寮のロビーに圭がぼんやりと座っていた。達也に気がついてふとあげた顔は不安そうだった。
「行くぞ」
寛樹に強引に手を引かれ、達也は圭の横を通りすぎた。振り返ると、圭が呆然とした顔をしていて、達也はごめんと小さく手を上げた。
職場までは寛樹も付いてこないだろうから、その気になれば話をすることはできるだろうと思う。ただ、周りの目を無視することはできない。

『待てよ、俺も行くから』
そう言った寛樹に逆らえなかった。
寛樹の気持ちをはっきり聞いてしまった以上、この関係を続けてはいけないと思う。だからといって、すっぱり切れるものじゃない。寛樹は入社してから一番近 いところにいた。
寮を出ていつもの道を寛樹の後ろについて歩いていたら、突然寛樹が立ち止まった。それにつられるように達也も止まった。
「朝飯、買っていくか」
寛樹が指差した方へ目を向けると、コンビニがあった。
「そうだね」
寛樹がいなくても、達也はそうしようと思っていた。
寛樹を好きになれたら、どれだけ楽になれるだろうと思う。人間は忘れるものだというけれど、それは嘘だと思う。忘れたいことほど、いつまでも頭の中に居 座っている。
達也はコンビニでおにぎりを二つ手に取った。
「お前、それが好きだな」
寛樹が達也が手に持つおにぎりへ視線を向ける。
「ん」
鮭といくらはゆうたろうの好物だった。目につくとつい手に取ってしまう。そして、バカだなと思う。自分は何が好きだったのかは忘れた。

食堂の自動販売機で紅茶を買うと、窓際の席に座って寛樹と二人、おにぎりを頬張った。
「俺は本気だぜ」
寛樹がぽつんと言う。
寮を出る件だと、達也は思った。
「少し考えさせてくれよ」
答えは変わらない。
「また、少し……か」
寛樹が背もたれに体を預けて仰け反る。
「ごめん」
つい謝罪の言葉が口からでた。
寛樹のことは嫌いじゃない。けれど、気持ちに応えられないことに後ろめたさを感じる。今まで見ない振りをしてきた寛樹の心の中を示されてしまっては、もう 知 らない振りはできない。
「会ってくれば?」
「え?」
「その、忘れられないやつにさ」
そう言った寛樹の言葉に達也はゆうたろうの笑顔が脳裏に浮かんだ。
「もう俺のことなんて忘れてるよ、きっと」
あれから七年の歳月が過ぎた。きっと、彼女でもできて楽しくなってるだろう。
「いいじゃん、それで。現実をちゃんと見てこいよ」
寛樹を見ると、目が口元が優しく笑う。
「ちゃんと振られてこいよ。後は俺が引き受けてやるから」
胸が熱くなってきて、達也は顔を伏せ目を閉じた。
「な」
寛樹が肩を軽く叩く。
「ん」
声を出したら、熱いものが零れてきそうで、達也は相槌を打つと寛樹の胸に額を寄せた。



空は青かった。
梅雨が明けると気温はただ上昇していき、今は少し歩いただけでも汗をかく。
久しぶりに、達也は自宅へ向かう電車の中にいた。ターミナル駅から新幹線で三時間弱、それから乗り換えて20分ほどで達也が育った街に着く。
正月には帰らなかったから、一年は経っていた。
電話で母に帰省することを告げると、何かあったのかと心配された。正月、盆以外に帰ることは無かったし、それも一泊、二泊しただけでせわしく寮へ戻った。 こんな中途半端な時期の帰省を驚くのも仕方ないのか もしれない。
家について荷物をおろすと、慎一郎の家に電話をした。後でと思うと挫けそうだった。寛樹に急かされ、やっと達也はゆうたろうに会う決心をした。
あの日以来、圭と話すことはなくなった。あの日、実験室でぼんやりしていた圭に声をかけた。すぐ食堂へ行くと言ったのに、その約束は守れなかったから、謝 らなければいけないと思った。
「今朝はごめん」
後ろから声をかけると、圭は驚いたように後ろを振り返った。
「いいえ、僕が悪いんです」
いつもきれいな瞳がくすんで見えた。
「僕は小柴さんにとって、迷惑なだけなんだってよく分かりました」
「そんなことないよ」
達也はあわてて否定した。迷惑だと思ったことはない。
意外そうな顔をした圭がふっと笑った。
「そうやって優しいから、もしかしたらって思うけど、違うんですよね」
言いながら視線をそらす。
「迷惑だとか、思ってるわけじゃないよ」
気持ちには応えられない。けれど、それは迷惑とは違う。
「僕は大丈夫ですから……だから、幸せになってくださいね」
くすんだ瞳に光るものがあると思ったら、圭は向きを戻して、パソコンのキーを叩き始めた。ディスプレイに表示されるめちゃくちゃなコードがそれがポーズで あることは分かったけれど。
「お前もな」
どこかで覚えがあるような台詞が口から出てきて、達也はその場から離れた。
圭とはそれきりだった。
朝の時間は変えなかった。寛樹は何も言わなかったから、今までと同じ時間に食堂へ行き、寮を出た。なのに、圭の姿はなかった。食堂にも、更衣室にも、追 いかけてくる気配もなかった。予鈴のなる少し前、職場へ入ってくる。ほとんどの人が席に着いている状態だから、声をかけるきっかけもない。
これでいいんだ、と思いながら、心の端が少しづつ凍っていって、それが少しづつ欠けていくような気がした。
心の中の事は誰にも分からない。表向き平穏に戻った日常でも、変化はあった。
寛樹が以前とは違い、しかけてくるようになった。今まで嫌だと言ったことはしなかったのに、そんなことはお構いなしに攻めてくる。
「いいって言えよ」
内側をかき回されながら訊かれて、ただかぶりを振ることしかできなかった。
「ちゃんと振られてこいよ」
息があがり、気だるさをまとう体に囁かれる。度々繰り返されるその言葉に、
「ん、そうする……」
そう答えたのは、寛樹が受け止めてくれると思ったからだ。一緒に住もうと言われて答えられず、そのくせ別れたいとは思わない。そんな中途半端な関係にいつ までも甘えていてはいけない。リミットは近づいてくる。準備も入れると、年内には結論を出さなければいけない。どうせ出さなければいけない結論ならば、早 い方がい いだろうと、夏休みを待たずに、達也は帰省を決めた。土日の一泊。時間はない方がいい。

引き出しから高校の連絡網を出して、携帯から慎一郎の家へダイヤルした。
慎一郎の家は土地の旧家で、山を持ち工場を経営していた。慎一郎はその跡を継ぐことを決められていたし、慎一郎の祖母は弟のゆうたろうにも、親の仕事を手 伝う ことを望んでいたらしい。先が決められていることは安心ではあっても、つまらない。
『勉強したって……』
そうゆうたろうはよく呟いていた。
『何があるかわからないから、ストックを用意しておきたいんだろ』
と慎一郎は言っていた。離れに住んでいる慎一郎の祖母に達也はあまり会ったことがないけれど、家を継いでいくことが何より大 事だと思っていた人らしい。穏やかに見えた顔立ちが、慎一郎の言葉とは重ならなかった。
携帯は呼び出し音が三回なると、かちゃっと小さな音がして、達也の心臓がどきっと跳ねた。
「もしもし」
おばさんの声が聞こえた。
「小柴です。お久しぶりです」
名前を言って分かってもらえるのだろうか、名乗ってから達也はそう思った。
「まあ、達也くん? 久しぶりね。もう何年になるのかしら。慎なら、ここにはいないのよ。聞いてない?」
「あ、はい、しばらく会ってなくて」
しばらくどころか、卒業式以来だった。
「去年、結婚して、今は会社の近くのマンションに住んでるのよ」
「結婚!?」
意外な言葉に頭が真っ白になった。
「知らなかった? まあ、お式とかはあげなかったし、あまり昔のお友達には話してないのかもしれないけど」
「あ、そうなんですか……」
「ちょっと待ってね、携帯の番号を教えるから」
「あ、はい」
答えながら達也は、引き出しからメモ帳とえんぴつを取り出した。
「ええっとね――――……」
慎一郎の母が言う電話番号を達也は紙に写した。
「じゃあ、悪いけど、そっちにかけてみて、今日は仕事が休みで家にいると思うわ」
「あ、はい」
「じゃあね」
「あ……」
次の言葉を言う前に電話は切れた。聞きたかったのはゆうたろうのことだったのに、一言も聞けなかった。かといって、もう一度電話することはためらった。慎 一郎の友達であった自分がゆうたろうにどんな用事があるというのだろう。
達也は慎一郎の 携帯番号を書いた紙に視線を向けた。
「仕方ないよな」
ぽろっとぼやきが口から出る。時間はない。明日の午後には寮へ戻らなくてはいけない。



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