慎一郎が変えようと言った場所、そこは新しいマンションだった。
来る途中に慎一郎がかけていた携帯で、会わせたいといった人がだいたい分かった。
「お帰りなさい」
ドアをあけた途端に聞こえてくる声があった。
玄関先に出てきたのは、温かさを感じる笑顔をもった人だった。
「ああ、こいつが、達也」
「あ、はじめまして」
突然紹介されて、達也はあわてて頭を下げた。
「こちらこそ、はじめまして。慎がお世話になってます。狭いところですけど、どうぞあがってください」
彼女は笑顔を見せながら達也を招き入れるように手を開いた。
達也があがろうとすると、たぶん、リビングのドアだろうと思われる扉が開いて、小さい顔がひょこっと姿を見せる。小さい声をあげると、嬉しそうにこちらへ
這ってきた。
「珍しいものとかは無いんですけど」
そう言いながら、彼女はテーブルにつまみを数品並べて、酒の用意をしてくれた。
「あ、そんな、ごめんなさい。急に」
途中で何か買おうとしたのに、慎一郎にそんなことすることないと言われてやめた。やっぱり、何か買ってきたほうがよかったかな、とソファに座って思ったけ
れど、後の祭りだ。
「いいえ」
軽く笑うと、彼女は慎一郎の膝に収まっていた子供へ手を伸ばした。子供は慎一郎の顔を見上げた。目元がくりっとしていて、慎一郎によく似ていると思った。
「かあさんのところへいけ」
そう言いながら、慎一郎が頭をくしゃっとなでると、子供は彼女の方へ手を伸ばす。
「着替えとか用意してありますから、よかったら使ってください」
そう言いながら、彼女が奥の和室を示した。そこには布団がすでに敷かれていた。
「すみません。ありがとう」
達也が答えると、彼女はにこっと笑った。
「じゃあ、おやすみなさい」
慎一郎と達也を交互に見ながら言う。
「ああ、明日はゆっくりでいいよ」
そう言った慎一郎に彼女は小さく頷いた。
「おやすみなさい」
達也が言うと、彼女は軽く頭を下げてから部屋を出ていった。
かちゃっと小さなドアが閉まる音の後、足音は遠ざかっていった。
「いい人だね」
達也は横に座っていた慎一郎を見た。達也には幸せそうな家庭に見えた。
「ああ、だからお前は俺のことなんて気にしなくていいよ」
「俺は別に――――」
そんなつもりはなかった。
「とことん嫌われてやれればいいんだけどな」
慎一郎は言葉を一旦止めた。
「俺にはできないよ。お前には嫌われたくない」
そう続けると、ゆっくりと息を吐く。
みんなに幸せになって欲しいと思っていた。自分が犠牲になればそれでいいんだと思っていた。でも、それはみんなを不幸にすることだったのかもしれない。そ
う達也は思った。
不意に体に回された腕に抱きしめられた。
「慎?」
まさか、こんなところで何もできるわけはないとは思った。けれど、咄嗟のことに体は強張った。
「何もしない、だから少しだけこのままでいてくれ」
耳元に慎一郎の息を感じた。そのまま慎一郎は首筋で顔を埋めた。
「慎?」
達也は慎一郎の腕に手をかけた。
「お前に幸せになって欲しいとは思ってるんだ。他のやつだったら許せたかもしれない。でも、なんで、よりにもよって祐太郎なんだよ」
ぼやくように呟く。
「ごめん……」
自分でもどうしようもできない。
「なんで、そこでお前が謝るんだよ」
「ごめん」
「そんなお前だからって弱みに付け込む俺は最低なやつだな」
「そんなことないよ。悪いのは僕なんだ」
逃げた――――その言葉を達也は否定できなかった。
「お前もバカだよ」
「ん……」
幸せになって欲しいのに、みんなを不幸にしていく。
「幸せになれよ。誰も責めないから」
「ん」
自分の気持ちですら思い通りにならないことは分かっている。忘れたい。そう思うことほど、心の中に刻み込まれている。
「帰ったら、祐太郎に会いに行くよ」
今の状態から抜け出すには、それしかないと達也は思った。
決心するのは簡単だ。けれど、それを実行に移すのは難しい。
祐太郎に会いに行こうと思ってから実行するまでに、一ヶ月近くかかった。そして、祐太郎には会えず、慎一郎に会ってからほぼ一週間になる。社会人ならば会
うのは週末がいいだろうが、
時間だけは早く決めた方がいいはずだ。
携帯電話の番号は知っている。ボタン二つで電話は掛けられる。
昼休み、食堂で達也は寛樹と並んで座っていた。寛樹の手には達也の携帯が握られていた。
「電話しないの?」
寛樹が携帯の蓋を開け、アドレス帳をながめていた。
「でも、今、会社にいるだろ」
「でも、全国的に昼休みじゃねえの? そんなこと言って、いつかけるつもりなんだよ」
達也は答えに詰まった。
「夜は残業しているかもしれない。電車の中かもしれない。朝は忙しいだろうから、なんて言ってたら、電話する時間なんてないだろ?」
「明日は、休みだから」
「そんなこと言っても、どこかへでかけているかもしれないとか、忙しくて休日出勤かもしれない、なんて言うんじゃないのか?」
そう言う寛樹の言葉に達也に反論はできなかった。
「もう少し――――」
言いかけて達也は、はっとした。最近この言葉を何度言っているだろう。
「お前のもう少しは、放っておいたら一生終わらないよ」
寛樹は不服そうに言う。
そうかもしれないと達也は思った。祐太郎に会いに行こうと思ったのも、寛樹に散々急かされたからだ。
「俺はもう待てないよ」
寛樹が携帯のボタンを押した。その時、入り口から足音が聞こえて、思わずそちらへ視線を向けると、圭と圭の同期のやつが、三人自動販売機の前で立ち止
まった。
「なんにする?」
人が少ない食堂に、声が響く。
「俺が話しをつけてやるよ」
寛樹の言葉に、待って――――そう達也が言おうとしたとき、携帯からは呼び出し音が聞こえた。
一回、二回、三回。
「やっぱ、繋がらないみたいだね」
携帯に出られないところにいるのだろう、そう思って、達也はなぜかほっとした。
「後でちゃんとするよ、だから――――」
達也がそう言い掛けた時、圭が仲間から外れて窓際へ行くのが視界の端に写った。窓際でポケットから携帯を出し、耳に当てる。
「もしもし」
寛樹の持つ携帯から小さな声が漏れてきた後、突然通話は切れた。甲高い機械音を携帯は流す。思わず、達也が寛樹を見ると、寛樹は呆然とした顔をしていた。
圭へ視線を向けると、圭は携帯を耳から離し、画面を見て、そのまま折りたたんでポケットにしまった。
「お前、俺だましてる?」
寛樹が厳しい顔をする。
達也はかぶりを振った。
「それは、その名前も慎が入れたものだよ」
「慎?」
「友達だよ、祐太郎の兄貴だよ」
「じゃあ、偶然だって言うのか? 携帯を取るタイミングも、切れたタイミングも」
「そんなの分からないよ」
偶然、その言葉が達也の頭を過ぎっていく。それは絶対にないとは言い切れない。
ふと視線を感じて、達也が顔を向けると圭がこちらを見ていた。けれど、それは一瞬で、すぐに圭は同期の仲間と一緒に食堂を出て行った。