ドアが閉まるのを見届けて、達也は圭へ視線を戻した。
「圭……」
何から言えばいいのか、達也は言葉がすぐにはでなかった。
「キスマークついてますよ」
圭が目を細める。
思わず、達也は首筋を手で覆った。少しきつく吸われただけだから、跡はすぐに消える。けれど、まさか、このタイミングで他人に会うとは思っていなかった。
「確かに、穴場ですよね。ましてや、こんな暑い日に誰もこないでしょうね」
圭が空を見上げる。
「圭、今じゃなくてもいい。俺の話を聞いて欲しいんだ」
もう時間はあまりない。約束だけでもしておきたかった。
「どんな話ですか?」
圭が少し顔を伏せる。口元だけが達也には見えた。
「この間……寛樹が言ったことは……違うんだ」
また蒸し返していいのだろうかとも思う。けれど、酷い目にあったとは思っていない。それだけは圭に分かって欲しかった。
「……小柴さん優しいから、僕のことかばってくれるけど、僕ちゃんと分かってます。どんなに責められても仕方ないことをしたんだ。だから、そんな、あなた
が僕のことを心配することはないんだ」
ぽつりぽつりとゆっくり言う圭の言葉は穏やかだった。
「違うんだ。俺は、俺は……圭が、好きだったから」
胸が熱くなって言葉が詰まる。
好きだったから、だから拒めなかった。なのに、そのくせ、圭の言葉にも答えられなかった。
圭がふっと口元を緩めた。
「じゃあ、なんで、あの時、そう言ってくれなかったんですか?」
穏やかな声なのに、酷く冷たく感じた。
「あの時は……」
慎一郎のことを考えると、圭の言葉を受け入れることはできなかった。その時は、とても大事だと思ったことが、今、単なる言い訳に思えた。
「また、そう小柴さんは言ったのに、何も言わずに僕の前から消えようとした」
「あれは……」
自分が慎一郎との間を裂いてしまうような気がしたからだ。自分が消えれば、時が全てを解決してくれると思った。自分の気持ちも。けれど、結果は思う通りで
はなかった。長い時をかけても、何も解決されなかった。
「言葉は便利なものだよね。あの時そうだったと言われても、それが本当なのか嘘なのか証明なんてできないから」
「圭、本当に、俺は――――」
「もういいよっ!」
突然の圭の大きな声に達也は言葉を失った。
「もう、やめてくれませんか? なんで、そんな昔のことをぐちぐち、今ごろになって言うんですか? 僕にどうしろって言うんですか? 」
「俺はただ、お前は悪くないから――――」
「本当にそう思っているなら、もうやめてくれませんか? はっきり言って、そんな昔のことうだうだ言われても、うざいだけなんですけど」
「圭?」
「そうそう、相変わらずきれいだから、ちょっとちょっかいだしてみただけだから、本気にしないで下さいね。付き合っている人がいるならちゃんとそう言って
くれない
と。トラブルはごめんですから。せっかく入った会社で、すぐにはクビになりたくないもんで」
「圭、本気で言っているのか?」
自分が知るのはそんなことを言うやつじゃない。
「本気ですよ。それとも、一生懺悔してろって言うんですか? お前は酷いことしたんだから、一生奴隷でいろとか言うんですか?」
「そんなこと言ってないだろ」
達也は話がかみ合わないことを感じた。分かって欲しいことを伝えられなくてもどかしくなる。
「じゃ、お互い忘れてすっきりしましょうよ。もう僕に構わないで下さい。避けてたの気が付きませんでした? はっきり言って、僕の過去を知ってるってこと
だけで、うざいんですよ。僕があなたを好きだったのはもう昔の話なんですから、もう、気安く話し掛けてこないで下さいね」
圭の感情の見えない冷たい表情が言葉を並べる。
達也は背筋を落ちる汗が冷たく感じた。さんさんを降り注ぐ太陽の光を嫌だというほど浴びているはずなのに、自分だけ違う空間にいるように体が冷たくなって
いく。
「じゃあ、僕、先に職場へ戻りますから」
圭が横をすっと通り過ぎていく。
達也は呼び止めることも振り返ることもできなかった。
達也は頭の中が真っ白だった。何も考えたくなかったし、考えられなかった。
「どうした? あれから」
寛樹がカップを手渡してくる。中では琥珀色の液体が波に揺れていた。
圭と屋上で別れてから、少し時間を置いて職場には戻った。職場に圭の姿はなく、少しほっとした。きっと実験室にいるのだろう、と達也は思った。
それから後の記憶は鮮明ではない。何をしても実感がなかった。夢の中というほど浮いた感じではないけれど、何か膜が自分の周りを覆っていて、自分が隔離さ
れているような気がする。
寮に帰って、食事を終えた後、今日は寛樹の部屋へ来ていた。
「何も……」
何を言われたのかはっきり覚えていなかった。ただ、もう圭の中には自分はいないんだ、とそれだけは思った。
「言いたいことは言ったのか?」
「ああ」
ずっと言えずにいた気持ちを伝えた。
「それで?」
寛樹が横に座る。
「寛樹に言われた通りになったよ」
「え? 俺が何か言った?」
「ちゃんと振られてこい、って言っただろ?」
「ああ、そんなことも言ったかな。だけど――――」
「だから、ちゃんと責任もってくれよ」
「え?」
寛樹の肩に頭を乗せた。
「ふられた……」
もう構うなと、話し掛けるなと言われた。圭の言い分は分かったし、当然だとも思った。圭にすれば忘れて欲しいことだろう。それを、ぐちぐちとしつこく言っ
ていたのだから、嫌がられて当たり前だ。
それでも、自分の中にいる祐太郎はあんな風には言わないだろうと思った。時が人を変えてしまうのは仕方ないことだ。自分がずっと心の中で大事にしていたも
のが、全てすっぽりと無くなってしまったように思った。胸の中が空っぽだった。
寛樹の腕が背中を抱え込み、頭に触れた手でくしゃっと撫でる。
「俺がいるから」
寛樹の唇が額にそっと触れた。
「ん」
もう何も悩むことは無くなった。
達也はカップに入っている琥珀色の液体に口をつけた。触れた瞬間冷たくて、体が一瞬強張ったけれど、柔らかい甘味を感じて、緊張が解ける。喉を通ると体に
沁みて潤してくれるように思った。
全てを寛樹に預けてしまえばいいと思う。
一気に飲み干すと、空になったカップをサイドテーブルの上に置いた。
「寛樹、いいよ」
「ん?」
「ずっと待たせてごめん」
達也は腕を寛樹の背中へ回した。
好きならば、大切ならば、その時、そう言うべきだった。
自分は甘えていたのだと思う。祐太郎はいつも自分を思ってくれていると、きっと心のどこかで思っていた。自分が戻ったらきっと祐太郎は向かえてくれる
と、そう思っていた。いや、思いたかった。だから、それを確かめることさえ、怖かった。会わなければ、確かめなければ、祐太郎はずっと自分のことを思って
くれていると、そう信じていられる。
もう会わないと本気で思っていたのなら、意味のないことなのに。
自分は何を期待していたのだろうと思う。けれど、そんな期待はぽっかりと穴をあけてなくなってしまった。それは、自分の中だけのことで、表立って何も変わ
ることはない。
なのに。
何もする気が起こらない。全てがどうなってもいいとさえ思う。
「いいのか?」
寛樹が抱きしめてくれる。
「ん」
大事に思ってくれているのは分かっていた。寛樹が望むなら、喜んでくれるなら、体を好きにされてもいいと思った。
こんなに好きだったのだと、失って初めて知った。自分がきれい事を言っていられたのは、祐太郎の気持ちを信じていたからだった。それが今無くなって、自分
の存在価値でさえないように思う。
「後からだめだって言っても、受け付けないぞ」
背中に寛樹の大きい手を感じる。
「ん」
こんな自分を望んでくれるなら、それがせめてもの救いだった。まだ、自分に生きている価値はあるらしい。
ゆっくりとベッドへ押し倒されて、目を閉じた。
何も考えていないはずなのに、温かいものが頬を伝って落ちていった。
寛樹の手は優しくて、唇も優しくて、温かくて、冷え切った体を奥から暖めてくれる。何も抵抗しなければ、全てが快感になっていく。体の内側を探られて、刺
激されて、感じて、それが喜びになって体中に広がっていく。
「ね……あ、あっ、もう……っ」
弾けてどこかへいってしまいそうで、寛樹にしがみついていた。
「もう、イきたい?」
耳に熱い息を感じて、体が震えた。
「ひろき……」
寛樹の頭を抱えるように寄せると、達也は自分から唇へ触れた。啄ばむように触れた後、小さく息を吐いて呟いた。
「欲しい……俺にはもう、お前しかいない……」
ぽっかり空いてしまったその穴を塞ぐ術を知らなかった。
「忘れさせて……」
思うことさえ許されないのならば、残されているのは忘れることだけだ。
「ああ、忘れさせてやるよ」
体の内側をかき回していたものが、すっと抜かれた。
自分が望んだことなのに、なぜか悲しくなって、顔が歪んだ。もう、圭を忘れなければいけない。そう圭が望んでいた。圭が喜ぶことを何ひとつしてやれなかっ
た。ただひとつしてやれることが忘れることであるのは、皮肉だなと思う。自分にとって大切な思い出が、圭にとっては思い出したくない出来事になっている。
「達也」
寛樹が髪を梳くように撫でた。
「何?」
「後悔しないんだな」
「ん」
後悔なら別のところにある。もう戻れない過去に。
「俺はちょっと後悔しそうだな」
え?
それは意外な言葉だった。欲しいと言っていたのは寛樹の方だったはずだ。
寛樹の手が肌を滑り、胸の突起を転がす。
「……ん、どうして?」
不安が頭を掠める。
「ずいぶん待たされたんだからさ、なんか演出が欲しいだろ?」
「演出?」
「夏休みに旅行へ行こうって言っただろ? 」
「ん……」
「そこで、三日間くらい、ずっと抱いていたいな」
ちゅっと唇へ触れると、そのまま唇は肌を沿って降りていき胸の突起を含む。手は下腹部に伸ばされると、ゆるく立ち上がっているものを包み込んだ。そのま
ま、寛樹は体を起こすと、自分のものを達也のそれと束ねて扱いた。
「ひろ……」
「ほら、手」
寛樹に手を捕まれて、握らされた。寛樹の動きに合わせて、互いのものを扱きあげる。初めはゆっくりと、滲み出る液が潤滑油のようになって、自然と動きは速
くなる。
「こっちもやってやるよ」
さっき抜かれたところへ、また指を差し入れられた。
「っ……あ、」
初めは痛みしか感じなかったところが、今は快感だけを感じるように変えられてしまった。
「いいだろ?」
問われて達也は何度も頷いた。
「楽しみにしてろよ。もっと感じさせてやるから」
寛樹の言葉に頷きながら、達也は死んじゃうよと、心の中で呟いた。今でさえ、意識が遠くなっていきそうになる。膨らむ熱をもてあますように、荒い息遣いが
部屋の中に響く。限界をこえて弾けた熱は、いつもはすっと引くのに余韻として残った。
「何処がいい?」
髪の毛を梳きながら、寛樹が訊く。
「いいよ、何処でも」
今だって構わない。寛樹が傍にいてくれたら、穏やかに過ごせると思う。
「海? 山?」
「寛樹がいればいいよ……」
景色を楽しむ余裕なんてきっとない。
ふっと寛樹が笑った。
「ずっと、そう言っていろよ」
「ん」
額を胸に寄せると、腕を回して寛樹を抱きしめた。
このまま、全てが終わってもいいと思った。