頬から撫でるように降りていった圭の手が唇に触れる。
「斉藤――――」
圭の手を掴もうとした達也の手は、反対に圭の手に捕まえられた。
「圭って呼んで。そう言ったよ」
圭の手は更に肌を伝い首筋を撫でる。その手がふっと離れたと思ったら、圭は達也が持っていたカップを取り上げ、サイドテーブルの上に置いた。
カップを視線で追いながら、達也はどうすればいいのだろうと思った。このままで終わるとは思えなかった。また触れてきた圭の手を、今度は掴んだ。
「圭」
そう呼ばないと、話はできないのだろうと思った。
「好きになってもいいでしょう?」
圭が覗きこむように見る。
「お前は男で、俺も男だ」
「だから?」
きれいな圭の瞳が小刻みに揺れていた。
「おかしいだろ? 男が男となんて」
「本当に、そう思ってる?」
圭の問いかけに達也は言葉が詰まった。
「村瀬さんと付き合っているのかと思ってた。でも、違うんでしょ?」
その問いかけに達也は答えられなかった。
突然立ち上がった圭に気を取られていると、あっという間に体はベッドの上に押し倒されていた。
「圭っ!」
掴んでいたはずの腕も反対に圭に捕まれて、押さえつけられていた。さらさらとした圭の髪が流れて顔の輪郭を隠す。
「好きなんだ」
真上からきれいな瞳が見下ろしていた。
「や……」
声を奪われるように唇ふさがれた。
「んっ……」
逃れようと顔を横に振っても、離してはもらえなかった。押さえ込まれている手が体の自由を奪う。
唇を深く合わされ、口内を舌に蹂躙される。舌を絡められ逃げると追ってくる。ぴちゃぴちゃと濡れた音が自分の耳に響いた。
やっと唇を離してくれた、と思うと圭は首筋に顔を埋めた。熱い息を肩口で感じながら、達也は大きく息を吸った。体が空気を欲していた。あからさまな抵抗は
したくなかった。圭を傷つけたくはなかった。
「あなたを誰にも渡したくない」
圭が耳元で囁く。手は達也の腕を離しTシャツの中へ差し込むと、肌をさわさわと撫でる。
「圭、やめろ」
自由になった手で圭の体を押したけれど、びくともしなかった。体は圭の方が大きい、体重をかけられたらかなわない。
内側に足を入れられて、下腹部を押さえつけられた。達也は自分の足に、圭のものを感じた。
こうやって押し倒されたことが前にもあった。何年経っても忘れらない記憶が達也の脳裏に蘇った。
あれは、高校三年生の夏休みだった。
両親が法事で親戚の家へ行ったから泊まりにこないかと、友達の慎一郎に誘われた。慎一郎には中学三年生の弟がいて、昼は冷房の効いた部屋でテーブルを囲ん
で三人一
緒に受験勉
強を
した。
慎一郎の家にはよく遊びに行っていて、弟のゆうたろうもいつのまにか仲間に入っていることが多く、ゆうたろうは達也に懐いていた。その時も、数学で分か
らないところがあると言われて、達也はゆうたろうに教えていた。
「夕食、どうする?」
慎一郎が突然思い出したように言った。外はまだ明るかったけれど、時間は午後の六時を過ぎていた。
「何でもいいよ」
達也に特に案はなかった。
「じゃあ、ホカ弁でも買ってくるか。お前も行く?」
慎一郎が達也に向かって言う。
「あ、うん」
立ち上がろうとした達也の手をゆうたろうが引っ張った。
「え、何?」
「まだ途中だよ」
ゆうたろうが不満げに言った。
「夕食の後でいい?」
聞いた達也の手をぎゅっと握ったまま、ゆうたろうは何も言わなかった。兄の慎一郎には直接反抗はしないまでも、不満げな顔をすることはよくあった。けれ
ど、達也の言うことにゆうたろうが反抗することは無かった。今まで
は、例外なく。
慎一郎は小さなため息を零した。
「まあ、いいさ。俺一人で行ってくるよ。何かリクエストある?」
「何でもいいよ」
達也はそう答えた。
別に好き嫌いがあるわけでもない。
「ホカ弁なら、ニコニコ堂のからあげ弁当がいい」
達也の手を握ったまま、ゆうたろうがぼそりと言った。
ニコニコ堂は駅の向こう側にある。確かに味はそっちの方がいいらしい。けれど、駅の手前にあるホカ弁屋と比べると、距離が二倍近くある。
「気が向いたらな」
慎一郎は気がないように言うと、部屋を出ていった。
「じゃあ、続きやろうか」
慎一郎が部屋を出て行ってから、達也は座りなおそうと、ゆうたろうの手を掴んで離そうとしたのに、ゆうたろうの手はしっかりと達也の腕を掴んでいて離して
くれなかった。
「ゆうたろう?」
名前を呼ぶと、ゆうたろうが顔をあげ達也を見る。
「手、離して――――」
達也はそう言ったのに、反対に腕を捕まれ後ろに押されて、ぐらっと揺れた体は床に倒されていた。
「ゆうたろうっ!」
まさか、そんなことになるとは思わなくて、抵抗はできず、驚きは声にだすことしかできなかった。
上からゆうたろうが見下ろしていた。
「好きなんだ……」
ゆうたろうの瞳は潤んでいて、口元は小さく震えていた。達也の体は一瞬で力が抜けた。
着ているものを脱がされても、手が肌を撫でても、唇に触れられても、力では抵抗ができなかった。それでも、理性は残っているのか、ゆうたろうの名前を呼ん
でやめて欲しいと口だけは訴えた。そんなものは、かえってゆうたろうを刺激したようだった。ろくに解されもせず受け入れた体は痛みしか感じなかった。それ
を唇を
か
みしめ痛みに耐えた。
「好きなんだ。あなただけは誰にも渡したくない」
そう何度も呟くように言いながら、ゆうたろうが体を揺らす。
その言葉に達也は答えることはできなかった。
「僕じゃ、だめ?」
涙を零しながら、体を離したゆうたろうが訊く。
その涙を拭いてやろうと、達也が手を伸ばしたときに、部屋のドアが開いた。
「ゆうたろう。面倒だから近くで――――」
慎一郎が言葉を詰まらせたとき、空気は凍り、時は止まった。
ゆうたろうはともかく、達也は脱がされたそのままで、じくじくと痛みを感じる体をかばうように、上半身を少し起こしたところだった。そのまま、慎一郎に視
線を向けたまま、達也の頭の中も凍ったように真っ白になった。
慎一郎の手から離れたビニール袋がばさっと音をたてた時、空気が動きはじめ色を取り戻し時間が戻った。
「おまえ……」
最初に言葉を出した慎一郎の声は震えていた。
「ゆうたろうは何も悪くない」
真っ先に達也の口から出たのはゆうたろうをかばう言葉だった。
「達也」
慎一郎が顔をゆがめる。
「本当だよ。悪いのは俺だ」
達也は慎一郎に訴えた。
慎一郎とゆうたろうに喧嘩をして欲しくなかった。悪いのは自分だ。その気になれば、抵抗できたはずだ。こんなことはいけないと言ってやらなければい
けなかったのに、それができ
なかった。
「お前、こいつをかばうのか?」
慎一郎がきつい視線をゆうたろうに向ける。ゆうたろうは顔を歪め、慎一郎の視線から逃れるように顔を伏せた。ゆうたろうの唇が小さく震えていた。きっと言
いたいことが
あるのに言えないんだと達也は思っ
た。優秀な兄に弟は逆らえない。
「ゆうたろう、ごめん。早く自分の部屋へ戻って」
達也が声をかけると、はっと顔を上げたゆうたろうが悲しそうに眉根を寄せる。
「でも――――」
そして、言葉を詰まらせた。
「今日はごめん、また……」
達也はとりあえず、この場からゆうたろうを逃がしてやらないといけないと思った。
また――――ゆうたろうの口がそう小さく動いたような気がした。
「だから、早く」
達也は促すようにゆうたろうの背中を手を押した。
ごめんなさい、そう小さく呟いたゆうたろうに、達也はかぶりを振った。自分より華奢で小さいゆうたろうに抵抗できないわけがない。ゆうたろうを受け入れる
ことは自分が望んだことだ。
自分の荷物をまとめて部屋を出て行こうとするゆうたろうを慎一郎は厳しい目で見ていた。手が拳を握り震えているのを見て、達也は「慎」と呼びかけた。そし
て、視線を達也へ向けた慎一郎に向かって達也はかぶりを振った。
仲の良い兄弟でいて欲しい。自分が揉め事にはなりたくない。その事しか考えられなかった。
ドアが閉まる音を合図のように、慎一郎は静かに達也のところまで来ると、膝を落とした。
「慎、ごめん」
達也は言いながら体を隠すように丸めた。ゆうたろうがいなくなって、自分の姿が急に恥ずかしく思えた。体を動かしたことで痛みが背筋を走り、顔が自然に歪
んだ。
慎一郎は一旦、立ち上がると、ベッドからタオルケットを持ってきて達也に掛けた。
「ありがとう……」
視線は床へ落としたまま達也は言った。
感謝の言葉さえ、達也は慎一郎の顔を見て言えなかった。タオルケットをもっと体の上まで引き上げようとした達也よりも先に、慎一郎はタオルケットで達也を
くるむようにして持ち上げた。
――――え?
驚いて、達也は慎一郎を見あげた。
「お前を持ちあげていられる自信なんてないからな、動くなよ」
厳しい顔のまま慎一郎は答えた。
反抗はできなかった。もう、体は浮いていた。ベッドへ静かに下ろされて、慎一郎の腕は体から離れた。
「ちょっと待ってろ」
そう言って、慎一郎は部屋を出ていった。
どうしたらいいのか分からなかった。動けば体が痛む。もしかしたら汚してしまうかもしれない。そう思ったら達也は動けなかった。じっとタオルケットを握り
ながら慎一郎が戻ってくるのを待っていると、戻った慎一郎は手に洗面器を持っていた。
「体、拭いてやるよ」
「慎……」
「きれいにしてやるから」
タオルを絞ると、慎一郎は達也の体を丁寧に拭き始めた。
「自分でやるよ」
手を出すと、その手はベッドへ押しつけられた。
「俺がやってやりたいんだよ。あいつの跡なんて全部消してやるよ」
慎一郎が吐き捨てるように言う。
「慎……」
「何?」
慎一郎が体を拭いている手を止めて達也を見る。その顔色からは怒りが読み取れた。
「忘れて。無かったよ何も」
二人の間を裂きたくなかった。
「おまえ……」
呟くように言うと、慎一郎は顔を背け、また手を動かし始めた。
「あ、そこは……」
声は届かなくて、触れられたことに激痛が走った。慎一郎は手にしていたタオルをちらっと見て洗面器へ落とすと、そのまま達也の体を抱きしめた。
「っ……」
揺らされた体に痛みが走る。
「なんでそんなにあいつをかばうんだよ」
「……慎の弟だろ……」
「それだけか?」
それだけだよ――――達也はそう声にはできなかった。自分が作る沈黙が達也には痛く感じた。
「くっ……」
小さな声を零し、慎一郎は更に強く達也を抱きしめた。
しばらく達也を抱きしめていた慎一郎は体を起こすと、達也にかけられていたタオルケットを突然はがした。達也は思わず体を隠すように捻ってしまい、痛みが
走り、顔が歪んだ。
慎一郎が上から達也を見下ろす。まるで、さっきのゆうたろうのように。
「慎?」
慎一郎の瞳がゆうたろうのそれに重なり、達也の胸の奥には恐れが生まれた。それが体を強張らせた。
「忘れて欲しいんだろ」
慎一郎が達也の肌に触れた。
「慎?」
「忘れてやるから」
肌に唇を落とす。
「慎?」
「忘れてやるから……いいだろ」
唇が肌を這う。手は下腹部に伸ばされる。
「慎……」
恐れとともに、達也の胸に痛みが走った。慎一郎に好きだと告白されたときはまだ寒かった。答えられなかった達也に、慎一郎はそれ以上求めなかった。
『いいよ、友達でも』
諦めたように言った慎一郎の言葉に達也は甘えてきた。
「達也……」
肌に慎一郎の熱い息を感じた。達也は慎一郎にされるまま、抵抗することができなかった。