。
「すぐ、忘れさせてあげますよ」
松浦が得意げに言う。
「期待してるよ」
そう言いながら、達也も同じことを言っていたなと思い寛樹は苦笑した。